昨晩、綾里家で一夜を明かした御剣は早朝に目を覚まし、いつものワインレッドのズボンを穿き、シャツを着た後、部屋から出た。
目の前に広がる庭を一見し、その美しさに思わず感嘆のため息をつく。ちょうど御剣が部屋から出てきたとき、庭に置かれたししおどしの竹が水の重みで傾き、カコン、と心地よい音を立てた。
庭には他の場所にも目を向けてみると、あちこちに置かれた大きな白い石の中にはコケが生えているものもあり、その白の中にコケの濃い緑色がよく映えていた。典型的な日本庭園の風景を凝縮したようなこの庭は、昨日訪れた時から御剣のお気に入りになっていた。
「あ、御剣さん。おはようございます!」
ふと、横から声をかけられ、御剣はそちらを振り向く。するとそこにはこの家の主となった少女、真宵がいつもの装束を着て立っていて、御剣を見てにこにこと笑っていた。
「ああ、おはよう、真宵くん」
「早いんですね。さすが御剣さん」
真宵はふふ、と笑うと、御剣の隣に体を寄せてきた。そのまま御剣の腕を掴み、御剣を見上げてくる。真宵の小ぶりな胸の感触が、体の温もりと共に伝わってきた。
「ね、綺麗でしょ。あたしも大好きなんですよ、家の庭」
「ああ、実に美しい。こんな美しい庭の持ち主とは、君がうらやましい限りだよ」
「えへへっ」
真宵は本当に嬉しそうに笑う。
彼女はこの家の当主であり、霊媒師の家系である綾里の血の正当なる後継者でもある。といっても、当主になったのはつい先日であり、それも前当主が亡くなったからという、急な理由によるものだった。前当主が真宵の母舞子であったこともあり、真宵は随分と悩むことも多かっただろうにと、御剣は思っていた。だが真宵はそんな素振りは何一つ見せることなく、常に明るく振舞い続けていた。そんな姿が健気で、愛おしく見え、御剣が真宵に今まで以上に惹かれる大きな原因になったのかもしれなかった。
「ししおどしのあの、カコン! って音。あたし、大好きなんですよ」
真宵がそう言った直後、タイミングよくししおどしが石の上で跳ねた。その音を聞いて、真宵は目を閉じ、うっとりした表情になる。
「ああ、やっぱりいいなあ。そう思いませんか、御剣さん?」
「うむ、私もそう思うよ」
でしょう、と、真宵は頷いた。事実、その音は、御剣の心に快感を残していった。
御剣は真宵の無邪気な瞳を見つめ、真宵が掴んでいない方の手で、真宵の顔の輪郭を撫でる。真宵の肌はきめ細やかで、そのすべすべとした感触がとても心地よく感じられた。
御剣は少し腰をかがめると、真宵の真ん前にまで自身の顔を持っていった。真宵がきょとんとしている間に、御剣は真宵の唇を塞いでいた。真宵の口の隙間から小さな声が漏れ出たが、御剣は気に留めなかった。
真宵の唇は喋るときはよく動くけれど、小さくて柔らかく、御剣がそれを閉じてしまうことなど造作もないことだった。
顔を離したとき、真宵の顔は微かに上気していた。
「ど、どうしたの、御剣さん。急に」
「いや、君があまりにも愛おしく見えたからな」
「ええっ、御剣さんって、そんなこと言う人だったっけ」
「失礼だな、君は。私だってこれくらいのことは言うぞ」
御剣はそう言って気障っぽい笑みを浮かべる。まあ、これくらいのこととは言っても、言う相手が真宵以外に存在したことはないのだが――。
真宵もくすくすと笑って、再び御剣の腕に頬を摺り寄せる。腕から伝わる彼女の温もりが、快かった。
「この庭、気に入りました?」
「ああ、とても。昨日からずっと、美しい庭だと思っていた」
「良かった」
そう言ってにこりと笑った後、真宵は言葉を続ける。
「お姉ちゃんが家を出て行くまで、あたしの世界はここだけだったんですよ」
言いながら、真宵は手をいっぱいに広げ、両腕で円を描く。
「倉院の里以外の場所を、知らなかった。でも、お姉ちゃんが弁護士になるために町に出て行って、あたしも追いかけて一人暮らしし始めて……それで、もっと広い世界があるんだなってこと、知ったんです」
「ほう」
突然そんなことを話し始めた理由は解せなかったが、興味深い話だ、と御剣は思った。というのも、御剣もかつてはある意味似たような状況に置かれていたからだった。
「なるほどくんに会ってから、世界はもっと広がったかな。御剣さんにも会えたし、他にもイトノコ刑事とか、冥さんとか、たくさんの人に会えたから」
「ふむ、そうか」
御剣は相槌を打った後、口を開いた。
「昔は、私も君と似たような状況だったよ」
「え、御剣さんが、ですか?」
きょとんとする真宵に頷いてから、言葉を続ける。
「父を亡くして、検事になるために狩魔に弟子入りして……その頃は、とても狭い世界で生きていた。検事になって全ての犯罪者に法の裁きを下す。それ以外のことに、興味などなかったのだから」
懐かしむような瞳で遠くを見る御剣を、真宵が下から覗き込んでくる。
「変わったのは、君と同じ――成歩堂に再会してからだよ」
あっ、と真宵が声を上げる。
「御剣さんが犯人にされた、あの事件?」
「そう。あの事件を機に、私は本当に大切なものが何なのか、考え始めるようになった」
あの事件とは、生倉弁護士が殺害され、御剣が殺人者に仕立て上げられた事件のことだ。御剣ははじめ躊躇いながらも最終的には成歩堂に弁護を依頼し、かつての師匠、狩魔豪と戦った。その結果成歩堂は見事に御剣の無実を証明し、完全勝利したのである。
だが、と御剣は付け加えた。
「私を変えたのは成歩堂だけではない。君もだよ、真宵くん」
「えっ、あたし、ですか?」
戸惑いの色を宿した瞳に向かって、御剣は静かに頷く。
「君は自分の身を挺してまで、私を守ろうとしてくれた。それに人に礼を言うとき、どんな言葉を言えばいいのか、私に教えてくれたではないか」
真宵は目をぱちくりとさせ、しばらく何も言わなかった。戸惑っている様子だった。御剣はそんな真宵に微笑みかける。
彼女は自分を変えてくれた。自分の世界を、全く新しいものにした。彼女を愛するようになって、御剣の世界は劇的に変わったのだ。それまで、その世界を知らなかったわけではない。ただ、必要ないと切り捨てていた。その世界にしっかりと目を向けるようにしてくれたのは、紛れもない、真宵自身だ。
「私の世界を変えてくれたのは、真宵くん、君なのだよ」
「でもあたし、そんな大したことしたつもりじゃないのに……」
「大したことなのだ。君がそう思っていなくとも」
御剣はそう言った後、庭のししおどしに目を向ける。
「あのししおどしだって、そうだ」
「え? ししおどし?」
「ああ。以前の私なら、君が心地よいと言ったあの音を、耳障りだと言って切り捨てていたかもしれん。つまり、そういうことだ」
にやりと笑ってみせる。真宵はしばらく首をかしげていたが、ふと笑顔に戻り、御剣を見上げた。
「あたし、良いことをしたんですよね?」
「そうだ。私にとってはこの上もなく大事なことをな」
「それって、なんか嬉しいな」
真宵は少し照れたように笑う。その笑顔が、御剣にはとてつもなく眩しいものに感じられた。
「あ、そうだ。朝ごはん、できてるんですよ。それで呼びに来たのに、忘れちゃってた」
真宵が思い出したように言った。そういえば、と御剣は腹をさすり、腹が空いていたことを自覚する。
「それでは、いただくとしようか」
「はい。あ、みそ汁は、あたしが作ったんですよ!」
「ほう、それは楽しみだ。君の料理はあまりご馳走になったことがないからな」
「えへへ、期待しててくださいね」
真宵は相変わらず甘えた子供のように御剣の腕を離さず、御剣もそれを愛しく思いながら、二人は廊下を歩いていった。