ホリンに突然それを差し出されたブリギッドは、目を丸くした。
それはホリンが大切に使っていた大剣であった。刃が擦り切れるほど何度も使われているが、腕のいい城下町の鍛冶屋のおかげで、ほとんど刃こぼれはしていなかった。
反射する鈍い光が、ブリギッドにはとても眩しいものに見えた。
「どうして? 私に剣は扱えないのに」
「俺の半身だからだ」
ホリンのきっぱりとした物言いに、一瞬ブリギッドの頭に疑問符が踊ったが、すぐにホリンの言わんとすることが理解できた。ブリギッドはその言葉を重く受け止めた。
これから向かう場所は、戦場。それもグランベルへ戻るため、イード砂漠を越え、ランゴバルト、レプトールの両名をはじめとした多くの強敵を相手にしなくてはならない。このまま、生きて帰れるかどうかもわからないのだ。
つまりホリンは、これを自分の形見代わりに持っておけと言いたいのだろう。
ブリギッドは複雑な思いにとらわれ、そのまま素直に受け取るべきかどうか、悩んだ。これを自分が持てば、ホリンが一生帰ってこなくなるような気がしたのだ。
それでも、ホリンの真摯な瞳は、それをブリギッドに受け取るよう訴えている。
ブリギッドは迷った末、それを受け取った。ホリンが手を離した途端、ブリギッドの片手がずしりと重くなった。
改めて、それを太陽の光に反射させる。刃の先端がきらきらと輝き、いつもは無愛想なその大剣に似つかわしくないほどの美しさを与えていた。ホリンはじっと大剣を見つめた後、ブリギッドに視線を戻した。ブリギッドも大剣を下ろし、ホリンを見つめた。
「私がもらっても、いいんだね?」
「ああ。お前に持っていてほしい」
「分かった。ありがとう」
ホリンが自分の半身を渡すならと、ブリギッドは所持している弓を見た。だが、それはその意図を素早く汲み取ったホリンによって制止された。
「俺には何もいらん。それは全て、ウルの聖痕を持つはずのファバルに託せ」
「でも、それじゃ……」
「構わん。俺はお前と共にあれたことと、子を成せたということだけで十分だ」
ホリンは静かにそう言った。ブリギッドは急に泣きたくなって、ホリンの体に寄りかかった。
ブリギッドを抱きとめるホリンの腕は、出会った時のまま、たくましいままだった。初めて抱きしめられた時、心臓が高鳴り、急激な勢いでその心が引きつけられたのを覚えている。既に何度もその行為を重ねてきた今でさえ、そうだった。
ブリギッドは一生この腕から離れたくないと思った。ホリンと、そしてファバル、パティと、共に穏やかな場所で暮らせたら――
だがそれは、あくまで希望にすぎない。戦は既に始まっている。家族が最後まで共にいられる保証など、どこにもない。現にこの軍を率いるシグルドは、戦の最中に妻を奪われてしまったのだ。自分たちがそうなったらと思うと恐ろしく、余計に、ブリギッドはホリンの服を握りしめた。
ホリンもそれに応えるように、ブリギッドを強く抱いた。ふわりと、ブリギッドの黄金の髪が揺らめいた。
「震えている」
ホリンが淡々とした口調で言った。それが自分のことを指しているのだと、ブリギッドは即座に悟った。
「嫌な予感がするの。とてつもなく、嫌な予感が……」
「今は生きることだけ考えろ。それが全てだ」
ええ、とブリギッドは頷いた。それでも、背を、心臓を、体中を襲う冷たい感覚は、いつまで経っても除かれる気配を見せなかった。
戦は苛烈を極めていた。辛うじてランゴバルト卿を倒し、リューベック城を制圧したが、これからイード砂漠という最大の難関が待ち受けている。
昼は焼き尽くすような暑さに見舞われ、夜は打って変わって寒さを覚えるほどに気温が下がる。絶えず風が吹き荒れていて、黄金の砂が視界を覆う。一面に満ちる砂に足を取られ、思うように動くこともできない。イード砂漠はそういう場所だった。
行軍中、ブリギッドは、ホリンから手渡されたあの大剣の柄を握りしめていた。そうしなければ、不安でならなかったのだ。南からはトラキアの竜騎士が次々に押し寄せ、あちこちからメティオの魔法が放たれた。ブリギッドはイチイバルで抵抗しながらも、常に嫌な予感が頭から消えなかった。
ようやくフィノーラ城の制圧が終わった頃、ホリンはブリギッドに言った。
「ブリギッド、お前は子供たちを連れてレンスターへ逃れろ。ここから先は、俺たち男だけで向かう」
ブリギッドは耳を疑った。
「な……一体何を言ってるんだい? 私も行くよ!」
「駄目だ。もう一度言う、お前は子供たちを連れてレンスターへ逃れろ」
「どうして!? あなた一人を置いては行けない!」
ブリギッドが叫ぶように言うと、ホリンは首を横に振った。そして、ブリギッドの腰に携えられている大剣の柄を握った後、ブリギッドの目をじっと見つめた。
「言っただろう、これは俺の半身だと。これがお前の側にある限り、俺はお前の側にいる」
「でも!」
「ブリギッド」
静かだが、強い口調だった。ブリギッドはそれに圧されるようにして、仕方なく頷いた。
「分かったよ……でも、必ず帰ってきて。約束だよ」
「ああ。後で、お前たちを迎えに行く」
ホリンの強い決意が宿った瞳を見て、ブリギッドはわずかに安心した。
その後、どちらからともなく、口付けを交わす。何度も触れ合ったその場所を、忘れたくないとでも言うように、二人はしつこく絡め合った。くらりと、視界が揺らいだ。
離れた後、口の横に残った口付けの跡に触れ、ブリギッドは切なくなった。その後で、ホリンの半身たるその大剣を握りしめた。大剣は、今までのように冷たくなく、むしろ熱を帯びているように感じられた。
「また後でな」
「ええ……」
ホリンは体を翻し、ブリギッドの前を去って行った。
小さくなっていく夫の体を、ブリギッドはいつまでもいつまでも見つめていた。
吹き荒れる風。舞い上がる金色の砂。沈んでゆく足場。
幼いファバルの手を引き、パティを片腕に抱いて、ブリギッドは進んだ。この砂漠さえ抜ければ、レンスターはもう目の前だ。足まで伸びたその長髪が、風によって何度も何度も空へ舞い上がった。その度に、視界を遮る髪を、首を振って必死に払わなければならなかった。
死に物狂いだった。喉がからからと乾いた。目に砂が入った。それでもブリギッドは、自分のことより、ファバルやパティのことを心配した。親として当たり前の感情が、ブリギッドの心には既に芽生えていた。
「ファバル、パティ、もう少しだからね!」
「おかあさん、いたいよお」
目をこすりながら、ファバルが涙声を出した。それに呼応するように、パティが泣き出した。大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら、ブリギッドは進んだ。
そうして、何日歩き続けただろうか。三人の体はもう限界だった。何度この柔らかな砂の地面に、倒れこみたいと思ったか分からない。それでも足を止めるわけにはいかなかった。
その時、救いの女神は現れた。目の前に緑の大地が出現したのだ。
あれこそ、レンスターの大地だった。キュアン王子の故郷だと聞いてはいたが、実際に見たことはなかった。
ブリギッドはほっとして、大きく息をついた。その途端体のバランスが崩れそうになったが、慌てて立て直した。
「ほら、あそこに村がある。あそこで休めれば……」
幸いにも、集落は近くにあった。ブリギッドは二人を連れ、懸命に足を動かした。目指すべき場所がはっきり見えたので、今までの辛さが嘘のように消えた。とにかくあの場所まで行ければ、とりあえずの安心は得られるのだと、ブリギッドはそう思っていた。
村の入り口に着いて、ブリギッドは今まで以上に大きな息を吐いた。すると、向こうから、村人がブリギッドたちの姿を認めてやってきた。
「あんたたち、一体どうしたんだい!? その体は……」
「お願いします。少しの間、休ませていただけませんか。イード砂漠を渡ってきたんです」
「なんと! イード砂漠だって!?」
村人は目を丸くし、すぐにブリギッドたちを家の中へ案内してくれた。
ファバルを椅子の上で休ませ、パティをベッドに寝かせると、ブリギッドは家の壁に体を持たせかけた。今までの疲労が、一気に体中にのしかかった。
安心から、大きな溜息がもう一度洩れる。自分たちは生きている。生きる希望も繋がった。あの死の大地から、やっと抜け出すことができたのだ。
ふと、腰の大剣に目をやった。ブリギッドは微笑んで、大剣の柄に触れた。
「私たちは助かったよ……ホリン」
後はあなただけだ。ブリギッドはそう付け加えて、もう一度愛おしむように柄を撫でた。
その時、恐怖の悲鳴が外で上がった。
ブリギッドは反射的に体勢を立て直していた。どうやら天は、ブリギッドに休む暇を与えてくれないようだった。
外から帰ってきた村人の夫人らしき女性が、大事を知らせに来た。
「大変よ! フリージの軍が襲ってきたわ!」
「なんですって……」
既にこの大地にも、魔の手が忍び寄っていたのだ。ブリギッドは更なる戦いを覚悟した。少しの間でも世話になったこの村に、恩返しをしなければとも考えていた。
しばらくの相棒だったイチイバルを握りしめ、ふと、気づいた。これは子供たちに置いておくべきだという考えが、突如浮かんだのだ。ブリギッドはイチイバルや銀の弓をテーブルの上に置くと、鋼の弓だけ持って、戦うことを決意した。
出て行こうとするブリギッドに、村人たちは驚きの声を上げた。
「あ、あんた! 一体どこへ行くんだい!?」
「私がフリージ軍を追い払ってきます。あなたたちは家に隠れて。あと、ファバルとパティを、どうかよろしくお願いします」
「無茶だわ! そんな体で!」
「大丈夫です。それでは、二人をよろしくお願いします」
ブリギッドはそれだけ言って頭を下げると、外へ飛び出した。
空が暗くなったかと思うと、何度もあちこちに雷鳴が轟いた。閃光が走り、家を、そして村人たちを焼いていた。ブリギッドは目を覆いたくなった。フリージの雷魔法の凄まじさは公女ティルテュがシグルド軍にいたことで実際に目にしていたが、村が焼き払われる光景を見ると、それだけで途方もない絶望感に襲われた。
次々に向かってくるフリージ軍に向かって、ブリギッドは鋼の弓を構えた。矢をつがえ、勢いよく放つ。矢は閃光に反射して鈍い光を放ち、フリージ軍を蹴散らした。
やがて敵将らしき男が、ブリギッドに気づいたらしい。周りの部下たちに向かって、高らかに言い放った。
「あれは裏切り者のユングヴィ公の娘だ! 皆、殺せ!」
おおっと大きな声を上げて、一斉に敵がブリギッドに向かってくる。
ブリギッドは弓で抵抗しながらも、一向に減る気配のない敵に一種の絶望を覚えていた。
ある程度の数を仕留めた後で、ブリギッドは背を向け、逃げるように村を出た。
とにかく、この村での被害は食い止めなければならない。そのために自分が囮になれるならそれでもいい。ブリギッドは必死に走った。後ろから追いかけてくる大量の軍勢を感じながら、金色の髪をなびかせ、走り続けた。
だが、元々疲れ切っていた体を、更に酷使するような真似をしたのだ。ブリギッドの体は、とっくに限界を超えていた。ブリギッドの足が、がくがくと震え出した。ブリギッドは足を叩き、必死に進もうとした。砂漠とは違って、しっかりとした地面があるだけ、幸いだと思うことにしていた。
そうして、必死に走り続け――
ふと、後ろを振り返ると、誰も追ってこなくなったらしく、いつの間にか人影が見えなくなっていた。
ブリギッドを追うのを諦めたのか、それともブリギッドが撒いたのか、どちらかだろうが、ブリギッドには考える気力が残っていなかった。もし、ここで足を止めて、追いつかれたら。ブリギッドはその恐怖と闘い続けた。その恐怖だけが、今のブリギッドの原動力だった。
だが、それも長くは続かなかった。ブリギッドは完全に力を失い、その場に倒れこんだ。
これではいけない、動かなければと思ったが、体が石になったかのように重く、動くことができない。ブリギッドは荒く息を吐いた。地面の土を吸い込んだが、気にしているどころではなかった。遠くに緑の森が見える。風が吹いて、ブリギッドの髪を、そして遠くに見える木々の葉を揺らす。
――ファバル……パティ……
子供たちの顔が浮かび、そして。
――ホリン……
ブリギッドの瞼が重くなった。
意志に反して、それはゆっくりと、ブリギッドのはしばみ色の目を覆っていった。
「――きなさい、起きなさい、我が子孫よ」
抑揚のない低い声でありながら、どこか温かで懐かしい声が響き、ブリギッドはゆっくりと目を開けた。
目の前に、金色の髪を揺らした女性が現れた。ブリギッドと同じくらいその髪は長くて、きらきらと輝いている。ブリギッドは我が目を疑った。驚いて、思わずぼろぼろになった体を起こしていた。
それは妹のエーディンでも、ましてや自分自身でもなかった。この姿は知っている。そんな気がした。どこかで聞いたことがある。妹のエーディンに、聖戦士の伝説を訊いた時――
「私は十二聖戦士の一人、弓使いウル。お前の先祖だ、ブリギッド」
「な、何故……」
口の中で様々な疑問が闘争を起こし、結局どの疑問も口をついて出なかった。それほどの多くの疑問が、ブリギッドの頭に湧いたのだ。
ウルは美しい女性だった。黄金の髪を揺らめかせ、口元に優しい微笑みを浮かべ、だがその目は、強き意志に満ちている。自分と同じ、戦う者の目だ、とブリギッドは思った。優しい心を持つ妹エーディンのような、穏やかな目ではなかった。
「私が何故ここにいるか? そんなことは問題ではない。それよりも、今はお前のことだ」
ウルの鋭い瞳に見つめられ、ブリギッドは唾を飲み込む。
「はっきりと言おう。お前は今までの戦いで負った傷と疲労のせいで、今、この場で命を落とした」
ああ、とブリギッドは思わず天を仰いだ。
自分の体の状態を考えれば当然のことであったが、その明瞭な言葉は、ブリギッドの胸に深く突き刺さった。自分は死んでしまった――このままでは愛しいファバルやパティたちのもとに帰れない。愛するホリンと再会することもできない。そして何より、自分が亡くなったと知ったら、三人がどれほど悲しむことだろう――
絶望に飲み込まれそうになったブリギッドに、ウルが救いの手を差し伸べた。
「一つだけ、お前の命を助けてやれる方法がある」
「な、なんですって……」
「ただし」
ウルの声が冷たくなった。
「お前の大切なものと引き換えに、だ。一つの命を助けるのだ、その代償は大きい」
冷酷な言葉だった。ブリギッドは迷った。たまらなくなって、ウルに尋ねた。
「その、大切なものとは?」
「お前の記憶だ。一切の、な」
ブリギッドは目を見開いた。
記憶。それはこの上なく大切なものだ。記憶は、今までブリギッドが生きてきた軌跡そのもの。それがなくなれば、ブリギッドという人間が消滅するのと、同じことだ。
たとえ生き延びたとしても、その時のブリギッドは、ブリギッドではない。
だが、とブリギッドは思った。命は何にも代えがたいものだ。命があれば、またホリンやファバル、パティに再会することもできるだろう。たとえ、その時に記憶を失っていたとしても。
悩みに悩んだ末、ブリギッドは、ウルの目を見て言った。
「お願い、します。私を、生き返らせてください」
ウルの目の厳しい光が、僅かに和らいだ。
「いいだろう。私と契約を交わすのだ。
ブリギッドが静かに頷くと、ウルはブリギッドの額に手を当てた。その手からまばゆいほどの光が発せられ、ブリギッドは思わず目を閉じる。ふわり、と体が軽くなった感覚がした。その後で、急激に何かに吸い込まれていくような感覚もあった。
「お前は生きるのだ、ブリギッド。生きて将来を担う者の力となれ」
厳しくも優しいウルの声が聞こえた後、ブリギッドは気を失った。
目を覚ました時、体が軽くなっていた。意識がはっきりした後で、何故自分はこんなところにいるのか、自分はそもそも誰なのか、分からなくなっていた。傍には木々の豊富な森があり、遠くには連なる大きな山々も見えた。それだけが手がかりだったが、それだけでは何も分からなかった。
起き上がったところで、揺らめく金色の髪に目が行く。自分はこんな髪をしているのか、それすらも覚えていなかった。重い頭を引きずって、ゆっくりと歩き始めた。
少し歩いたところで、腰が妙に重いことに気づく。目をやると、そこには一本の大剣が鞘に納まっていた。おもむろに、それを抜いた。
太陽の光に反射して、大剣は鈍い光を放った。それを見て、何故か懐かしい気分になった。幼い頃のことも、何も覚えていないのに、何故懐かしい気持ちになったのか分からなかった。
試しに、空を斬ってみる。ひゅう、と、風の裂かれる音がして、青白い軌跡が走った。
その剣の軌跡にさえ、懐かしさを覚えていた。それどころか、愛しい気持ちまで湧いてきた。何故だか全く分からなかったが、いつの間にかその剣を気に入っていた。
「お前は今日から、私の相棒ね」
微笑んで、呟くように言う。
それに応えるように、その剣先がきらりと輝いた。