ミス・ステップ

 かあっと、体が熱くなった。
 目の前に広がっている光景が信じられなくて、思わず目を逸らしたくなる。でも、いけない。ここで逸らしちゃダメだ。真宵は懸命に、折れかけた心を奮い立たせた。
 御剣の住んでいるマンションは、成歩堂法律事務所から少し離れた場所にある。だが、歩いて行けない距離ではない。真宵は事務所を出た後、帰る途中に、御剣のマンションへ寄ったのだ。少しばかり、御剣の様子を見に行くつもりだった。
 今日御剣とデートの約束をしていた真宵は、数時間前、御剣からキャンセルの電話を受けた。
「急用が出来たのだ。だから、すまない。今日は会えそうにない」
 真宵は心底残念に思いながら、分かった、と頷いた。彼は検事だ。忙しいのは百も承知だし、急用が入ることだってあるだろう。彼の仕事については、理解も納得もしているつもりだった。シゴトとアタシ、どっちが大事なの、なんてわがままを言う女にはなりたくなかった。
 電話の向こうの彼はやや疲れた声で、そして、急いでいる様子だった。あの御剣のことだから、たとえ疲れても無理をして仕事をしているのではないだろうか。真宵は心配になって、事務所を閉めた後、御剣のマンションに寄って行こうと決意したのだ。
 だが、マンションに着いた真宵を待ち受けていたのは、とんでもない光景だった。
 ――みつるぎ検事、女の人と一緒にいる……!
 口元に微笑みを浮かべている、きりっとした美しい顔立ちの女性。どこかで見たような顔だったが、思い出せなかった。プロポーションも完璧で、御剣の隣に寄り添うと、本物の恋人同士のように見えた。真宵は思わず自分の体を見ていた。みじめな気分になった。
 二人は御剣の部屋の扉の前でしばらく何かを話していたようだが、やがて、二人で部屋に入っていった。真宵の体がぞくりと震えた。犯罪でも目撃してしまったかのような気分だった。
「急用じゃ、なかったの……?」
 マンションの前で、真宵は立ち尽くした。真宵との約束を一方的にキャンセルし、部屋の中に女の人を連れ込むなんて、一体どんな急用だというのか。
 じわじわと、絶望、その後で怒りがこみ上げてきた。御剣はこんなことをする男ではないと思っていた。だからこそ、余計にショックが大きい。
「み、みつるぎ検事なんか、もう知らない!」
 真宵は勢いよく体を翻し、御剣のマンションを去った。その目には、うっすら涙が浮かんでいた。


 次の日。裁判が終わって法廷から出てきた真宵は、すこぶる不機嫌だった。昨日のあのことが、まだ尾を引いていたのだ。いつもなら、一晩寝てしまえば嫌なこともさっぱりと忘れられるはずなのに、あのことだけはまだ、忘れることができなかった。
「真宵ちゃん、どうしたの? なんか今日は不機嫌だね」
 成歩堂がやや心配そうな声で尋ねてくる。真宵ははっと我に返り、成歩堂を見た。彼には、事情を話してもいいかもしれない。御剣の幼なじみである彼なら、彼の昨日の行動について、何か分析してくれるかもしれない。
「あ、あのね、なるほどくん――」
 言いかけた、その時だった。
 成歩堂の視線が真宵から別の方向へ移り、真宵もつられてそちらを見た。瞬間、心臓が止まりそうになった。真宵の不機嫌の原因である御剣が、大量の書類を抱えて廊下の向こうから歩いてきたからである。
 彼の顔はうつむきがちだったが、どこか疲れているように感じられた。
「御剣!」
 成歩堂が声をかけると、御剣は顔を上げた。その瞬間、真宵は思わず御剣の顔から視線を外していた。
 二人の前で立ち止まり、御剣は尋ねた。
「どうしたんだ? こんなところで。これから裁判か?」
「いや、さっき終わったばかりなんだ。御剣こそどうしたんだよ、そんなにいっぱい、書類抱えて」
 御剣は脇に書類を抱え直すと、大きく息を吐いた。
「ああ……今、担当している事件のものなのだが。予想以上に大きいものでな……」
「そうか。あんまり、無理はするなよ」
「ああ。昨日も予定外の急用が入るし、最近は散々だ」
 御剣の口からもう一つ、大きなため息が洩れた。
 だが、真宵にはそれが白々しく聞こえた。自分と会わずにあんなにキレイな女の人と会うことが、急用? しかもそれを、さも辛いことだったかのように言うなんて、ヒドすぎる――
 真宵の拳がぷるぷると震えた。我慢ができなくなって、思わず御剣に向かって叫んでいた。
「みつるぎ検事のウソつき! 急用なんて、なかったんでしょ!」
 叫んだ瞬間、成歩堂と御剣がほぼ同時に真宵を見た。口を開いて、驚いた顔で、真宵をじっと見つめている。
 真宵は御剣の目をぎっと睨んだ。すると、御剣はややたじろぐ様子を見せた。
「わ、私がウソつき、とは、一体どういうことなのだろうか。真宵くん」
「トボけないでください! あたし、ちゃんと見たんだから!」
「み、見た? 一体、何を……」
 御剣は微かに首を傾げた。完全に動揺するだろうと思っていたのに、何故だか本当に分かっていない様子だった。
 真宵は不審に思ったが、そんなことはこの際関係ない。その態度が演技であれ本当のことであれ、きちんとここで決着をつけておかねばならない。
「みつるぎ検事が昨日、マンションの部屋に女の人を連れ込んでたところ。あたし、ちゃんと見たんだからね!」
 力一杯言い放った後、いつも成歩堂がしているように、人差し指を御剣に突きつけた。
 御剣は、今度こそ明らかに動揺する素振りを見せた。ぐ、と小さく呻く声。そして、徐々に赤みを帯びていく顔。動揺しているということは、真宵が指摘したことが事実だったということを何よりも示している。
 真宵は先程よりも強く、御剣を睨み付けた。完全に部外者となってしまった成歩堂は目を丸くしたまま、御剣と真宵を交互に見つめていた。
「急用だから、って、あたしとのデートの約束をキャンセルしたのに。みつるぎ検事は、ベツの女の人と会ってたんですね!」
「ま、真宵くん、待ってくれないか。それは誤解なのだ。私は断じて……」
「もう、知らない!」
 真宵はくるりと体を翻し、御剣に背を向けた。そして、肩を怒らせて廊下をずんずん歩いていった。
 どこへ行くかなんて、考えなかった。ただ、御剣の目が届かない、遠いところへ行きたいと思った。御剣の顔なんて、もう見たくもなかった。
 裁判所の廊下を歩いて、歩いて、やがて入り口に着いた。真宵はその時、自分の目に涙が溢れていたことに気付いた。涙をぬぐい、そっと、後ろを振り返る。まさかとは思ったが、御剣も成歩堂もそこにはいなかった。真宵はきゅうと心を締め付けられたが、気付かないふりをして、裁判所の外へ出た。


 真宵が去っていった後。真宵の後ろ姿を見ながら、御剣はため息をついた。
「御剣。いいのか? 真宵ちゃん、怒ってたぞ?」
 御剣はやれやれ、と首を振った。
「うム……まさか、見られていたとは。想像もしなかった」
「それで……真宵ちゃんが言っていたことは、本当なのか?」
「私が昨日、女性とマンションで会っていたということだろうか」
「ああ。それで怒ってるんだろ? 真宵ちゃんは」
 成歩堂の追求する視線を感じ、御剣はため息混じりに呟く。
「まあ、その一点に関していうならば、それはジジツだ」
「じゃあ……」
「だが、断じて。彼女とは、真宵くんが心配するようなカンケイではない」
 きっぱりと言うと、成歩堂の目に疑問が宿った。
「え? じゃあ、その人は、一体……」
「君は、知っているだろうか。狩魔冥に、姉がいたことを」
 意外な人物の登場に、成歩堂は目を見開いた。
「狩魔検事の、姉……?」
「そうだ。狩魔冥には、姉がいるのだ」
 御剣は説明を始めた。昨日訪ねてきたのは、その狩魔冥の姉であること。このことは、御剣にとってのある種の"行事"であること。その"行事"は、御剣が検事として独立してからずっと続いていること。
「彼女は、どうやら。私をシンパイしてくれているらしいのだ。それで、一年に一度、私のところを訪ねてくる。昨日がその日だったというわけだ。急に連絡が来たから、私も焦ったのだが」
 狩魔豪のもとで修行をしている間、彼女は弟のように御剣を可愛がっていた。その扱いが少し苦手で、今でもそういう扱いをされることには慣れていない、と御剣は語った。だから、いつも彼女の訪問には戸惑うのだと。
「それ、断ることはできないの?」
「ム……やんわりと断りは入れているのだが、その、押しが強くて、だな」
「結局、断れない、ってことか」
 やれやれ、とやや呆れた様子の成歩堂に、御剣はごほんと大きく咳払いをする。
「言っておくが、彼女は既に結婚して、子供もいる。つまり、真宵くんは誤解をしているということだ」
「ふうん……なるほどね。じゃあ、ちゃんと誤解、解かないとな?」
「あ、ああ……」
 御剣はもう一つ、ため息をついた。そんな御剣を慰めるように、成歩堂が肩を叩く。
「ま、色々大変そうだけど、真宵ちゃんのこと、大切にしてやってくれよな」
「ああ、無論だ」
 御剣は成歩堂の目を見据えると、こくりと頷いた。


「あなた、綾里真宵さんね?」
 裁判所を出た真宵は、突然後ろから声をかけられて振り向いた。その人物の姿を見て、真宵は心臓が飛び出しそうになった。彼女は昨日、御剣が会っていた女性だったからだ。
 近くに来て微笑まれると、彼女の魅力がなおさら強く伝わってくる。真宵が男性なら、確実に彼女に惚れてしまっているだろう。そう思わせるだけの何かが、彼女にはあった。
「あ、あの、あなたは……」
「ああ、ごめんなさい。自己紹介をしていなかったわね」
 彼女は狩魔冥の姉を名乗った。真宵はますます驚いて、目を大きく見開いた。
 どこかで見たような顔だと思ったが、確かに言われてみれば、彼女の顔立ちは狩魔冥に似ている。冥ほど鋭くはないが、切れ長の細い目が冥の姿を彷彿とさせる。
「で、でも、どうしてあたしの名前を……」
「怜侍くんに聞いたのよ。あの怜侍くんと、今、付き合ってるんですって?」
 彼女はくすくすと笑った。
「最初は信じられなかったわ。でも、昨日元々出かける予定があったって聞いて、問い詰めたら、あなたの名前が出たの。ごめんなさいね、昨日は怜侍くんを横取りしてしまって」
「あ、いえ、そんな……」
 真宵は首を横に振った。昨日、あんなに彼女に対して嫉妬を感じていたのに、近くにいると、そんな感情はほとんど湧かなかった。彼女はなんとなくだが、御剣に近しい女性というよりも、お姉さんという感じがした。
「一度、顔を見ておきたかったの。どんな子なのかなって。可愛い子で、安心したわ。怜侍くんには勿体ないって思ったくらいよ」
「え、そ、そんな……」
 真宵は顔が赤くなるのを感じた。自分より明らかに綺麗で魅力的な女性から褒められると、照れてしまう。そんな真宵を見て、うふふ、と彼女は笑った。真宵はますます赤くなった。
「昨日は本当にごめんなさい。今日はそのお詫びに来たの。これ……良かったら、もらってくれる?」
 そう言って彼女が差し出してきたのは、二枚のチケットだった。真宵は差し出されるままそれを受け取って、印字された文字を読んだ。
「"タチミ・サーカス"……え、えええッ! こ、これ、あの、"タチミ・サーカス"ですか?」
「そうよ。少し前からこの辺りに来ているらしいの。今日の夜の公演よ。良かったら怜侍くんと一緒に見に行って。昨日の埋め合わせに」
「い、いいんですか? 本当に……」
 真宵は一度は受け取ったものの、ためらった。あの事件から立ち直り、タチミ・サーカスは世界的に有名になった。そんな公演のチケットを取るのは相当困難だったはずだし、チケット代も高かったはずだ。だが、彼女は首を横に振った。
「昨日、私のせいで、デートの約束を邪魔してしまったから。受け取ってもらえた方が、私も嬉しいわ」
 彼女はそう言って微笑むと、チケットを持っている真宵の手を自分の手で包み込んだ。
「ね。だから、受け取ってちょうだい。これからも怜侍くんと、仲良くね」
「あ、は、はい……」
「それじゃ、私はもう帰るから。またね」
 彼女は小さく手を振り、身体を翻して去っていった。真宵も一瞬遅れて、手を振り返した。
 チケットを持った手を胸に引き寄せ、温かい気持ちになるのを感じた。全ては真宵の誤解だったのだ。安心すると同時に、御剣に酷いことを言ってしまったと、後悔した。彼はまだ、裁判所の中にいるだろうか。行って謝らなければならない。真宵はそう思って、もう一度裁判所の中に足を踏み入れた。
「真宵くん!」
 するとちょうど、廊下の向こうから御剣が走ってくるのが見えた。大きな書類を抱えて、相当焦っている様子だった。
「み、みつるぎ検事……」
 御剣は真宵の前で立ち止まると、荒く息を吐いた。彼は真宵の誤解を解くために、こうして走ってきてくれたのだろうか。そう思うと、とても申し訳ない気持ちになった。
「真宵くん、すまなかった。さっきの話なのだが……」
「あ、あの! あたしこそ、ごめんなさい。勝手に誤解して、あんなヒドイこと、言って……」
 え、と御剣の顔に疑問が宿った。真宵は先程の出来事を全て説明した。冥の姉が直接訪ねてきたこと。彼女が昨日御剣に会っていた張本人であり、全ては真宵の誤解であったこと。
「そう、だったのか。彼女が……」
 御剣は何もかも理解した表情で、納得したように頷いた。
「あの、だから……本当に、ごめんなさい」
「いいのだ。きちんと説明していなかった私も悪かった」
 双方が謝り、すっきりしたところで、真宵は先程受け取ったチケットを御剣に見せた。
「これ、さっきもらったんです。あの、みつるぎ検事、今日は空いてますか?」
「今日か? 特に用事はないが……」
「これ、タチミ・サーカスのチケットなんです! 今夜、一緒に行きませんか?」
 御剣は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに口元に微笑みを浮かべた。
「ああ、かまわない。昨日は急にキャンセルしてしまったからな、すまなかった」
「いいんです! そのかわり、今日はゼッタイですからね!」
「ああ、無論だ」
「やった!」
 真宵は心底嬉しそうな表情になり、御剣の腕を自分の腕と絡めた。それに応えるように、御剣も嬉しそうに微笑んだ。
Page Top