018.異国

 その国の景色は何もかもが新鮮で、ラフィエルは目を開きっぱなしだった。
 人々の声で賑わう市場、緑の木々に囲まれた森、砂漠から吹く、黄金の砂混じりの風。そういった風景はもちろんのことだったが、何よりラフィエルを驚かせたのは、異種族の者たちが交わり合って暮らしているということだった。
 ラフィエルの故郷の森はベオク国家であるベグニオン帝国の中にあったが、ベオクと交わることなど決してなかったし、そんなことは考えられなかった。それは決してセリノスの森が特別だというわけではなく、きっとテリウス大陸の他の地域でも同様だろう。デイン王国は反ラグズ国家として有名だし、クリミア王国とガリア王国の間では同盟が結ばれているらしいが、それは国家間の約束事だというだけであって、実際にベオクとラグズが交流を持った話など聞いたことがない。
 そんな世界で生まれ育ってきたものだから、ベオクとラグズ、果てには"印付き"と呼ばれる者までが分け隔てなく暮らしているこの風景には、強い衝撃を受けた。
 ハタリの城から城下町を見下ろし、ラフィエルは感嘆のため息をついた。そこから見える市場には、多くのベオクとラグズがいて、誰もが笑顔を振りまいていた。威勢のいい売り物屋の声が、ここにまで響いてくる。
「ベオクとラグズが、こんなふうに一緒に暮らしているなんて……」
 ラフィエルが思わず言葉を漏らすと、傍らにいたニケが、ふ、と小さく笑った。
「お前は以前も、そのことで驚いていたな。珍しいか? お前のいた国では、こういうことはなかったのか」
「はい。ベオクとラグズが交流を持つことなど、考えられませんでした」
 ラフィエルはゆっくりと首を横に振った。
「それどころか、いがみ合いの方が多かったというのに……」
「そうなのか。まあ、違う種族の者たちがはじめうまくいかないのは、生まれ持った定めとでも言うべきものだろうからな」
 ニケはそう言って、城下町の風景を見渡す。
「無論この国でも、最初からこうだったわけではない」
「そうなのですか?」
「ああ。だが、我らは無益な争いを止めた。それが一番平和に繋がる道だと、誰もが理解したからだ」
 そう言って城下町を見下ろすニケの横顔が、いつもより穏やかな表情をしているように思えた。ラフィエルも穏やかな気持ちで、それを見つめていた。
 無益な争い。確かに、そうなのかもしれない。争いは争いを生む。どこかで断ち切らなければ、いつまで経っても憎しみが増大するばかりだ。
 ベオクのせいで家族を亡くしたラフィエルにとって、ベオクの仕打ちは許し難いものであったが、この穏やかな異国の空気に包まれていると、そして女王ニケの側にいると、憎しみの気持ちが次第に薄れていくのを感じていた。
 その後、今度はニケの視線がラフィエルの方に移った。
「もう、ハタリには慣れたか」
 ラフィエルは少し考えた後、口を開いた。
「よく、分かりません。ですが、女王の側にいると、気が休まるのは確かです」
「ふ……それは嬉しい言葉だ、ラフィエル」
 ニケは頬を緩め、ラフィエルの手を優しく握った。ニケの手の温もりが、ラフィエルの手を伝って、心にまで流れ込んでくる。
 同時にラフィエルは、その女王が自分と同じ思いをしているのを知った。ますます心が温かくなる。
「女王、私は時折、二つの思いに駆られることがあるのです」
「二つの思い?」
 ニケの問いに、ラフィエルは頷いた。
「早く故郷の森に帰って、家族の無事を確かめたいという思い。そしてもう一つ――あなたの側を、離れたくないという思い」
 鈴の音のような凛とした声で、ラフィエルは言った。ニケは真摯な眼差しで、ラフィエルの顔をじっと見た。
 また、ニケの心が、手に乗ってラフィエルの心へ流れ込んでくる。
『ラフィエル、お前はどうしたい?』
「私は……」
 ラフィエルは小さく息をついた。二つの思いはくるくるとラフィエルの心の中を回った。妥協のできない思い達に、ラフィエルは少しだけ苦しめられた。故郷に帰っても、そこに女王がいないなら、心細くてそのまま死んでしまうかもしれない。だがここにずっといれば、故郷が気になって安穏な生活は送れまい。
 たまらなくなって、ああ、と声を洩らすと、ニケがラフィエルの体を優しく抱きしめた。
「大丈夫か、ラフィエル? もう、あまり無理はするな」
「はい……ですが」
 あなたへの答えが、とラフィエルが言いかけると、ニケは一瞬はっとした後、すまない、と謝った。
「私の心の声が聞こえたのか。もういい、そんなことは気にせずとも」
「はい……」
 ラフィエルは申し訳なく思いながら、ニケの体に身を寄せた。ニケは女性でありながら、ハタリを統べる王というだけあって、その手は力強く感じられた。
 自分を含めた、儚く繊細なものにばかり触れていた頃は感じなかった力強さだ。それに強烈に惹かれるものを感じて、ラフィエルはニケの側にいたいと思うようになったのだ。ニケもそれを許してくれた。そればかりか、ここにいてほしいと、ラフィエルに懇願したほどだ。
「お前に触れていると」
 ふと、ニケがラフィエルの耳元で囁くように言った。
「とても、心が安らぐ。こんなに落ち着いた気持ちになるのは、久しぶり――いや、初めてかもしれない」
 ニケの声の響きがラフィエルの耳へ伝わり、心地よく鼓膜を振動させる。ラフィエルの心が嬉しさの泉で溢れかえり、温かな水を残していく。
「女王、私も」
 ラフィエルも囁くような声で、言った。
「貴女が私を抱く腕の力強さに、強く惹かれたのです。もうここを、離れたくないと思うくらいに」
「ラフィエル……」
「私はずっと、女王のお傍にいてもよろしいでしょうか?」
 ラフィエルが尋ねると、ニケは強く頷いた。
「無論だ。今更何を言う、お前にここにいてほしいと言ったのは、この私だ」
「はい」
 ラフィエルはニケの背に手を伸ばし、ニケはラフィエルの体を、更に強く抱いた。
 これで、答えは決まった――
 ラフィエルは横から異国の城下町を見下ろし、いつもニケがそうするように、穏やかに微笑んだ。
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