015.夕闇

「日が暮れるの、本当に早いですね」
 夕日の沈んでしまった水平線を見つめながら、彼女がぽつりと洩らす。夕日の放つオレンジの光は海の向こうに僅かに残るのみで、頭上はすっかり夜の色に染まってしまっている。
 ある日曜日、デートの帰り。二人は遊園地で思い切り遊んだ後、海岸までやって来た。彼女の家まで送るのに、設楽はいつも寄り道を提案した。少しでも長く彼女といたい――彼女と触れ合ううち、新たに生まれた感情が、設楽に毎回言葉を紡がせたのだ。
 海岸に人影はなく、ざざんという音を立てて波が何度も打ち寄せる。濡れた砂浜に残る白い泡が、僅かに光って消えた。
 この風景は何度も見慣れているはずなのに、何故だか自分を切ない気分にさせる。
 設楽はそっと白い息を吐き出しながら、空を仰いで彼女の言葉に同意した。
「ああ、そうだな」
 しみるような冷たい空気が、コートの隙間から入り込んでくる。
 設楽が羽織っていたコートを引き寄せた後、彼女に視線を向けると、無意識なのかそうでないのか、両腕を寒そうにさすっていた。衣擦れの音が僅かな音の振動となって伝わってくる。昼間は冬の日とは思えないほど暖かかく、上着を着ていると汗が滲むほどだったので、彼女は上着を持ってきていなかったのだ。
 設楽はそっとコートを脱ぐと、まだ海の向こうを見つめている彼女に後ろから被せた。ふわ、と風が入り込んで、コートの裾が踊る。突然のことに、彼女は驚いて振り向いた。
「し、設楽先輩?」
「なんで上着持ってこなかったんだ。おまえのこと、見ているだけで寒くなる」
「す、すみません……」
「いいから、これ着てろ」
 言葉はぶっきらぼうになってしまったが、コートを被せる設楽の手は優しかった。彼女は風に飛ばされないようにとコートを握りしめ、設楽の方を向いて微笑んだ。
「ありがとうございます。優しいんですね、先輩」
「や……優しくない。言っただろ。寒そうなおまえ見てたら、こっちまで寒くなってくるからだ」
 気恥ずかしくなって、視線を明後日の方向に向ける。それが本当の理由でないことを、おそらく彼女は気付いている。微かな笑い声が風に乗って流れてきて、設楽は落ち着かない気分になり、思わず深呼吸した。
 自分の気持ちと、そして目の前にいる相手と素直に向き合えないのは昔からの性分だったけれど、ここのところ特に、どうして自分はそんなふうにしか振る舞えないのだろうと後悔することがある。この態度が少なからず人を悪い気分にさせることを知っているから、なおのこと。振る舞った後で、いつも後悔する。彼女は、自分に不快感を抱いていたのではないだろうかと。
 他人に対してそんな危惧が生まれたのは、初めてのことだった。嫌われたくないと思う相手など、今まで自分の中に存在しなかったからだ。他人からの評価などどうでも良いと思えたからこそ、好き勝手に振る舞うことが出来た。だが、隣にいる彼女に限ってはそうではない。いつか彼女にそっぽを向かれてしまったらと思うと、大きな氷柱に全身を貫かれてしまったかのような苦痛に襲われる。
 それもこれも、四六時中ピアノだらけだった自分の頭の中が、彼女に支配されるようになってからだ。ふっと気が緩む瞬間、それまで思考していた全ての事柄を押しのけて、彼女の顔が現れる。胸が苦しくなって、いつの間にか必死に酸素を求めている自分に気付く。けれど本当に欲しいのは、酸素などではなくて。
 ――おまえが、欲しい。
 深く考えたことはなかった。突如胸の中に湧き上がる感情の正体を、設楽は知っている気がしたし、知らないような気もした。すっかり冷え切っていた設楽の肌を焦げそうなほどの熱で温めるのは、紛れもなく彼女の存在だった。
 手を伸ばしかけて、熱い、と設楽は呻いた。その熱気を浴びる度、火に溶かされた鉄を呑み込んだかのように、喉は焼け、胃は重くなり、設楽は手を下ろしてしまう。けれどもそうすると設楽の周りから一切の熱が失われて、まるで霜に覆われたかのように肌が冷たくなっていく。一度暖かさを知ってしまった設楽にとって、これ以上寒い場所にいることなど耐えられるわけがなかった。たとえ熱くて熱くて、胸に痛みを感じるほどに身を焦がされたとしても、設楽は手を伸ばさずにいられなくなっていたのだった。
 海の向こうはオレンジの光すら失いかけ、薄紫から紺色に染まる最中だった。しばしの、沈黙。それを破ったのは、彼女だった。
「設楽先輩は、恋愛ってどう思いますか」
 思いがけない問いに、心臓が跳ね上がる。無関係だと思っていたのに。そう思い込んでいたかったのに。その方が楽だったのに。恨み言が胸の中でわだかまり、そして消えた。それでもその感情に浸っていたいと思う何かが、そこにはある。
 こんなふうに唐突な質問をぶつけてくるのは、いつも彼女の方だった。そのたび、彼女の意図が掴めずに苦しんだ。何故そんなことを聞く。いつもなら眉を顰めるところだが、コートという名の防御壁を失い、すっかり肌の冷たくなっていた設楽に、そのような余裕はなかった。
 答える代わりに、設楽は正面から彼女を抱き締めた。彼女は驚いたように、設楽の腕の中で小さく声を上げた。自分が先程彼女に羽織らせたコートが暖かい。寒くて寒くてたまらなかった設楽の肌に、徐々に熱を与えてゆく。けれど本当に暖かいのは、自分のコートなどではないのだ。
「おまえにコートを着せたせいで、寒くてたまらない」
 えっ、という戸惑った声。
「じゃあ、わたしいいですから、設楽先輩に――」
「いいから、しばらくこうさせろ。寒いのは……もうごめんだ」
 先輩と後輩、友人、自分たちの関係を表す建前の言葉が次々に現れて消えた。それらの基準に外れた行為をしていることは、十分に自覚していた。だが、それでも良かった。彼女の温もりを感じられる、一番近い距離にいられること。こんなにも幸せを感じたのは、一体いつぶりだろう。もしかしたら初めてかも知れない。自分は彼女に、どれほどの“初めて”を与えられてきたのだろう――
 彼女は逃げなかった。それどころか、僅かに設楽に寄りかかる素振りすら見せた。そこで初めて彼女が押しつけてきた頬の冷たさに気付いて、この上ない愛しさを感じた。今度は俺が暖めてやる。その思いを込めて、設楽は回した腕に力をこめていた。
 空はどんどん夜色に染まっていく。冷たい風が吹いて、早く暖かな家に帰った方が良いと促す。けれども設楽は、そこを動きたくなかった。たとえ闇の帳に覆われて、帰る道筋すら見えなくなったとしても、ずっとこうしていたいと願った。
 ほのかに揺らめくのみであった灯火が、音を立てて真っ赤に燃えさかるのに気付くまで、そう時間はかからなかった。
(2010.12.4)
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