雪との戯れ

 その日は、朝から雪が降っていた。雪は絶えることなく降り続け、地面を真っ白に染めていく。
 午後になっても一向に降り止まない雪を見て、須藤は思わずため息をついた。雪は確かに芸術的な観点から見れば美しい。しかし、歩くと足が濡れてしまうという現実的な問題がある。校門まで行けば車があるから良いのだが、そこにたどり着くまでが問題だ。
 濡れないようにするにはどうすればいいかということばかり考えていて、教師の話している言葉は、須藤の耳をむなしく通り過ぎてゆくのだった。
 放課後、須藤は昇降口に来てまたため息をついた。雪はやっと止んでくれたが、地面に積もった雪はなおも白く残っている。ローファーを履いて、須藤は外へ出た。
 おそるおそる雪の上に足を置き、丁寧に踏み崩す。足をそっと退けると、雪は靴底の形に固まっていた。これを校門までするとなると、相当骨が折れる。
 ギャリソンが近くにいればいいのだが、彼は今、車と共に校門で須藤を待っていることだろう。
「もう! ギャリソンったら、どうしてこういう時に限っていないのかしら。やんなっちゃう!」
 須藤はそう言って、はあ、とため息をついた。大きな声だったため、周囲の人々の注目を集めたが、そんなことはどうでもよかった。須藤にとって、第一に気にするべき問題はこの雪だったのだ。
 その時、須藤の肩がぽんと叩かれた。須藤は驚いて振り向き、その主を睨んだ。
「失礼ね、何をするの!」
「あっ、ご、ごめん。さっき声かけたんだけど、聞こえなかったみたいだったから……」
 須藤はその主の顔を見て目を丸くした。そこには清水ゆかりが立っていたからだ。
 彼女は入学式の日知り合って以来、ずっと友好を深めてきた。須藤のわがままに付き合わせることも一度や二度ではなかったが、彼女は文句一つ言わず、須藤についてきてくれた。
 そんな彼女を、須藤はとても気に入っていたし、逆にこちらから彼女を気遣うようにもなった。周囲の人々を振り回し続けてきた須藤にとって、相手を気遣うことができるようになったということは、革命にも近い変化だった。
「あ、あら! あなただったのね、清水さん。一体誰かと思ったわ」
「ごめんね。ねえ、一緒に帰らない?」
 親愛なる彼女からのお誘い。須藤としてはもちろん、その誘いに乗りたいところだった。
 だが、今日は雪だ。雪の日に歩いて帰るのは、たとえ彼女と一緒だとしても、どうしても嫌だと思ってしまう。
「パルドン、今日はだめなの」
「何か、予定が入ってるとか?」
「そうじゃないわ。この、雪の中を歩いて帰るのがイヤなの!」
 そう言って、須藤は雪を恨めしそうに見た。この雪さえなければ、大好きな彼女と一緒に帰れるのに。全てはこの、白い悪魔が悪いのだ。
 すると彼女はずかずかと雪の地面を歩き出した。少し歩いたところで須藤を振り返り、ふふ、と笑う。
 あまりに突然の出来事に、須藤は固まってしまっていた。何より、この雪の中をためらいもなく歩ける彼女に、仰天していた。
「ほら、ちょっとくらいなら平気だよ。それにもう止んだから、後は溶けるだけだろうし」
「でも……」
「じゃあ、わたしが先に歩いて、踏み固めてあげよっか。雪」
 にこにこしたまま、彼女は言う。そんな彼女の提案を、これ以上断れなくなった。須藤は少し俯いてためらった後、顔を上げた。唇の端を上げて、笑みを浮かべる。
「いいわ。じゃあ、お願いするわね?」
「うん!」
 彼女は嬉しそうに頷くと、須藤の前を歩き始めた。


 須藤は彼女が踏み固めてくれた地面を、おそるおそる歩いた。滑らないように、そして雪が足にかからないように。幸い心配するようなことは何もなく、二人は校門前にたどり着いた。
「無事到着、だね。瑞希サマ、大丈夫だった?」
「ええ、おかげで!」
 振り向いた彼女に向かって、須藤はにっこりと笑う。足が濡れることも滑ることもなく校門に辿り着けて、須藤は上機嫌だった。
 道路の雪はほとんど溶けていた。外には車が待機しており、隣にギャリソンが立っているのが見える。彼女もそれに気付いたらしく、須藤の方を振り返った。
「やっぱり、今日は車で帰る?」
 須藤は迷うことなく、首を横に振っていた。
「いいえ、今日はあなたと一緒に帰るわ。道路の雪は、だいぶ溶けているみたいだし」
「本当? 良かった!」
 その時、ギャリソンがこちらへ駆け寄ってきた。須藤はギャリソンが何か言う前に、言葉を発した。
「ギャリソン! 今日は車はいいわ。清水さんと歩いて帰るから」
 ギャリソンはそれを聞いて微笑み、頷いた。
「は、かしこまりました。清水様、お嬢様をよろしくお願いします」
「はい、わかりました。じゃ、行こっか、瑞希サマ」
「ええ!」
 ゆかりが手を差し出し、須藤もためらいなくその手を握った。
 手を繋いでいると、手がほんのりと体温で暖められて、心地よい気分になった。
 大切なミズキの親友。彼女がこうして隣にいてくれることを、須藤はとても嬉しく思った。そんなこと、気恥ずかしくてとても言えないけれど、彼女も同じことを思っていればいいのに、と須藤は心の底で願っていた。


 途中で、近所の公園に通りかかった。公園の中はまだ真っ白で、外から見ているだけなら、それを美しいと思えた。
「まだ、公園の中は雪が残ってるんだね」
「そうみたいね。見ているだけなら、綺麗なんだけど」
「瑞希サマ、雪遊びとかしないの?」
「しないわ。だって外は寒いじゃない! おまけに濡れちゃうし」
 嫌悪感をたっぷり含めて言うと、へえ、とゆかりは意外そうな顔をした。
「そっかあ、わたしは好きだけどな。雪合戦とか、楽しいし」
「雪合戦なんて、野蛮な遊び、ミズキはしないわ!」
 つん、と顔を上げて言い切る。
 するとその隣から、強い視線を感じた。須藤がおそるおそる顔を横に向けると、真面目な顔でじいっとこちらを見ているゆかりと目が合った。
「な、何? 一体何なの?」
「瑞希サマ、雪合戦、したことないの?」
「な、ないわよ。それがどうかしたの?」
 すると突然、須藤の腕がぐいと引っ張られた。須藤は驚いて、崩しかけた体をなんとか立ち直らせた。
「ちょっと、何をするの!?」
「瑞希サマ、雪合戦、しない?」
 須藤の腕に両腕を絡めながら、ゆかりはにこりと笑う。須藤は一瞬その言葉の意味が分からずきょとんとしたが、分かるにつれて血の気が引いていった。
「な、何言ってるの! しないわ、するわけないじゃない!」
「ちょっとだけでいいから。面白いよ?」
「あ、あんな野蛮な遊び、面白いわけないじゃない!」
「食わず嫌いはダメだよ、瑞希サマ!」
 彼女はそう言うと須藤の腕を解き放ち、公園の真ん中へ駆けていった。そしてしゃがみ、白い雪を手のひらでこね始める。須藤は呆然として立ち尽くしていたが、やがて彼女が再び立ち上がったところで、思わず身構える姿勢をとっていた。
「ふふ。用意はいい、瑞希サマ?」
「よ、用意って、ちょっと――」
「ほら!」
 彼女の投げた雪の玉は、空を切って、真っ直ぐに須藤のところへ飛んできた。
「きゃあっ!?」
 あまりに突然のことで避けきれず、雪玉は須藤のコートの胸の辺りにばん、と当たって砕けた。雪は散って、はらはらと足下に落ちていった。
 その瞬間、須藤の中の何かに火が付いた。荒々しく胸に付いた雪を振り払うと、笑っているゆかりを睨み付けた。
「よくもやったわね、清水さん!?」
 須藤はためらいもなく公園の中に足を踏み入れていた。しゃがみ、彼女と同じように雪玉を作る。手が冷たかったが、そんなことは気にならなかった。
「えい!」
 須藤は玉を放った。それは近くにいたゆかりの肩に当たり、わっ、という彼女の驚いた声が聞こえた。
「よーし、じゃあわたしも本気でやるよ!」
「負けないんだから!」
 二人は雪玉を作っては投げ、作っては投げした。当然ながら体中が雪まみれになったが、気にしていられなかった。やらなければ負ける。二人の思考を支配していたのは、その思いだけだった。
「きゃっ! もう、瑞希サマったら!」
「ふん! ミズキが負けるわけないじゃない!」
 女の一対一の戦いは、それからしばらく続いた。


 そうしているうちに、次第に体がぽかぽかと温かくなり、二人の息が上がってきた。最初に音を上げたのはゆかりだった。はあ、と大きく息を吐いて、手で須藤を止めるような仕草をした。
「待って待って、疲れちゃった。一旦おしまいにしよう」
「ふふ、じゃあミズキの勝ちね?」
「うん、それでいいよ」
「そうよね。勝負で、ミズキが負けるわけないもの!」
 須藤は得意げに言った。そんな須藤を、ゆかりは微笑みながら見つめていた。
「楽しかったね。どうだった、瑞希サマ?」
 須藤は素直に頷いて同意した。
「ええ、楽しかったわ。少しは雪を好きになれたし」
「そう、良かった。また今度、雪が降ったら雪合戦しよう」
「もちろん、あなたと一緒によね?」
 須藤が確認するように訊くと、ゆかりは笑いながら頷いた。
「うん! 今度は負けないからね」
「あっ、それはミズキの台詞なんだから!」
 軽く視線で火花を散らし合った後、二人は笑い合う。
 こうして笑い合える友達が、今まで須藤にはいなかった。だからこそ、彼女をとても大切に思う。彼女とすることなら、なんでも楽しいのではないだろうか。須藤はふと、そう思った。
「じゃ、帰ろっか」
「ええ。帰りましょう、清水さん」
 二人は再び手を繋いで歩き出す。
 歩きながら須藤は、先程よりも何故か足が軽やかになったのを感じていた。
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