ある穏やかな昼下がりのこと。
「……ふう」
事務机の上に一枚だけ置かれていた書類にサインし終え、エフラムは小さくため息をついた。
ルネスの王となり休む間もなく、国事に奔走していたエフラム。仕事などいくらでもあった。戦によって荒廃した地域の復興作業、失われた戦力の増強、これらを命ずるのは全て王であるエフラム自身だ。また他国の王族たちと交流を深め、より良い関係を結ぶことも重要な仕事の一つであった。かつてのエフラムならば厭ったであろうこれらの仕事をこなすのは苦痛も伴ったが、自分は王であるのだと自覚した後、その苦痛はたちまち使命感にかき消されてしまったのだった。
一息ついた後、エフラムは座ったまま窓から外を眺めた。今日は朝から天気が良く、窓から見えるルネスの山々が、日の光を浴びて青々と輝いている。
こんな良い天気の日に、一日中執務室の椅子に縛られたままなんて――エフラムは大きくため息をついた。無性に体が動かしたくなる。気分転換に訓練場に下りて槍を振るうのもいいが、ゼトに見つかって小言を言われるのは勘弁だ。
とにかく外へ出たい。そう思うが早いか、エフラムは立ち上がっていた。書き損じた書類が山積みにされている木箱の裏を探り、隠してあった大きな黒いマントを羽織ると、静かに執務室を出た。誰にも見つからぬよう、足を忍ばせながら。
エフラムは門番にも見つからぬようにしてルネス城を抜け出した。道が続くまま城下町の市場に足を踏み入れると、途端に異常なほどの熱気と喧騒に包まれた。雰囲気に圧されて思わず立ち止まると、後ろを歩いていたらしき婦人が迷惑そうな顔をしながらエフラムを追い抜いて行った。
そこで初めて、エフラムは少々汗をかいていることに気がついた。雲一つない快晴の日に頭から黒いマントを羽織っている上、この熱気だ。エフラムはマントの結び目に指を入れて少しばかり緩めたが、完全に脱ぐわけにもいかないので、我慢する他なかった。
人の波に乗りながら、改めて市場の商品に目を向ける。よく熟れた野菜や果物、鮮やかな色の肉類。客がめいめいに手に取り、品定めをしている。
エフラムは市場の雰囲気が好きだった。昔はよく、城を抜け出しては市場に行っていたものだ。あの頃はただ、目の前に並べられた食べ物などを眺めているだけでも十分に楽しかった。その頃の気持ちを思い出して、エフラムは知らず知らずのうちに微笑んでいた。
毎日仕事に追われ、鬱々としていた気分が一気に晴れていくのを感じた。
商人たちの威勢の良い声を聞きながら、エフラムは角を曲がった。そこには食物ではなく、光り物を売る店があった。太陽の光を反射して、宝石や金属がきらきらと輝いている。
エフラムは本来全く興味のそそられないはずのその店の前で立ち止まった。いくつものアクセサリーの中に、何故か心惹かれるものがあった。
エフラムは手前に飾られているネックレスに触れた。金色の鎖の真ん中に、森林を思わせる翡翠が輝いている。
綺麗だ、と素直にそう思った。同時に、頭の中に一人の女性の顔が浮かんだ。
「……悪くないな」
彼女が身に付けているのを想像し、マントの陰で思わず微笑む。すると店の主人がそれに気付いたのか、エフラムに話しかけてきた。
「よう、兄ちゃん。恋人に贈り物かい?」
「あ、ああ。まあ、そんなところだ」
戸惑いながら頷くと、主人はにやりと笑った。
「綺麗だろう。その翡翠はな、ロストンの山で採れたものなんだ」
「……ロストンの?」
引っかかる単語だった。エフラムが確認するように主人を見ると、主人はああと頷いた。
「そうだ。あそこで採れる石は良いものばかりだからな。きっと喜ばれると思うよ」
「そうか……」
悪くはない、とエフラムはもう一度口の中で呟いた。全く自分らしくはないが、たまにはいいだろう。奇しくもそれは自分の目を引き付けた物でもあった。
仮にも彼女は一国の王女だ、おそらくこういった飾り物はたくさん持っているだろう。エフラムよりはるかに目の肥えている彼女が気に入ってくれるかどうかは分からないが、何よりこれを彼女に身につけて欲しいという、エフラムの気持ちの方が勝った。
エフラムはネックレスを改めて手に取ると、店の主人に差し出した。
「これをもらおう。いくらだ?」
「おお、決断してくれたかい。これは――」
主人が言う金額を払ったエフラムは、ネックレスを小さな箱に入れてもらい、それを受け取った。
「ありがとう」
「喜んでもらえるといいな、兄ちゃん」
翻しかけた体をゆっくり戻し、エフラムは主人に向かって微笑んだ。
あまり長居はしていられない。エフラムはずれていたマントを羽織り直し、元来た道を戻り始めた。ネックレスの入った箱を片手に帰路につくエフラムの表情は、執務室にいた時とは打って変わって晴れ晴れとしていた。
誰にも気づかれずに執務室の前まで辿り着き、エフラムはようやく息を吐いてマントを脱いだ。首に溜まった汗をぬぐった時、後ろから聞き慣れた声が飛んできた。
「まあ、エフラム! 一体どちらへ行っていらしたんですの?」
エフラムは急いで黒いマントを畳むと、声のする方に顔を向けた。声の主、ラーチェルは驚いたような顔をして、エフラムを見つめていた。
「ああ、すまない。何か俺に用か?」
「用か、ではありませんわ。今日が何の日か、ご存知でしょう?」
えっ、という間抜けな声が出そうになって、慌てて喉の奥に押し込める。全く思い当たることがない。
「その、……何かあったか?」
「まあ! 信じられませんわ」
ラーチェルは非難するような目でエフラムを睨んだ。
「ルネス城の広間で舞踏会が行われること、忘れていたとは言わせませんわよ?」
エフラムはやっと思い出した。ラーチェルの発案で、ルネスの貴族や他国の王族たちを招き、舞踏会を開く予定をしていたことを、すっかり忘れていた。
「ああ、そういえば……」
「そういえば、ではありませんわ! 本当に、こういうことには無頓着なんですのね」
ラーチェルは眉を寄せ、怒ったような甲高い声を出した。
エフラムはすまない、と小さく謝った後、手に持ったままのマントを片付けようと、執務室の扉を開けた。いつの間にか日は暮れかけていて、斜めに差し込む夕日が執務室全体に影を落としていた。事務机の上に置かれたランプに光を灯すと、その周囲が一気に明るくなった。
元あった場所にマントを片付けていると、ラーチェルもエフラムに続いて執務室に入ってきた。ラーチェルは素早く扉を閉めると、腰に手を当て、扉の前で仁王立ちする格好になった。自分の機嫌が直るまで、そこをどかないとでも言いたげな様子だ。
仁王立ち、といっても、ラーチェルは華奢な女性だ。エフラムよりやや小さな体でそうしているのが逆におかしくて、エフラムは思わず笑ってしまった。するとますます不機嫌そうに、ラーチェルは眉間にしわを寄せた。
しまった、と思ったがもう遅い。
「何がおかしいんですの?」
「いや、何でもないんだ。怒らないでくれ、すまなかった」
「何もおかしくないのに人間は笑ったりしませんわ。わたくしが怒っているのが、そんなに滑稽でしたのね!」
ぷい、とそっぽを向かれてしまった。エフラムは頭をかきながら、ラーチェルに近づいた。
「そう怒らないでくれ。笑ったことは申し訳ないと思っている、すまなかった」
「謝れば、わたくしの機嫌が直るとでも思っているんですの?」
「すまない、本当に……」
言いかけて、エフラムはふと、手に持ったままの小さな箱を思い出した。彼女に贈るために買ったネックレス。こういうことを普段しないせいで、危うく忘れてしまうところだった。
エフラムは自分の方を見ようともしないラーチェルに向かって、それを差し出した。ラーチェルの視線が、エフラムの手の上に向けられる。
「何ですの、その箱は」
「君にと思って買ってきたんだ。気に入ってくれるといいのだが」
「わたくしに?」
ラーチェルの目が見開かれた。エフラムから箱を受け取り、まじまじと見つめる。
「開けてみてくれ」
エフラムの言葉に促されるように、ラーチェルは箱を開けた。その途端、彼女が息を呑むのが分かった。ランプから届く光のせいで、翡翠の輝きが増している。
「……エフラム、これは?」
「君に似合うのではないかと思って買ったんだが……気に入らなかっただろうか」
エフラムがそう言うと、ラーチェルは静かに首を横に振った。
ラーチェルはゆっくりと箱からネックレスを出し、早速それを首に回した。留め具がなかなかはまらないようなので、エフラムがネックレスの方に手を出すと、ラーチェルがびくりと体を震わせた。
「君に付けてみても、いいだろうか」
「……ええ、お願いしますわ」
夕日の差す窓の前へ行き、エフラムはネックレスを留めた。ネックレスを身につけた彼女と、その後ろに立つ自分の姿が窓ガラスに浮かび上がる。ラーチェルは胸元に手を当てて視線を落とした後、エフラムの方を振り返って、尋ねた。
「どう、かしら……?」
「ああ、とてもよく似合うと思う」
やがて、あんなに険しかったラーチェルの顔がほころんだ。何度も胸元の翡翠を見つめ、その度に唇の端を顔いっぱいに広げた。
エフラムを見つめ、恥ずかしそうに顔を赤らめるラーチェルの姿は、この上なく愛おしいものに感じられた。
「貴方に贈り物をされたことなんて、初めてですわ」
「そうだな。俺も女性に何かを贈ったのは、生まれて初めてだ」
「本当に、どうしたんですの? 風邪でも召されたのではなくて?」
いつもの皮肉混じりの冗談に、エフラムは苦笑する。ただ、今の彼女の口調は、普段より何倍も優しいものに感じられた。
「今日、実は城下町の市場へ行ってきたんだ」
「まあ」
「歩いていたら、ふとこれが目についてな。きっと君に似合うのではないかと思って、買ってきてしまった」
「そうでしたの」
エフラムは苦笑しながら、唇の前に指を立てた。
「ゼトには内緒にしておいてくれ」
「……分かりましたわ。今日は特別ですわよ」
「そうしてもらえると、助かる」
目配せした後、ラーチェルは微笑んだ。
「ありがとうございます、エフラム。わたくし、本当に嬉しいですわ。この翡翠、とても綺麗ですもの……ほら」
ラーチェルは鎖をつまみ上げて、エフラムに翡翠を見せる。エフラムは同意して頷いた。
「ああ、綺麗だ。それはロストンで採れた石だと聞いたんだが」
「まあ、本当に? それならばとても良いものですわ。ロストン近郊で採れる石は良質なものばかりですもの」
満足げに胸を張るラーチェルを見て、エフラムはおかしくて笑みを洩らす。だが今度は誰にも咎められなかった。咎めるどころか、ラーチェルはますます嬉しそうに微笑んだ。
「今日、これをずっと付けていてもよろしくて?」
「ああ、もちろんだ。気に入ってくれて、俺も嬉しい」
「ふふ。きっと皆の目を引きますわ。だって貴方がわたくしに贈って下さったものなんですもの」
「そうだな」
エフラムは同意して、頷いた。
執務室のランプを消し、二人は外へ出た。そのままラーチェルが使っている客間へ足を向ける。廊下を歩くラーチェルの足取りは軽く、彼女は鼻歌さえ歌っていた。エフラムは一転して明らかに上機嫌の彼女を見ながら、自分の心まで高揚していくのを感じていた。
客間の前までたどり着いたとき、ラーチェルはエフラムの方を振り返った。
「それではわたくし、着替えてきますわね」
「ああ。後で迎えに来る」
「ええ。お待ちしておりますわ」
そう言って、ラーチェルは体を翻そうとした。だがエフラムはあることに気付いて、慌てて彼女の腕を引っ張った。ラーチェルは驚いた顔で振り返り、エフラムを見つめた。
「何ですの? エフラム」
「ネックレス、俺が預かっておいても構わないか」
ラーチェルはきょとんとした。だがエフラムは素早く彼女の首の裏に手を回すと、留め具を外し、ネックレスを取ってしまった。
「あ……」
「これは後でもう一度君に付ける。俺がダンスを申し込む時に」
「エフラム……」
ラーチェルは微かに頬を赤らめた。だがすぐに微笑んで、エフラムと目を合わせ頷いた。
「ええ。お誘い、お待ちしておりますわ」
「ああ、必ず」
ラーチェルがもう一度笑顔を見せた後、部屋の中に入ってしまうまで、エフラムはじっと彼女の後ろ姿を見つめていた。彼女の胸元で輝いていた翡翠のネックレスを握り、彼女を誘う決意を固めながら。
舞踏会はまもなく、行われようとしていた。