放課後、いつものように校門前に止まったリモに乗り込みながら、須藤瑞希は不機嫌だった。苛々したような表情でため息をつくと同時に、車のドアがバタンと閉められる。
鞄をやや乱暴に車内に放り投げて、窓の外を意味もなく見つめた。今の瑞希とは対照的に楽しそうな生徒たちの姿がちらほらと見え、瑞希はますます不機嫌になった。
車が動き出すと同時に、助手席に乗っているギャリソンに向けて言葉を発する。
「ギャリソン! 今日は真っ直ぐ帰るわ。パーティにも出ないって、おばあさまに伝えてちょうだい」
「お、お嬢様!?」
ギャリソンは驚いたように声を出した後、首を横に振った。
「しかし、それはなりません、お嬢様。今日はお嬢様のお誕生日でしょう」
「でも、出たくないの!」
「お嬢様がいらっしゃらなければ、お誕生日パーティは成り立たなくなってしまいますが……」
「それでもいいわ。だってあんなパーティ、どうでもいいんだもの!」
瑞希は不機嫌な感情に任せて吐き捨てるように言った。
どうせパーティといっても、瑞希の親しい友人たちが来るわけではない。招待されているのは親戚や、須藤財閥と繋がりのある退屈な大人たちだけだ。皆、瑞希にお世辞を言って、ただ高価なだけのプレゼントを置いていく。パーティとは本来楽しいものであるはずなのに、瑞希にとっては苦痛な儀式でしかなかった。高校生になった今、その思いは増すばかりだ。
苦虫を噛み潰したような表情で、瑞希は窓の外を見つめる。通りを歩く人々、下校している学生の姿が目に入った。今は何もかもが、瑞希の不機嫌さをますます煽るのだった。
高校に入ってから、瑞希は一人、親友とも呼べる友人を見つけた。彼女は高等部から新しく入ってきたらしく、学園内なら知れ渡っているはずの瑞希のことすら、知らなかった。瑞希は呆れたが、同時に彼女に興味を持った。そして、密かに思った。先入観の全くないこの子なら、ミズキのお友達にピッタリかもしれない、と。
果たして、それは正解だった。彼女は他の生徒と違い、瑞希が財閥の令嬢だと知っても、他の友人と分け隔てなく接してくれた。瑞希は相変わらず高飛車な態度を取りながら、彼女といる嬉しさを噛みしめるようになっていた。
その彼女が、今日、瑞希に何も言ってくれなかった。瑞希の誕生日という、この日に。
互いの誕生日は教え合っているはずだし、本当に親友なら、相手の誕生日を忘れるはずがない。瑞希は放課後に向かうにつれ、徐々に不機嫌になっていった。そしてとうとう、瑞希が校門でリモに乗り込むまで、彼女は何も言わなかったのだ。
心の中に怒りにも悲しみにも似た感情が湧き上がる。ミズキの誕生日を忘れるなんて、酷い人――心の中で悪態をつくと、瑞希の心まで切り裂かれたような痛みが走った。とにかく、不愉快な感情が心を占めているのは間違いなかった。
その時、ふと目をやった場所で、瑞希は驚くべき光景を目撃した。
なんと、そこには例の彼女がいたのだ。花屋アンネリーの前で、花を選んでいる様子である。制服を着ていたので、どうやら学校帰りに立ち寄ったようだった。
「ちょっと、止めてちょうだい!」
瑞希は反射的に叫んでいた。運転手は緩やかにブレーキをかけてバックすると、瑞希が叫んだまさにその場所に、静かに車を止めた。
瑞希は車の窓から、食い入るようにその光景を見つめていた。
花を選ぶ彼女の傍らには、アンネリーでバイトしている有沢志穂の姿。有沢は何やら彼女に助言をしているらしかった。やがて、彼女は買う花を決めたらしく、有沢に何かを伝えると、有沢は店の奥へ戻っていった。
しばらく見ていると、有沢が大きな花束を抱えて戻ってきた。彼女は満足そうに花束を抱え、有沢に向かって軽く頭を下げた。
瑞希はたまらなくなって、車のドアに手をかけた。あの花束は、一体誰のためのものなのか。瑞希以外の彼女の友人が、偶然にも今日誕生日なのか。そう思うと、嫉妬心に似た思いが湧き上がってくる気がした。
車外に出ると、ちょうど彼女が体を翻し、こちらを向いたところだった。突然現れた瑞希の姿を見て、彼女は目を大きく見開いた。
「瑞希サマ! ど、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわ! ミズキ、すごく怒ってるんですからね!」
「え……」
彼女は戸惑った様子だった。白々しい、と瑞希は心の中で吐き捨てた。どうせミズキの誕生日なんか、これっぽっちも覚えていなかったくせに。
「み、瑞希サマ、どうし――」
「言い訳なんか聞きたくないんだから!」
瑞希はすぐに体を翻して車の中へ乗り込もうとした。
心が怒りと悲しみの感情で埋めつくされているのが分かった。少し気を緩めたら、そのまま泣き出してしまいそうだった。
「待って、瑞希サマ!」
――聞きたくない!
乱暴に車のドアを開け放った、その時だった。
「お誕生日、おめでとう!」
瑞希は思わず手を止めて振り返っていた。
聞きたくて聞きたくて仕方のなかった言葉を、今、確かに聞いた。
彼女は必死な表情で、瑞希に先程買ったばかりの花束を差し出した。
「遅くなって、ごめん。これ、誕生日プレゼント」
瑞希はややためらいながら、その大きな花束を受け取った。
花をよく見ると、波打ったような形の鮮やかな桃色の花びらが、茎の先にたくさん付いていた。切り花によく使われているので、何度か目にしたことがある。名前が思い出せない、と思っていたら、彼女が名前を教えてくれた。
「それ、ストックっていう花なんだ。志穂さんに教えてもらったの。七月十六日、瑞希サマの誕生日の花だって」
「ミズキの、誕生日の……?」
「そうだよ。誕生花って一日に一つだけじゃなくてたくさんあるらしいんだけど、花言葉を志穂さんに聞いて、これにしようと思ったの」
彼女は微笑みを浮かべた。
「ストックの花言葉は永遠の美。どうかな? 瑞希サマにぴったりだと思ったんだけど……瑞希サマ?」
彼女の言葉を聞きながら、瑞希はいつの間にか涙をこぼしていた。彼女の前で涙を見せるなんてと思ったが、堰を切ったようにどんどん溢れてきて止まらない。視界がぼやけて、彼女の顔がよく見えなくなった。
嬉しくてたまらなかった。自分のことをこんなにも思って、考えてくれる友人に、今まで出会ったことがなかった。高価な物をくれる人はたくさんいたけれど、何か物をもらってこれほどまでに心が満たされたことはなかった。
涙を拭ってもう一度花束を見ると、小さなピンク色のカードが挟まっているのに気が付いた。そこには"Bon Anniversaire!"と書かれていた。
自分にとってもう一つの馴染み深い言葉に、瑞希ははっとする。これも、彼女が用意したカードだというのだろうか。
瑞希がカードを見つけたのに気付いたのか、彼女は補足するように言った。
「あ、それね、フランス語の辞書で調べて、花束に添えてもらったの。確か、読み方はボン……ボン、アニ――」
「違う違う! 全然違うわ。『ボナニヴェルセール』、よ!」
瑞希は思わず強い口調で訂正していた。彼女の日本語的な発音とは明らかに違う、流暢なフランス語の発音だった。
彼女はその強さに圧されたかのように一瞬驚いたような表情になったが、すぐに「そうなんだ」、と納得したように頷いた。何度か練習するように口を動かした後、瑞希を真っ直ぐ見つめて、彼女はもう一度言葉を発する。
「じゃあ、改めて。ボナニヴェルセール、瑞希サマ」
「……発音は、あんまり上手くないわね。でも」
瑞希は言葉を切って、微笑んだ。本当に重要なのは、発音の上手さなどではない。
「大切なのは、言葉に心を込めることなの。あなたの心、伝わったわ。清水さん」
「うん。良かった」
彼女も安堵したように、微笑みを返した。
そこで、瑞希は突然思い出した。自分が本来、これから何をする予定だったのかを。
彼女に誕生日を祝われるまでは、その行事に参加する気などさらさらなかった。だが、今は違う。
瑞希は片手で花束を抱えたまま、もう一方の手で彼女の手をぎゅっと握った。彼女は驚いたように目を見開いた。
「ねえ清水さん、今からミズキに付いてきてくれるわよね?」
「ち、ちょっと瑞希サマ、どこへ行くの?」
「決まってるでしょ? ミズキのお家でパーティがあるのよ!」
「えっ、誕生日パーティ?」
「そうよ!」
瑞希は振り返って、微笑む。
「あなたがいないパーティなんて、ぜーんぜん楽しくないんだから!」
彼女は一瞬驚いたようだったが、すぐに笑った。瑞希の言わんとすることを、すぐに理解してくれたようだった。
「うん、じゃあ、お邪魔してもいいかな?」
「ビアンシュール! 当然よ!」
瑞希が強調するように言うと、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。
瑞希は車のドアを開いて、彼女に先に乗り込むよう促した。瑞希も乗り込んだ後、ドアを閉めて、前に座っているギャリソンに向けて言った。
「ギャリソン! やっぱりパーティに出るわ。清水さんも一緒よ!」
「かしこまりました、お嬢様。清水様、どうかお嬢様をよろしくお願いします」
「は、はい。すみません、お邪魔します」
ギャリソンは少し嬉しそうな声でそう言い、彼女もやや緊張した声で答えた。そんなやりとりを、瑞希は満足そうに眺めていた。
やがて車は瑞希の家に向かって再び走り出した。それからすぐ、横から制服の裾を引っ張られ、瑞希は振り向く。
「なあに? 清水さん」
「瑞希サマ、私、パーティに着ていく服がないよ。ドレスは家に置いたままだし……」
「大丈夫よ、ミズキのを貸してあげるから。きっと似合うわ!」
彼女にたくさんのドレスを着せる想像をして、瑞希の心は躍った。きっとあれが似合う、やっぱりこっちが似合うかも知れない、とあれこれ考えるのは楽しかった。
彼女も安堵した表情で、瑞希に礼を言った。
「ありがとう、瑞希サマ」
「どういたしまして」
返した後で、瑞希はふと花束を見た。彼女のくれたストックの花言葉は、永遠の美。これをくれた時、彼女が言っていた言葉を思い出す。
確かにミズキは美しいのは当然だけど、と心の中で前置きして、瑞希は隣に座っている彼女の横顔を見た。
――あなたもきっと、今日は美しくなるわ。そうしてあげるんだから。
幸せな笑顔を浮かべた瑞希は、これから過ごす彼女との時間が楽しみでならなかった。