――みつるぎ検事って、やっぱり、かっこいいよね。
そんなことを軽く考え始めたのがいけなかった。
裁判所ですれ違った時、法廷で成歩堂の隣に立った時、そして今、成歩堂法律事務所で二人が話しているのを後ろで見ている時、真宵の視線は、自然と御剣の方へ向かうようになった。
端正な顔立ち、どんな些細なことも見逃さない鋭い視線、そしてその口から飛び出す、理路整然とした言葉たち。彼の周りに全く女性の姿がないのが不思議なくらい、御剣怜侍という男は、女性を惹き付ける魅力を持っているように感じられた。
御剣のことを見つめていると、胸の鼓動が速くなる。御剣のことを考えると、胸がざわざわとして落ち着きがなくなる。最近の真宵は、そんな妙な症状に悩まされていた。
これはきっと病気だ、そうに違いない。そうは思ったけれど、その治療法を、真宵は知らないのだった。
「――それで、被害者のコイビトが?」
突然、成歩堂と話していた御剣の口から"コイビト"という言葉が飛び出して、真宵の心臓が飛び跳ねた。
コイビト。漢字で書けば、恋をする人。
――みつるぎ検事、やっぱり、コイビト、いるのかなあ……
一瞬の後、真宵の頭の中に想像が広がる。一つは、いつもの冷静な表情のまま、女性をエスコートしている御剣の姿。もう一つは、女性を前にどう行動すべきかうろたえている御剣。どちらも有り得ない話じゃないなあ、と思ったら、なんだか笑えてきてしまう。
でも、と真宵は思い直す。一番重要なのは、彼にコイビトがいるか、どうかだ。
訊いてみたい。でも、どこかにためらう気持ちもある。自分は一体どうすればいいのだろう。
そんなことを考えていると、いつの間にか、成歩堂と御剣の話は終わっていたらしい。彼らは次の裁判の話をしているようだったが、詳しいことはまだ、真宵はあまりよく知らなかった。
御剣は持ってきた書類をデスクの上でとんとんと叩いて整理すると、自分の鞄の中にしまいこんだ。
「さて……それでは、そろそろ帰るとするか」
「ああ。裁判は明後日だよな?」
「うム。担当は私とキサマ、だろうな」
「そうなんだろうな……」
成歩堂が小さくため息をつく。
「ね、なるほどくん。次の裁判、そんなに大変なの?」
真宵が尋ねると、成歩堂はいいや、と笑いながら首を振った。
「事件自体は単純なんだけどね。ま、相手がコイツだからな」
指を指された御剣が、ム、と眉を寄せる。
「それはお互い様ではないのか? 成歩堂。私もキサマからどんなイレギュラーな発言が飛び出すのか、いつも戦々恐々としているのだぞ?」
「ははは。まあ、そう言われても仕方がないけどな」
成歩堂は苦笑して、御剣の発言を肯定した。
その後で、成歩堂は思い出したように、真宵に尋ねた。
「そうだ、真宵ちゃん。真宵ちゃんももう帰るよね? うちに」
「あ、うん、そうだね」
「外、真っ暗だけど、大丈夫?」
そう言って、事務所の窓から外を見る。外は確かに、暗い。向かいのバンドー・ホテルの明かりがぽつぽつと見えるくらいのものだ。もう七時前だから、無理もないだろう。
だが、暗くなった後で自分の住むアパートに一人で帰ったことなど、何度もある。何もこれが初めてのことではない。
別にヘイキだよ、と言おうとしたちょうどその時、それを遮るように、御剣が思いがけない発言をした。
「なら、私が真宵くんを送っていこうか」
真宵の心臓が跳ねた。成歩堂と真宵の驚いた視線が、一斉に御剣のところへ集まった。
御剣は二人の表情を不審に思ったのか、またもや眉を寄せた。
「なんだ? 二人とも、キツネにつままれたようなカオをして」
「い、いや別に。真宵ちゃん、どうする?」
「あ、あたしは、別にそれでもかまわないけど……」
肯定とも否定ともとれない発言をすると、御剣が真宵の方を振り返り、微かに傷ついたような表情を見せた。
「真宵くんがイヤなら、何も、無理にとは言わないが」
「あ、そ、そうじゃなくて! じゃあ、送ってください、みつるぎ検事!」
真宵が力一杯に言うと、御剣はわずかに表情を緩めた。
「そうか。それでは行くとしよう。成歩堂、邪魔をしたな」
「ああ、じゃあまた今度、法廷でな」
御剣にそう言った後、成歩堂は真宵に向けて笑顔を見せる。
「じゃ、真宵ちゃん。気をつけて帰ってね」
「うん。ありがと、なるほどくん」
真宵は成歩堂に手を振った後、帰り支度を済ませ、御剣と並んで事務所を出て行った。
「寒くはないか?」
外へ出ると、御剣が真宵にそう言った。真宵は驚いて顔を上げ、首を横に振った。
「ううん、大丈夫です!」
「そうか、ならいいが」
御剣は黒いコートを羽織っていた。対する真宵が纏っているのは、いつもの装束のみだ。三月の中旬とはいえ、まだ夜は冷える。それを気遣ってくれたのだろうが、真宵はこの寒さに、もうとっくに慣れてしまっていたのだった。
住宅街を歩きながら、真宵は御剣を見上げる。御剣は、いつもの表情のままだった。とくん、と心臓が跳ねる。またあの症状かな、と、真宵はため息をつきそうになった。胸がざわざわして、どうしようもなく苦しくなるのだ。
「ね、みつるぎ検事」
真宵が声をかけると、御剣は少し歩くスピードを落として、真宵の顔を見た。
「ん? なんだ?」
「あ、あのね。最近、あたし、ビョウキになったみたいなの」
「……何?」
真宵がためらいながらもそう言うと、途端に御剣の表情が変わった。
さっと黒いコートを脱ぐと、御剣はそれを、真宵の肩に被せた。ふわっと風が起こって、真宵の肩が、ぽかぽかと温かくなる。今まで御剣が着ていたから、その熱が残っているのだろう。そう思った途端、真宵の顔まで熱くなった。
その後、御剣はたしなめるような口調で言った。
「そんな薄着をしているからだろう。三月とはいえ、まだ夜は寒いのだぞ」
「あ……そ、そうじゃなくて……」
「ム、風邪ではないのか?」
真宵は首を横に振る。御剣は安心したような、そうでないような、複雑な表情を浮かべた。
「なら、何の病気だというのだ? 医者には診てもらったのか」
「う、ううん。そうじゃなくて、あの……」
真宵は言うべきかどうか迷って、目を伏せた。
症状が症状だから、その病の原因がどこにあるのか、真宵にも分かる。あの症状は、成歩堂や糸鋸刑事といった、御剣以外の男性の前では決して起こらない。御剣の前だけ、なのだ。その本人に言っても良いものか、決断できなかった。
「真宵くん、気になる。言いかけたからには、ハッキリ言いたまえ」
「は、はい……」
法廷でいつも出している、叩き付けるような厳しい言葉が降ってきて、真宵は心を決めざるを得なくなった。
顔を上げて、御剣を見る。御剣の表情は、真剣だった。
「みつるぎ検事は、ヒトの顔を見てドキドキしたり、胸がざわざわしたりすること、ありますか?」
それは、御剣にとっては思いがけない質問だったのだろう。御剣は一度、ム、と言葉を詰まらせた。
「そう、だな。ないとは言わないが……では、真宵くんの"ビョウキ"というのは――?」
「そ、そうなんです!」
真宵は御剣に向かって、力一杯頷いた。
「あたし、最近、ヘンなんです。ドキドキして、落ち着かないの。そのヒトの顔を見てると」
御剣はふむ、と頷いた後、ごほん、と咳払いをした。
「それは……そのヒトというのは、男か?」
真宵がこくりと頷くと、御剣は眉間にシワを寄せて、難しい顔をした。御剣の顔色を窺うようにして、真宵は再び尋ねた。
「あの、みつるぎ検事。知ってますか? このビョウキを、治す方法」
「ム……」
苦しんでいるような唸り声が、御剣の口から洩れる。真宵はどきどきしながら、御剣の答えを待った。
しばらくした後、やがて御剣の口が、ほんの少し開いた。
「私のスイリが、もし正しいとするならば」
御剣のためらうような言葉が、ぽつんと洩れる。
「君の"ビョウキ"は、医者には治せない。きっと、私にも。――その男しか、治せないだろう」
「そ、そのヒトにしか、治せない……?」
「そうだ。真宵くん、君はその男に恋をしているのではないか?」
体中を、衝撃が走った。御剣が着せてくれたコートのおかげで寒くないのに、体がぶるぶると震える。
コイ。その人のことを、すごくすごく、好きになること。
だったら、と真宵は思った。自分のコイの相手は、今まさに自分の前に立っている、御剣怜侍ということになる。
真宵が何か言う前に、御剣が言いにくそうに言葉を発した。
「無論、ただのスイリだ。なんのコンキョもない」
それは、今までの御剣自身の発言を打ち消すかのような言葉だった。
けれど、真宵の心に浮かんだ思いまで打ち消すことはできなかった。コンキョはないと、御剣は言った。だが、真宵には思い当たることがいくらでもある。今日、御剣にはコイビトがいるのかいないのか、気になっていたのも、そのコンキョの一つだ。
――マックスが、言っていた。本当にコイをしたら、その人を写す鏡にさえ、シットするものだって。
マックスというのは、世界的な魔術師、マクシミリアン・ギャラクティカのことだ。彼もミリカという女の子にコイをしていた。そして、自分のコイについて、そう語っていた。
嫉妬という感情を抱いたことはあまりない。だが、その感情を真宵は知っている。真宵は先程まで、いるかどうかもわからない御剣のコイビトに、知らず知らずのうちにシットしていたのだから――
「真宵くん、今のは忘れたまえ。――真宵くん?」
御剣の言葉は耳に入らなかった。真宵は覚悟を決めて、御剣に言った。
「あの、じゃあ、治してください、みつるぎ検事!」
「な。何を、だ?」
「あたしのビョウキです。みつるぎ検事なら、治せますよね!」
御剣は面食らったような顔をした。その後で、冷静にいやいや、と首を振った。
「真宵くん、先程も言ったが、私には治せないのだ。私は医者ではないし、真宵くんが気にしているその男とも、違う」
「違いません! だって……」
真宵はすう、と空気を飲み込んだ。
「あたしが、ドキドキするのは……その、みつるぎ検事を見てる時、だから……」
御剣の目が見開かれた。と同時に、真宵は顔を伏せていた。
顔が熱い。顔だけではない、体のてっぺんからつま先まで、熱くなっているような気がする。心臓の鼓動も速くなった。まるで、喉から心臓が飛び出してしまいそうな気持ちだった。
「その、真宵くん。それは、ほ、本当か?」
真宵はこくん、と頷いた。
その後、御剣のため息が聞こえて、真宵の体はびくりと震えた。嫌がられてしまったのだろうか。一瞬恐れたが、次の御剣の言葉を聞いて、真宵は耳を疑うこととなった。
「まさか、真宵くん、君まで私と同じ症状に悩まされていたとはな……」
「え……お、同じ……」
真宵は顔を上げて御剣を見た。御剣は今まで見たことのないような、何とも言えない複雑な表情をしていた。
「私はその感情の正体に薄々感づいていた。だが、認める勇気がなかったのだ」
「じゃあ、みつるぎ検事も……」
「そうだ。どうやら私は、その。君にコイをしているらしいな」
視線を逸らしながら、御剣はそう言った。
真宵の心の中にあった冷たい氷が溶けて、温かい水になっていくような感覚だった。本当に信じられないが、御剣も、真宵に同じような感情を抱いていたらしい。
「でも、どうして。どうしてみつるぎ検事が、あたしを……」
「それは……私も訊きたい。真宵くん、どうして私を?」
互いに同じ質問を交わし、答えに詰まる。きっかけは、御剣がかっこいいということを軽く考え始めたことだった。だが、それは理由になるのだろうか。そんな安っぽいものではない。何故だか真宵は、そんな気がした。
そんなことを考えていると、御剣が一つ咳払いをした。
「すまない。くだらない質問だったな。そんなことは今、どうでもよい」
「み、みつるぎ検事?」
「今大切なのは、私たちの気持ち、だ」
御剣はそう言うと、真宵の目を真っ直ぐに見た。
「真宵くん、君は、ハッキリ言えるだろうか。自分の抱いている感情が、コイだと」
「あ……は、はい。言えると思います」
真宵は頷いた。自分の気持ちの移り変わりを振り返ってみて、出した結論だった。
「うム。それでは、例えば、成歩堂の前でも言えるか? それを」
「な、なるほどくんの前で?」
真宵は戸惑った。成歩堂の前で、御剣にコイをしていると宣言する。恥ずかしい思いが立ちはだかってくるが、しろと言われたなら、実行できるような気がした。
「はい、あの、みつるぎ検事が、そうしろって言うなら……」
「よろしい」
御剣は頷いた。
「それでは真宵くん、明日、十時に集合だ。証言を要求する。自分の気持ちについて」
「は、はい!」
真宵は驚いたが、反射的にそれを受け入れていた。
「無論、私も証言しよう。同じことについて。成歩堂法律事務所という、法廷でな」
はっきりと通る声で、御剣はそう言った。
真宵は覚悟を決めた。ここまで御剣が言うなら、やるしかない。ぐっと、胸の前で拳を握りしめる。
「が、頑張りましょうね! みつるぎ検事!」
「うム。……そう、だな……」
わずかに御剣の声が揺らいだ気がしたが、きっと真宵と同じように、今になって恥ずかしさが声に出たのだろう。真宵はそんな御剣に力を与えるように、彼の大きな手を握った。御剣が驚いたように、真宵を振り返った。
「大丈夫ですよ! みつるぎ検事。あたしがついてますから!」
「う、うム。そうだな。真宵くん、ありがとう」
そう言って、御剣は真宵の手を握り返してきた。それは大きくて、真宵よりも力強くて、真宵の小さな手をすっぽりと覆った。
真宵は今、手を繋げるほど御剣の近くにいて、そして彼の顔を見ている。それでも、真宵の心は以前のようにざわめくことはなかった。むしろ、心強くなれた気がした。明日、いきなり法廷で証言しろ、と言われていたとしても。
――やっぱり、あたしのビョウキを治せたのは、みつるぎ検事だったんだ。
真宵はすっきりとした気分になって、もう一度、ぎゅっと御剣の手を握った。