017.雷鳴

 砂塵が舞う中、ティルテュは夫アゼルに言われた通り、イード砂漠を一人で渡っていた。砂漠には砂以外、何もなかった。建物もなければ、水も、緑も、何もない。あるのは砂と、異様な暑さだけだ。フリージ公国の公女として、今まで城の中で満たされた生活を送っていたティルテュにとって、そこは想像以上の辛さを伴う場所だった。
 それでも、命がかかっているとなれば、その辛さなどなんでもないようなものだった。ティルテュは懸命に砂の中で足を動かし続けていた。
 そうしてフィノーラ城からだいぶ遠ざかったと思われたその時、遠くから聞き覚えのある音がした。はっとなって、ティルテュは立ち止まる。音のした方を見ると、空が白く光っていた。やはり、とティルテュは思った。
「お父様なんだわ……」
 それは雷鳴だった。それもただの雷鳴ではない。強力な雷魔法を発した時にしか聞くことができないような、鋭い音。それほどの音を発する強力な雷魔法といえば、ティルテュが知る限りでは一つしかない。それはフリージ公国に昔から伝わる、トールハンマーだった。
 別れる時のアゼルの言葉が、ティルテュの頭の中に蘇ってくる。
「ティルテュは、自分の父親を本当に殺せると思っているのか!」
 今までに聞いたことのないような、強い口調だった。ティルテュはびくりとして、アゼルを見つめた。アゼルの目は真剣そのものだった。
 ティルテュの父レプトールは、ドズルのランゴバルド卿と共謀し、バーハラのクルト王子を殺して権力を我がものにしようとした張本人だった。アグストリアで、ティルテュははっきりとそれを悟った。同時に、自分が父と敵対する側に回ってしまったことも。
 ティルテュの知る父は、厳しくも優しい人だった。ティルテュをこの上なく可愛がり、愛情を注いでくれた。ティルテュも父親の愛を感じられた間は、本当に幸せだった。自分に聖痕は出なかったが、それでも兄のブルームと同じように、雷魔法を教えてくれた。聖痕が出なかった子をないがしろにし、聖痕が出た子ばかりを贔屓する親もいるのに、レプトールは決してそんなことをしなかった。自分の父はこの世で最高の、素晴らしい父親だ。当時なら、ティルテュは胸を張って、そう言うことができた。
 だが、今は違う。周囲の者には心の内を見せまいと明るく振る舞ってきたが、父親のしてきたことを知った後の辛さは今までに味わったことのないものだった。自分の父が、悪事に手を染めた。それだけではない。今では娘のティルテュも、父の敵の一人なのだ。
 このまま戦いが続けば、父たちとシグルド軍との戦いは避けられない。自分はその覚悟をしなければならないのだと、ティルテュは思った。そして、その覚悟は既にできたものだと、ずっと思いこんでいた。こうしてアゼルに、鋭い口調で問い質されるまでは。
「それは、できないわ……」
 ティルテュは咄嗟に、そう答えてしまった。覚悟ができたつもりでいた。しかし実際は、そうではなかったのだ。
 ティルテュは言ってから、しまったと思った。今から父と対峙するアゼルに、そんなことを言ってはならないような気がしたのだ。怒られるのではないかと思い、ティルテュは思わず目を伏せた。
 だが、アゼルはふっと優しい顔に戻った。シレジアにいた時、そして昔、幼なじみとして遊んでいた頃と同じような、穏やかな表情だった。
「良かった」
「え……?」
 ティルテュが視線を上げてアゼルを見つめると、アゼルは続けた。
「それでいいんだ。君が自分の父親を平気で殺せるような人なら、僕も愛してはいない」
 そう言って、アゼルはティルテュを自分の胸に引き寄せた。ティルテュはアゼルの言葉に驚きつつも、今一度、アゼルのぬくもりを感じた。同時にがたがたと、体が震えた。アゼルに抱きしめられたことで、ティルテュの中にあった恐怖が現実のものとして襲ってきた。
 アゼルはこれから戦場に向かう。アゼルが無事に戻ってこられるのか、そんなことを一瞬考えて、ティルテュはその思いを振り切ろうとした。戻ってこられるのか、ではない。アゼルはきっと、戻ってくるはずだ。自分はそれを信じなければならないのだ。
「ティルテュ、僕は君を愛している。君のような妻がいて、子供達がいて、僕は幸せだった」
「アゼル、あたしもよ。あたしも……」
 すがるようにして、ティルテュはアゼルの服をぎゅっと握りしめた。アゼルはそんなティルテュをなだめるように背中を優しく叩き、言った。
「僕はこれから行かなきゃならない。子供達を頼むよ、ティルテュ。いいね?」
 途端にティルテュは首を激しく横に振り、言った。
「アゼル、待って! 私も行くわ!!」
「駄目だ、ティルテュ。君まで一緒に来てしまったら、子供達はどうするんだ? 君は生きなきゃならない。生きて、アーサーとティニーを立派に育てなきゃならないんだ。君は母親なのだから、その義務がある」
「でも!」
「ティルテュ、大丈夫だ。僕も後で、必ずシレジアに行く。約束するから」
「本当に? 絶対よ、アゼル!」
「ああ、絶対だ。だから君は行くんだ。先にシレジアで待っていてくれ」
 アゼルはそう言って、再び微笑んだ。ティルテュはしばらくためらっていたが、やがてこくりと頷いた。
 それを確認してから、アゼルはティルテュに背を向けた。ティルテュはその背中を見ていられなくて、今にもすがりついてしまいそうになったが、なんとかとどまった。自分はアゼルの妻であり、また子供達の母親なのだ。いつまでも甘えてはいられなかった。
 そうしてアゼルを見送った後、ティルテュはこうして来た道――といっても砂ばかりで道などなかったが――を戻っているのだった。そこで、あの雷鳴を聞いたのだ。
 どんな悪人だとしても、レプトールはティルテュの父であることに変わりはなかった。あの強力な雷魔法で誰か死なぬようにと願いつつも、父を心配する心が残っていたのも事実だった。
 相対した以上、レプトールかシグルドのどちらかが死ぬまで、戦は続くに違いない。でも、とティルテュは思った。今まで共に戦ってきた仲間たちはもちろんだが、父にも死んで欲しくない。そんな矛盾した思いがティルテュの中で渦巻き、ティルテュを苦しめた。
 しかし、いつまでもそのことばかり考えてはいられない。早く砂漠を渡らなければ、自分が死んでしまう。そう思って、ティルテュは再び足を進め始めた。
 リューベック城で、子供達が待っている。子供達を連れて彼らを守りつつ、自分たちも戦いつつ砂漠を渡ることは不可能だ、とアゼルとティルテュは判断し、子供達をリューベック城の兵士達に預けてきたのだ。子供を連れて砂漠を渡ると言った夫婦もいたが、アゼルもティルテュもそんな余裕はなかった。だから安全なように、二人を預けていた。
 今から子供達を迎えに行き、アゼルに言われたようにシレジアへ向かう。それは決して楽な道のりでないことは承知していたが、戦場に向かったアゼルのことを思えば、なんでもないことだろうとティルテュは思った。


 そうして、どれくらいの時間歩いたことだろう。
 ティルテュの目の前に緑の風景が広がり、リューベック城が見えてきた。ティルテュはほっと息を吐いた。やっと、子供達に会える。自分は砂漠を越えることができたのだ。
 城に近づいていくと、門番がティルテュの姿を認め、駆け寄ってきた。と同時に、ティルテュの体から力が抜けていった。そうして初めて、ティルテュは自分が疲弊しきっていることに気付いた。今まで砂漠を歩くことに夢中で、自分が疲れていたことにさえ、気付かなかったのだ。
「ティルテュ様、大丈夫ですか!! おい、ティルテュ様がお帰りになったぞ!」
 門番の一人に支えられ、ティルテュはリューベック城の門をくぐった。そのうちに多くの兵士が出てきて、ティルテュを迎えてくれた。侍女たちも次々に出てきた。
 そうしてすぐ、ティルテュは一つの部屋に通された。そこには柔らかなベッドが用意されており、ティルテュはそこに座らされた。ぼうっと部屋を眺めていると、一人の侍女が部屋に入ってきた。侍女の右腕の中には一人の女の子が、もう片方の手には男の子の手がしっかりと握られていた。ティルテュの顔には笑みが浮かんだ。
「アーサー、ティニー……!」
 アーサーは母親の姿を認め、すぐに侍女の手を離れてティルテュの方に駆け寄ってきた。
「おかあさま!」
「ああ、アーサー、元気だった?」
「うん! ぼくもティニーも、とってもげんきだよ!」
 アーサーはそう言ってにっこりと笑った。その後、侍女がティルテュの傍に寄ってきた。
「ティニー様、お母様ですよ。ほら」
 言い聞かせるようにしながら、ティニーをティルテュにゆっくりと渡す。ティルテュはティニーを受け取り、抱きしめた。ティニーはまだ何もわからないようで、きょとんとしていた。
「ティニー、元気そうね。良かった……」
 それでも母親に抱きしめられると、ティニーはきゃっきゃと喜んだ。子供達の元気な姿を久しぶりに見られて、ティルテュは幸せだった。
「お二人とも、ずっとお母様のお帰りを待っておられましたよ」
 侍女の言葉に応えるように、ティルテュは微笑んだ。
「ありがとう、この子達を見ていてくれて。お礼を言うわ」
「いいえ。ティルテュ様が無事に帰ってこられて、何よりですわ」
 侍女はそう言って笑った。
 数日したら、ここから旅立とう。ティルテュはそう思った。ここはグランベルに近い場所だ。いつ追っ手が来るとも限らない。シレジアに向かい、アゼルの帰りを待つ。それが今のティルテュに課せられた使命なのだ。
 ふと、耳の中にあの雷鳴がよみがえった。ティルテュの顔が曇った。夫は、仲間は、そして父は、今どうしているのだろう。決着は、ついてしまったのだろうか――
「おかあさま? どうかしたの?」
 気付くと、アーサーがティルテュの顔を心配そうに覗き込んでいた。ティルテュはすぐに微笑みを取り戻し、首を横に振った。
「いいえ、なんでもないのよ」
 一度言葉を切って、ティルテュは続けた。
「もう少ししたら、もう一度シレジアへ行くわ。そこでお父様の帰りを待つのよ」
「おとうさまは、どうしたの? どこにいるの?」
「お父様は、今戦っているの。でもいつか、きっと私たちを迎えに来てくれるわ。それまで待ちましょうね」
「はーい!」
 アーサーは勢いよく頷いた。
「おとうさまはきっとかえってきてくださるよね、おかあさま!」
「ええ、もちろんよ。絶対、帰ってきてくれるわ……」
 それはまるで、自身に言い聞かせるかのような口調だった。
 ティルテュは部屋の窓から、外の風景を見る。遠くに、砂漠が見えた。その奥の空が、今も雷で光ったような気がした。
 その日、ティルテュの耳には、いつまでもあの雷の音が鳴り響いていた。
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