溶けた壁

 カレンダーなど見なければ良かったと、冥は唇を噛んで後悔した。そもそも、何故あのようなくだらない行事がカレンダーに載せられているのか、冥には理解が出来ない。アメリカにはあんな行事、存在すらしなかったというのに。
 ――日本には、くだらないことで大騒ぎする人間がたくさんいるのね。
 心の中でそう吐き捨て、このことは全て忘れることにした。
 玄関で黒革のショートブーツを履き、冥は実家の庭へ出た。整えられた緑一面の芝生を歩き、家の裏へ回る。
「リュウ、散歩の時間よ」
 小さな小屋の中にいた黒い柴犬は、冥に呼ばれて嬉しそうにワンと吠えた。
 冥は先程姉に、リュウの散歩に行ってくれないかと頼まれた。姉は夕飯の支度をしており、手が離せないのだという。冥は渋々引き受けることにし、こうして犬小屋の前にいるというわけだ。
 犬小屋に繋がれた紐を解き、右手に握った。リュウは興奮しているのか、やたらと紐を引っ張る。法廷でムチを自在に操っている冥だが、犬の散歩紐はまた勝手が違う。犬の強い力に流されそうになりながら、冥は一層強く紐を握り、リュウが勝手に飛び出して行ってしまわないよう警戒した。
 それでも、リュウは余程興奮しているらしい。ぐいぐいと前へ出て行こうとするので、冥は一喝した。
「リュウ! 大人しくしなさい!」
 その声の鋭さに驚いたのか、リュウの動きがやっと止まった。
 冥はやれやれと首を振った後、何か違和感を感じて眉根を寄せる。リュウの名を口にするたび、口腔に残るこの妙な感覚は一体何だろうか。
 そこまで考えて、答えへはすぐに辿り着いた。後ろ髪の逆立った青いスーツの男の顔を思い出し、冥は苦い感情が心の中に広がるのを感じた。


 成歩堂龍一。それが、その男の名前だった。弁護士で、冥とも何度か法廷で戦った事がある。この男のせいで冥の無敗神話には傷が付き、いつも苦い思いをさせられてきた。意外とやる男だと内心では認めていたものの、己の高いプライド故、それを表に出した事は一度もない。向こうも思うままムチの攻撃を浴びせる自分に、苦手意識を抱いているようだった。
 その男に法廷以外で最後に会ったのが、ちょうど一ヶ月前。世間が茶色い塊に踊らされていた、バレンタインデーとかいうくだらない行事の日だ。その日、成歩堂の助手をしている綾里真宵から、誘いの電話がかかってきた。その茶色い塊を買いに行かないかという用件で。
「興味がないわ」
 あっさりと言い返すと、明らかに残念そうな声が返ってきた。
「ええーっ。いいじゃないですか、行きましょうよ! きっと楽しいですよ!」
「だから、興味がないと言っているの。私にはそんな暇はないから」
 冥は態度を変える事のないまま、強制的に電話を切った。真宵がぷくりと頬を膨らませている様子が頭の中に浮かんだが、大して傷つきもしない。そもそも彼女は成歩堂の助手、いわば冥の敵のようなものなのだ。彼女と仲良くする義理は、ない。
 ――そう思っていたのだが、数時間後、自分に宛がわれた検事室にやって来た人物の姿を見て、冥は目を見開いた。真宵がいつもの装束のまま、少しも悪びれる様子もなく、無邪気な笑みを浮かべながら立っていたのである。
「冥さん、行きましょうよ。気分転換にもなるし!」
「言ったはずよ、綾里真宵」
 びしりとムチを突き付けると、恐怖を感じたのか、あっという間に真宵の表情が凍り付く。
「私は興味がないと。それなのに、何故わざわざここまで来たの」
「だ、だって。せっかくなら、冥さんも誘った方がいいかなって思って。一緒の方が、楽しいし」
 楽しい、という言葉を聞いて、冥は真宵の言い訳を一笑に付す。
「馬鹿馬鹿しい。付き合ってられないわ」
 言い捨てた途端、真宵の表情が明らかに曇った。視線を逸らし、うう、と呻くような声を出す。
「そ、そこまで言わなくてもいいじゃないですか……」
 微かに涙声の混じる真宵の言葉に、冥はぴくりと肩を震わせた。
 くだらない。確かに、彼女の提案はこの上なくくだらない話だ。だが彼女をここまで傷付ける事は、冥の本意ではなかった。法廷で戦う弁護士たちが自分に完膚無きまでに打ちのめされている姿を見るのは快感だが、彼女はあくまでもその助手でしかないのだ。その冷酷さ故鬼とも呼ばれる冥だが、敵でもない他人が傷つくのを見ていて気持ち良いことなどない。
 幸いにも、冥の仕事はあらかた片付いていた。明日に回しても問題はない。自分と同い年の、しかも自分より幼く見える少女に流されるなんてと自嘲気味に笑いつつ、冥は唇の端に小さく微笑みを浮かべる。
「……いいわ。今日だけよ」
 真宵がはっと目を見開いた後、冥の様子を窺うように上目遣いになる。
「ほ、本当に?」
「あなたがそこまで言うなら、付き合ってやらないこともないと言っているのよ。綾里真宵」
 真宵の表情がみるみるうちに晴れていく。その表情の変わり具合に、冥は苦笑した。実に単純な娘だ、と思う。だが、彼女のそういうところは分かりやすくて嫌いではない。
「やったあ! じゃあ、早速行きましょう。あたし、行きたいお店があるんですよ」
 この時期世間に蔓延する浮かれた女性たちと同様に、真宵の声も弾んでいた。冥は作業していたパソコンを終了させると、検事室に鍵を掛け、真宵と共に外へ出た。
 その後は完全に真宵のペースだった。百貨店のバレンタインコーナーに足を運び、ありとあらゆる種類のチョコレートを品定めし、女性たちの波に揉まれながら、二人はなんとかチョコレートを選び終えた。冥にとってはどれも同じに見えたチョコレートだが、選ぶ事自体は嫌いではなく、むしろ楽しい時間だったようにさえ思え、冥はそんな自分に密かに苦笑した。ただそんなことは、真宵には一言も漏らさなかったけれども。
「よし、チョコレートも買ったし! 冥さん、事務所に寄っていきますよね?」
 まるでそれが当然とでも言うように尋ねる真宵の口調に、冥は内心驚く。
「どういうことかしら? 成歩堂龍一の事務所に寄っていく、とは」
「だから、なるほどくんに渡すんですよ! このチョコレート!」
 真宵に勧められて買ったチョコレートの箱が、冥の手元には三つある。そのうちの一つはあの成歩堂龍一に渡さねばならないのか、そう思うと、冥の表情が自然と険しくなった。
「何故、私があのオトコにこれを渡さなければならないのかしら」
「いいじゃないですか。私たちの身近にいる男の人といったら、なるほどくんと、みつるぎ検事と、イトノコ刑事だから、三人分買ったんだし」
「……あまり気が進まないわね」
 真宵が挙げた男たちの顔を思い浮かべ、冥は眉を顰める。
「まあまあ。今日くらいは法廷でのことは忘れましょうよ、ねっ」
 真宵にぽんと肩を叩かれ、冥は溜息を吐いてこれ以上の抵抗を諦めた。
 そんなことをしても疲れるだけだし、このチョコレートには何の思いも含まれていない。ただあの男に物を渡す、それだけのこと。それを冥が必死になって拒むのは、かえって滑稽にも思われた。


 真宵と共に事務所に現れた冥を見た時、成歩堂龍一は明らかに驚いた表情を見せた。留守番をしていたらしき真宵の従妹春美も、あんぐりと口を開けたまま固まっている。自分が彼らにとって招かれざる客であろうことを考えれば当然の反応だったが、あまり快くはなかった。
「久しぶりね。成歩堂龍一」
「あ、ああ」
 いつもの高圧的な口調で彼のフルネームを呼ぶと、成歩堂は我に返ったように慌てて反応した。その横で、真宵が緊張した空気を壊すように声を上げる。
「ただいま、二人とも。バレンタインのチョコレート、冥さんと一緒に買ってきたんだよ!」
 じゃーん、と言いながら買ってきたチョコレートの箱を見せ、真宵は早速成歩堂と春美にそれを手渡した。
「はい、こっちはなるほどくんの。で、これははみちゃんのね」
「ああ、ありがとう」
「ありがとうございます、真宵さま」
 二人は礼を言って、それぞれ嬉しそうに受け取った。チョコレートを渡し終えた真宵は再び冥のところに戻ってきて、背をぽん、と押した。あまりに急だったので避けることもできず、冥は思わず真宵を睨み付けた。
「何をするの!」
「ほら、冥さんも! それ、なるほどくんに渡しちゃいなよ!」
「なっ……」
 冥は鋭く真宵を睨み付けながら、頬が熱っぽくなるのを感じる。
 ただ、渡すだけ。それだけのことと割り切っていたはずなのに、何故か妙なむず痒さが全身を走る。この感情を気恥ずかしいと表現するのなら、冥にとっては大変な屈辱だ。ただの男、それも敵対すべき男に物を渡すだけで、何故このような感情が芽生えなければならないのかと。
 冥は覚悟を決めて、成歩堂と向き合った。成歩堂はじっと冥を見つめている。一歩前に出て、冥は出来る限りの無愛想な顔をした後、真っ直ぐに箱を差し出した。
「ありがたく受け取りなさい、成歩堂龍一」
「……ああ、狩魔検事も。ありがとう」
 その時、冥は驚きのあまり目を見開いた。成歩堂が微かに笑みを見せたのだ。それは明らかに、冥を嘲り笑うものではなかった。その表情から窺える感情は、“喜び”――それに気付いた時、激しく動揺する自分に気付いた。その微笑みに対して、どういう反応をすれば良いのか、全く分からなくなった。
 だが、その瞬間。ぱん、という鋭い音がして、成歩堂の顔から微笑みが消えた。予想外の展開に、この場にいた誰もが一斉に瞠目する。音のした方を見ると、綾里春美が頬を膨らませ、成歩堂をきっと睨んでいた。
「なるほどくん! 何をニヤニヤしているのですかっ!」
「い、いや、僕は別にニヤニヤなんて……」
 叩かれた頬を押さえながら慌てたように首を振る成歩堂。しかし、春美は険しい表情で成歩堂を睨み付けるばかりだった。
「真宵さまという人がありながら! かるま検事さんにまで手を出すつもりですかっ!」
「な……」
 予想外の言葉に、冥の口から驚きの声が洩れる。春美の中でどこがどう繋がってそういう結論に至ったのか、判断がつかなかった。慌てたようにして、冥の後ろにいた真宵が飛び出してくる。
「は、はみちゃん! あたしとなるほどくんはそんなんじゃないってば!」
 だが春美は、そんな従姉の言葉にも耳を貸さない様子だ。ただただ成歩堂を睨み付け、成歩堂がこれ以上行動を起こさなければ今すぐにでも飛びかかりそうな勢いである。
 冥はその場にいる全員の表情を見渡し、そこで気付いた。春美が何故このような行動に走ったのか。薄く笑みを浮かべて、成歩堂を横目で見る。
「……そう。知らなかったわ、成歩堂龍一」
 紅の引かれた唇から洩れる、低いトーンの声。その場にいた全員が、冥に視線を向ける。
「貴方と綾里真宵が、そういう関係だったなんて」
 自分は弄ばれていたのだと気付いた途端、静かな怒りが芽生えるのを感じた。綾里真宵は一体何を考えて自分を誘ったのだろうか。そして、成歩堂の分のチョコレートまでも買わせるような真似をしたのか。成歩堂と真宵の関係を知った今、その結論は明らかだった。真宵が冥をからかうためだとしか思えない。
「ち、ちがうんだよ、冥さん! はみちゃんが勝手に――」
「綾里真宵。あなたには借りが出来たわね」
 冷笑を浮かべ、真宵を一瞥する。真宵はなおも何か言いたそうにしていたが、聞くつもりはなかった。携帯しているムチを取り出すと、成歩堂と真宵に一発ずつ、お見舞いする。
「いてっ!」
「きゃっ!」
「私を馬鹿にしてくれた罪は重いわ! よく覚えておきなさいッ!」
 一睨みした後、冥は身体を翻して成歩堂法律事務所を去った。


 思い出したくもない出来事だった。屈辱的な気持ちを抱えながら、冥はリュウを連れて家を出る。結局買ったチョコレートは一つを成歩堂に渡したまま、残りの二つは持ち帰って自分で食べてしまった。チョコレートは不快になるくらい甘ったるく、冥は吐き気がした。こんなものを買いに行っただなんて、正気の沙汰ではない。
 成歩堂と真宵に対する恨みは消えなかったが、冥は努めて忘れるようにしていた。それなのにカレンダーを見た瞬間、あの苦い思い出が蘇った――今日はホワイトデー。男たちがバレンタインデーのお返しをする行事の日である。
 馬鹿馬鹿しい、と冥は心の中で吐き捨てる。菓子業界の戦略に乗せられているだけなのに、人々はそれにも気付かず浮かれたように菓子を贈る。そんなものに乗せられたことが一度でもあるだけで屈辱なのに、二度までも乗せられる気はない。冥はすっぱりと気持ちを切り替えることにして、リュウの走るまま、住宅街の角を曲がった。
 その時、向こうから歩いてくる人物の姿を見て、冥は思わず足を止めていた。遠くからでも目立つ、鮮やかな青いスーツの男。体格や髪型から、その正体は容易に判断できた。冥は思わず身構える。引き返そうかとも思ったが、逃げたところを見られては格好がつかない。
 やがて向こうも、冥が立っていることに気付いたようだ。手を挙げて、こちらに向かって振ってきた。冥は苦々しい気分になりながら、ぷいと横を向いてそれを無視する。相手はやがて諦めたように手を下ろし、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「やあ。狩魔……検事」
「貴方に用はないわ。成歩堂龍一」
 片方の手でリュウのリードを強く握っている状態のためムチは使えない。仕方なく横目で睨み付けるだけに留めると、成歩堂は小さく溜息を吐いて苦笑した。
「そんなに怒らないでもらいたいな。あれは……そう、誤解なんだから」
「今更弁解に来たというのかしら? 無駄よ。私が貴方たちに恥をかかせられたということは事実なのだから!」
「だから誤解だって言っているだろ。あれははみちゃんが勝手に思い込んでるだけなんだ」
 話が平行線を辿っている。冥はこれ以上詰め寄るのはみっともないと感じ、一度引いて腕を組んだ。
「で。言いたいことはそれだけかしら。私は貴方のくだらない話を聞いていられるほど暇ではないのだけれど?」
 そう言うと、成歩堂は意外にも退かず、何やら手に持っていた綺麗な包みを取り出した。そのターコイズブルーの包装紙は、冥が胸に付けているブローチの色と似通っていた。
「これ、バレンタインデーのお返しだよ。狩魔検事に」
「な……」
 冥は目を見開いた。有り得ないと思っていたことが起こってしまったことに、激しく動揺する。
「今日、ホワイトデーだからね。御剣に君の家の場所を聞いて来てみたんだけど」
「わ……わざわざそれだけのために出向くなんて、貴方もよっぽど暇なのね」
 動揺しすぎたせいで、それくらいの皮肉しか返せない。成歩堂は苦笑して、あまり言い返せないな、と言った。彼は弁護士だが、その様子ではあまり依頼が来ることはないということだろうか、などとぼんやり考えた。
「はみちゃんには怒られるかもしれないけど。でも僕と真宵ちゃんは、本当に何もないから」
 成歩堂が受け取ってくれ、とでも言うように差し出す。冥はしばらく躊躇っていたが、やがて包装された箱を奪い取るようにして受け取った。複雑な思いが胸に押し寄せた。
 それに反応するかのようにして、傍らにいたリュウがワン、と吠える。つられるようにして成歩堂がリュウへと視線を落とし、頬を緩ませた。
「可愛い犬だね。君の家の犬なのか?」
「……ええ、そうよ」
「名前は?」
「……リュウ」
 その名を口にした途端、成歩堂が目を瞠った。
「ああ、そういえば。狩魔豪検事が法廷で話していたことがあったな。リュウという犬を飼っていると」
「父が?」
「ああ。もうあれから四年も経つのか……」
 懐かしむような声で成歩堂は振り返る。冥は複雑な思いで聞いていた。
 その冥に配慮してか、成歩堂はそれ以上何も言わず、しゃがんでリュウの頭を撫でた。リュウは狩魔家以外の者に触られるのが大嫌いで、万が一触られた時は激しく吠えて拒絶を示すのだが、何故か成歩堂相手にはクンクン言いながら、すり寄る様子さえ見せた。冥は目を瞠る。
「珍しいわね……」
「何が?」
「よそ者に触られるのが嫌いなのよ、リュウは。それなのに」
「賢い犬なんだね」
「貴方とは違うわ」
 容赦ない冥の物言いに、これは手厳しいな、と成歩堂は苦笑を洩らす。
「さて、それじゃ僕はこれで。失礼するよ、狩魔検事」
 成歩堂は立ち上がって別れを告げると、そのまま身体を翻して元来た道を戻ろうとした。冥は無言のまま見送ろうかと思ったが、思わず口から言葉がついて出た。
「成歩堂龍一!」
 成歩堂は静かに振り返る。
「貴方には借りが出来たわ。いつか返してやるから、覚悟しなさい」
「これでおあいこ、じゃないのか」
 苦笑する成歩堂にぴくりと青筋を立てそうになったが、無視して冥は言葉を続ける。
「それから。綾里真宵に、私が謝っていたと伝えて頂戴」
「……ああ、必ず」
 成歩堂は一瞬目を見開いたが、納得したように頷いた。
 そのまま去っていく青い後ろ姿を、冥は立ち止まったまま見つめ続けていた。今までとは違う新たな感情が芽生えたことに、気が付かないふりをしながら。
(2010.3.14)
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