016.夜風

「イリヤを、呼んできて」
 剣の誓約が行われる前夜、フィーリアはエクレールに彼の名を告げた。
 エクレールは分かっていましたと言うように大きく頷き、ヴィンフリートは邪魔にならないようにと、エクレールと共に外へ出て行った。
 二人が出ていった後、フィーリアは部屋の窓から外を眺めた。月明かりが美しい夜だった。窓を開けると、ふわりと優しい風が、フィーリアの髪を撫でた。
 今日が誓約の前夜でなければ、この美しい風景を楽しむ余裕もあったのだろうが、今はそんな心境ではなかった。
「イリヤ……」
 フィーリアは口の中で小さく呟いた。
 イリヤ。彼はフィーリアが選んだ騎士の一人であり、今はなきグラニ王国の王子だ。人前で自分の気持ちのまま素直に振る舞うことができない、不器用な少年だった。そうなったのは、少なからず彼の生い立ちも関係しているのだろうと思う。そのことで、フィーリアは何度心を痛めたか知れない。
 契約を交わすために初めて会った時、フィーリアは彼の鋭い目つきの中に隠された寂しげな色に気付いた。それが気にかかって、その後、彼を何度か呼び寄せた。初め、話すことは何もないと拒絶される一方だったが、次第に心を開いてくれるのが分かって、フィーリアは喜びを感じるようになっていた。
 その喜びがイリヤに対する恋心に変わるのに、さほど時間はかからなかった。
「……イリヤ」
 もう一度彼の名をそっと呟いたとき、部屋の扉がノックされた。フィーリアは振り返って、どうぞ、と言った。
 遠慮がちに扉が開いて現れたのは、イリヤその人だった。彼はやや心配そうに、そしてためらいがちに、フィーリアの方を見ていた。
「来てくれたのね。ありがとう」
「あ、ああ……」
 イリヤは戸惑いがちに頷いた後、扉を閉めて、フィーリアに尋ねてきた。
「でも、こんな大事な時に、どうしてオレなんかを……」
「あなたに会いたかったの」
 フィーリアはなかなか近づこうとしないイリヤの方へ、自分から近寄った。そして、イリヤの手をぎゅっと握った。イリヤの目が驚いたように、ぱっと見開くのが分かった。
「だ、だが……」
「えっ?」
「その。あんたは、司教のことが好きだったんじゃあ……」
 イリヤの口から発せられた意外な言葉に、今度はフィーリアが目を丸くする番だった。
 だが、すぐに、これは彼が自分自身の心を守る手段の一つなのだと気付いた。彼は無意識のうちに、人と接することで傷つくことを恐れている。だからこそあのような無愛想な振る舞いをして、人を自分から遠ざけていたのだ。
 今もそうだ。自分の気持ちを告げる前に、フィーリアの気持ちがどこへ向いているのか、先に確認しようとしている。
 フィーリアはくすくすと笑って、首を横に振った。
「とんでもない勘違いだわ。司教様にそんな気持ちを抱いたことなんて、一度もない」
「そう、なのか? オレはてっきり……」
 イリヤの言葉は、まるでフィーリアの発言を意外だと言っているかのようだった。だが、その表情に安堵が浮かんだのを、フィーリアは見逃さなかった。フィーリアはもう一度、イリヤの手を握る力をやや強めた。
「ねえ、イリヤ。私がどうしてあなたをここに呼んだか、わかる?」
 イリヤは再び目を見開いた。やっと、フィーリアの意図に気付いたようだ。否、薄々感づいてはいたが、確信できるまで気付かないふりをしていた、というのが正しいか。
「フィーリア、それじゃあ……」
「そうよ。イリヤ、あなたが好きなの」
 イリヤははっ、と息を呑んだ後、やや険しい顔になって、荒くため息をついた。
「ああ、なんということだ! オレはこれからグラニへ戻らねばならないというのに!」
「いいの。あなたを止めたりなんてしないわ。ただ、知っておいて欲しかっただけ。私の気持ちを」
「フィーリア……」
 イリヤはフィーリアと向き合い、フィーリアの顔にかかった髪をそっと払った。その時、微かに指先が触れた部分が、熱を持ち始めた。きっとこれが恋をするということなのだ、とフィーリアは思った。
「フィーリア、オレも……おまえを愛している」
「……うれしい」
 やっと、イリヤからその言葉が聞けた。フィーリアの心が、温かいもので満たされていくのがわかった。
 その時、開けっ放しにしていた窓から、ひゅう、と夜風が入り込んできた。二人は同時に、その窓の方へ目を向けた。
「窓を開け放しておいたのか? 寒いだろう」
 窓を閉めに行こうとするイリヤに、フィーリアも寄り添った。そして、窓を閉めようとするイリヤの手を握って、それを制止した。
「フィーリア?」
「少しくらい冷たい方がいいわ。今日はこんな夜だから、頭を冷やしたくて」
「そうか。おまえがそう言うなら、オレは何も言わないが」
 イリヤは手を下ろした。
 二人は窓から景色を眺めた。見慣れたロザーンジュの夜の風景。夜の闇のせいで陰が建物の上に落ちて、街が寂しげに見える。今日は月が明るいから、なおさら陰影がはっきりと浮き出ていた。
「いよいよ、明日だな」
「ええ」
「でも、おまえなら大丈夫だ。おまえ以上にいい王なんて、いやしないよ」
「ありがとう」
 フィーリアは心から礼を言った。イリヤの言葉が、他のどんな言葉や慰めよりも、何倍も心強く思えた。
「ねえ、イリヤ。もう少し一緒にいて。お願い」
「ああ。おまえがいいと言うなら」
 窓の前で、二人は向かい合う。
 イリヤの瞳の中に、もう寂しげな光は存在しなかった。確固たる信念と、それを貫き通すための強さ。それらが、今のイリヤの瞳に宿るものだった。イリヤならきっといい王になれる。フィーリアはそう思った。イリヤがフィーリアをいい王と言ってくれたのと、同じように。
 いつの間にか、互いの瞳に吸い寄せられるように、二人は顔を近づけていた。そのまま、恐る恐るではあったが、唇を重ね合わせた。
 初めてのキスだった。フィーリアにとっても、イリヤにとっても。
 それはひどく不器用なもので、相手の唇の感触を探りながら、二人は互いのそれを求めていた。
 上手なキスの仕方なんて知らない。ただ、自分の心が求めるままに、相手に触れているだけだ。そして、それだけで、フィーリアは心地よさを感じていた。
 触れたところから、唇が熱を持つ。しかしその熱は、窓から吹く微かな夜風によって飛んでいった。
 唇を離し、フィーリアはやや赤くなったイリヤの顔を見ながら、呟くように言った。
「少しくらい冷たい方がいいわ」
 フィーリアは先程の言葉をもう一度繰り返した。
「だって、明日は別れの日なんですもの。ここが熱いままだったら、私寂しくて寂しくて、きっとわんわん泣いて、あなたを困らせるわ」
 唇に手を当ててそう言ったフィーリアの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。イリヤは辛そうな顔で、フィーリアの目尻に浮かんだ涙をぬぐった。
「オレは必ず、おまえを迎えに来る。そしてお前に求婚する。だから、それまで待っていてくれ」
「待つわ。あなたが来てくれるのを、ずっと待つわ」
「ああ……」
 イリヤはフィーリアを抱きしめた。そうして、再びキスをした。今度は強く。夜風が吹いても熱が飛ばないくらいに、熱く。
 イリヤの熱を感じながら、フィーリアは涙を流していた。
 ――こんなに熱いままだったら、きっと明日、泣いてしまうわ……
 それでも、フィーリアは自然とイリヤに手を伸ばしていた。そうして、この時が永遠であれと願うかのように、イリヤの背を、ひしと抱きしめた。
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