交差する運命

 とある雨の日。成歩堂龍一は、留置所に来ていた。
 用件を伝えた後、相手が来るのを待つ。その相手は案外すぐに面会室にやって来た。相変わらず静かなたたずまいで、歩くたびに彼女の美しい黒髪がはらりと揺れる。彼女は成歩堂に気付くと、悲しげだった表情をほころばせた。頬に微かに赤みが差していた。
「成歩堂さま、来てくださったのですね」
 優しげな声。彼女が六年前と少しも変わっていないことを、成歩堂は改めて感じる。自分が愛した時のまま、そのままの彼女だ。自分はあの事件によって変わっていった自覚はあるけれど、彼女は少しも変わっていない。そんな気がした。
「あやめさん」
 成歩堂が彼女の名を呼ぶと、あやめは照れたように頬を赤らめた。
「辛くは、ありませんか」
 留置所に入っている者に対してこの言葉はないかと思ったが、彼女の機嫌を伺う言葉が咄嗟に出て来なかった。あやめは少し顔を曇らせた。
「辛くないと言えば、嘘になります。それでもこれは、罪を犯した私への罰ですから」
「そうですか」
 成歩堂はそこで言葉を途切れさせ、微かに俯く。
 彼女は殺人者ではなかった。それは成歩堂が法廷で立証した。しかし、彼女はその殺人者に手を貸したのだ。やむを得ない事情があったとはいえ、もっと上手く立ち回る方法だってあったはずだった。あやめはそれを十分承知し、刑罰を甘んじて受け入れ、こうして今留置所にいるのだ。
 あと一年ほど、この中に入っていなければならないことになる。一年がこれほど長く感じられたことはないと、成歩堂は思った。
「あやめさん。一つ、お訊きしてもよろしいですか」
 成歩堂が尋ねると、はい、とあやめは静かに頷いた。
「五年前、僕と共に過ごした時間は偽りのものではなかったと、そう信じても良いのですね?」
 あやめがはっと息を飲んだのが分かった。成歩堂とて、あまり触れたくない話題ではあった。
 それは成歩堂がまだ大学生だった頃のこと。成歩堂は美柳ちなみという女性と偶然知り合い、半年間交際していた。だが、半年の間を共に過ごしてきた女性は本物の美柳ちなみではなかったことを、あやめは先日法廷で明かした。
 過去を引きずるつもりはなかった。だが、どうしても聞いておきたかった。あやめが成歩堂の思った通りの女性で、理想の相手であったことがその思いを大きくさせていた。
 あやめは少しの間の後、はい、とはっきりと頷いた。
「私は、あなたを愛しておりました。成歩堂さま」
 愛の言葉に対する免疫はほとんどない成歩堂だが、あやめの言葉はすんなりと受け入れられた。
「それは、僕も同じでした」
「な、成歩堂さま……」
 成歩堂の言葉を聞いて、あやめは微かに涙ぐんだ。
 『でした』、と成歩堂は表現した。ならば、今はどうだというのか。成歩堂はあの法廷の後、しばらく考え込んでいた。全ての真実が明らかになった今、自分の気持ちはどこへ向いているのか――。
 成歩堂の気持ちは、素直にあやめを差した。かつて愛した女性。一度は忘れようとして、なかなか忘れきれなかった女性。その女性が真実の名前を持って、成歩堂の前に現れてくれた。彼女はもう、“美柳ちなみ”ではない。成歩堂が過去に囚われる必要は全くなかったのだ。
「あやめさん。僕は今日、お話があって来ました」
 成歩堂はそこから少し身を乗り出した。あやめは微かに不安げな目を見せ、なんでしょうか、と問うてきた。成歩堂は思わず唾を飲み込んだ。法廷に立つ時より緊張しているように感じた。
「僕と、もう一度やり直しませんか」
 あやめの目がはっと開かれた。同時に、彼女の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。それは明らかに、美柳ちなみが法廷で見せた涙とは違っていた。ちなみの偽りの涙に騙された者は多い。かつては成歩堂だってそうだった。しかし今は違う。成歩堂は嘘を見抜く達人になったのだ。彼女の涙の中には、一点の曇りも見られなかった。
「でも、成歩堂さま……」
「何でしょうか」
 あやめはためらうような仕草を見せ、目を伏せた。
「私は、この通り法に背いた者です。もう、私は成歩堂さまのお側にいる資格はありません」
 だが、成歩堂はその程度で態度を翻すような男ではなかった。
「そんなことを気にしているのですか?」
「そ、そんなこと、だなんて……」
「些細なことです。少なくとも、僕にとっては」
 成歩堂は言い切った後で一旦言葉を切った。その後、驚いた表情を見せ続けるあやめに、成歩堂は再び言葉を発した。
「確かに、あなたの罪は簡単に許されるものではないかもしれない。でも、罪を償ったら、あなたは自由なのです。もう一度、やり直す権利がある」
「でも、それでも、成歩堂さまが……」
「僕に悪い噂が立つのではないかと、心配しているんですね」
 あやめはゆっくりと頷いた。成歩堂は微笑みを浮かべた。
「やはり、あなたは僕の思った通りの女性だ。だからこそ僕は、あなたとやり直したいと思っているんですよ」
 えっ、とあやめは声をもらした。成歩堂は続けた。
「僕にとって、あなたは理想の女性だ。五年前も同じ思いだった。けれど運命のいたずらが重なって、僕とあなたは離別せざるを得なくなった。それでもまた、こうして再会できたんです。五年前の僕とあなたの思いが真実だったなら、もう迷うことは何もない」
「な、成歩堂、さま……」
 あやめは次々に涙を落とした。彼女の涙は美しい宝石のように輝いていた。
 不思議なものだと、成歩堂は思った。美柳ちなみは成歩堂とあやめを引き合わせ、二人の道は一旦交差した。しかしその道は、再び美柳ちなみによって離されることとなる。そうしてしばらく別々の道を歩んでいた二人は、またしても美柳ちなみや綾里キミ子の陰謀によって引き合わされたのだ。考えてみればなんと奇異な運命であることだろう。
 お互いに真実の姿を晒した今、もう二人の道を離すことは誰にもできない。そう思って、成歩堂はあやめに提案したのだ。彼女のその後を、自分と共に歩まないかと。
「あやめさん、あなたには僕の提案を拒否する権利があります。思ったことを言ってもらって構いません。返事を、聞かせてください」
 成歩堂がそう言うと、あやめは俯いて考える仕草をした。真剣に考えている様子だった。成歩堂はじっと彼女の答えを待った。その時間はとてつもなく長い時間に思われたが、不思議と苦痛ではなかった。緊張はしていたが、成歩堂の心の中は何故かすっきりしていた。
 その沈黙の後、あやめは顔をゆっくりと上げた。成歩堂もそれに合わせてあやめの目を見つめ、彼女が口を開くのを待った。あやめは微かに頬を赤らめた後、静かに言った。
「私は、まだ、あなたのことをお慕いしております」
 ああ、と成歩堂は心の中で大きな息をついた。温かい安心感が、成歩堂の体を包み込むようだった。
「もしあなたが良いとおっしゃるなら、私はまた、成歩堂さまと一緒にいたい……」
 あやめはそう言って、顔を赤らめつつ微かに笑顔を見せた。成歩堂はこくりと頷いた。
「もちろんです。僕こそが、それを望んでいたのですから」
「はい……」
 あやめは微笑みながら涙を一粒落とし、成歩堂に問うた。
「また、リュウちゃんとお呼びしてもよろしいですか?」
「は、はい。……久しぶりなので、戸惑いますね」
「ふふ。なら、私は“ちいちゃん”と呼ばれるべきなのでしょうか」
 あやめの言葉に対し、成歩堂は首を横に振った。その反応に、あやめは少し戸惑ったようだった。
「あなたはもう、美柳ちなみではない。僕はきちんと、あなたの名前で呼びます。あやめさん」
「はい……リュウちゃん」
 あやめも納得したように頷いて、じっと成歩堂の顔を見つめた。成歩堂も視線を返した。二人は見つめ合い、そうして自然と口元に笑みが浮かんでいった。
 その時、看守から面会時間の終了を告げられた。あやめは少し名残惜しそうだったが、成歩堂に笑みを見せた。
「それでは、さようなら」
「あやめさん、また来ます」
 成歩堂はあやめがその場からいなくなるまで、ずっと彼女を見つめていた。
 そうして一人になってから、静かに留置所の廊下を歩いた。暗くどんよりとした空気とは裏腹に、成歩堂の心の中は明るく喜びに満ちていた。
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