021.傷跡

 ざわざわと、不穏な風が草花を揺らした。
 カリンはフェルグスと共に、軍に先立って偵察を行っていた。この男と一緒に行動させられるのは少々不本意だったが、リーフの命令には逆らえない。カリンはペガサスを、フェルグスは馬を駆って、先へ先へと進んでいた。
 カリンはしばらく上空から周りを見渡した後、ゆっくりとフェルグスの隣に降り立った。フェルグスも手綱を引いてその場に止まり、カリンが降りてくるのを待った。
「今のところ、問題はないみたいね」
「ああ。なんか、嫌な雰囲気はするけどな」
 確かに、言葉では言い表せない不穏な空気が周りに流れているのを感じる。敵がこの先にいるのは間違いないとみていいだろう。ここまでは問題なく二人で来られたが、これ以上進むと二人だけでは対処できなくなるかも知れない。何せ、ここは敵の陣地なのだ。
 カリンはエルメスの手綱を握り直して、フェルグスに言った。
「一度戻りましょう。私たちだけじゃ危ないかもしれないし」
「そうだな」
 フェルグスも素直に同意して、馬にゆっくりと方向を変えさせた。
 カリンはフェルグスに視線を向けて、ふと彼の首筋に引っ掻いたような傷跡があるのを見つけた。じっくりと見なければ分からない程度の小さな傷だったが、何故かカリンの心に引っ掛かった。こんな傷、今までなかったはずなのに――
 カリンは気にかかって、フェルグスの横顔を見た。後ろで束ねた彼の金色の髪が、軽く揺れた。
「どうしたんだ? じっと見たりして」
 いつの間にか、逆にフェルグスに覗き込まれていた。カリンははっと我に返って、視線を逸らした。顔が熱くなるのを感じた。
「俺があんまり格好いいから、見とれてたのか?」
「何言ってるの、そんなわけないでしょ!」
 フェルグスの冗談に本気で言い返してしまい、カリンはこの場から消えたくなった。フェルグスがその後おかしそうに笑うものだから、ますますその思いは膨れ上がった。
「まあ、いいけどな。それより早く行くぜ」
「わ、分かってるわよ!」
 勢いに任せて手綱を思い切りぴしゃりと叩いてしまい、エルメスが痛そうにいなないた。
「ご、ごめんね、エルメス」
 カリンは慌てて、エルメスに謝った。その後で、先に進み始めたフェルグスの背中をじっと睨んだ。この男のせいだ。一緒にいると、いつもペースが狂って仕方がない。
 フェルグスの後を追いかけながら、カリンの心にはあの傷跡のことが引っ掛かっていた。あんな場所にある傷、見落とすはずがないのに――それに、どうしてあんな場所にあるのだろう。疑問は深まるばかりだった。
「ねえ、フェルグス」
 カリンが呼ぶと、フェルグスはやや走る速度を落として振り返った。
「なんだ?」
「その、首の傷……どうしたの?」
 フェルグスは手綱を引いて馬を止まらせ、ああ、と言いながら、傷跡をさすった。しばらく思い出すように何度も指を往復させていたが、ふと合点がいったような表情になった。
「ああ、そうだ。お前を助けた時についた傷だな、多分」
「私を? それって、いつのこと?」
「ほら、この間。お前が弓兵に狙われてた時だよ」
 カリンは少し考え、そして思い出した。天馬で上空から戦況を確認していた時、周りばかり見ていて、やや斜め下で自分を狙っている弓兵に気付かなかったのだ。フェルグスが鋭い声で「危ない!」と叫び、その後剣で弓兵を倒してくれたから良かったものの、彼がそうしてくれなければ死んでいるところだった。弓矢の攻撃は、天空を翔る者にとっては命取りになるのだ。
 あの時は心からフェルグスに感謝してはいたものの、素直になれず、小さな声でありがと、と言っただけで終わってしまった。フェルグスがその時、首筋に傷を負っていたなんて知らなかった。
「知らなかったわ。そんなところに、傷が……」
「ま、分かりにくいし、大した傷じゃねえしな。お前が気にすることなんてねえよ」
 フェルグスは笑ってひらひらと手を振った。
 それでも、カリンの心に一度生まれた思いは消えなかった。心から申し訳ない、と思った。彼は傷を負ってまで自分を助けてくれたのに、自分は聞こえるか聞こえないかの小さな一言で済ませてしまったのだ。
 戦場に立つ者にとって、それは些細な傷なのかもしれない。だがそれがカリンのためについた傷というなら、話は別だった。
 カリンはもじもじとして、ぽつりと言葉を発した。
「あ……あの。あの時は、その……」
「ん? なんだ?」
「わ、私を……助けてくれて、その……あ、ありがと」
 フェルグスの目が大きく見開かれた。その目は信じられないとでも言いたげで、カリンは思わず視線を逸らした。
 自分がフェルグスの前で素直になれないのは、フェルグスの性格と、出会いが最悪だったせいだった。無茶苦茶で、いい加減で、無神経な男。フェルグスという人間は、カリンにそんな印象を抱かせた。
 だが、長い間一緒にいると、だんだんこの男のことが分かってくるようになった。見た目や言動は確かに無神経でいい加減そうに見えるが、実は思ったほどではないということ。気ままな傭兵で、自分のためにしか動かないように見えるけれど、周りの状況にもよく気を配り、仲間への協力を惜しまないこと。彼の新しい一面を見るたび、何故だかカリンの心臓の鼓動は速まるのだった。
 今も、そうだ。自分のことも省みず、フェルグスがカリンを助けてくれたことに気付いた。
 だが、カリンはすぐに、そう思ったことを後悔するはめになった。
 カリンがそっと顔を上げてフェルグスを見ると、フェルグスは突然大声で笑い出したのだ。今度は、カリンが目を見開く番だった。何故彼がそんな行動を取ったのかまるで分からず、戸惑った。
「な、何なの?」
 カリンが尋ねても、フェルグスは笑うばかりで答えてくれない。人が礼を言っているのに、この態度は一体何だというのか。先程までの感謝の気持ちはどこへやら、カリンは次第に腹が立ってきた。
 フェルグスはひとしきり笑った後、思いがけないことを口にした。
「まさか、お前が冗談を真に受けてくれるとは思わなかったよ」
「じ……冗談、ですって?」
 カリンの唇が怒りと驚きでわなないた。フェルグスは笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をぬぐい、続けた。
「これ、昨日街にいた猫に構ってたら引っ掻かれてな。小さい傷だから気付かれると思わなかったけど、まさかお前が俺の冗談を鵜呑みにしてくれるとも思わなかったぜ」
 カリンはますます腹が立ってきた。どうりで、今まで見たことのない傷跡だと思った。あの時についた傷なら、とっくに気付いていたはずだ。
 この男はずっと、自分を手のひらで転がして遊んでいたのだ。やはり、カリンが最初に抱いた印象は間違いなどではなかった。この男は無茶苦茶で、いい加減で、無神経な男なのだ。
「……もういい! あんたなんて、知らない!」
 カリンはやや乱暴にエルメスの手綱を引くと、そのまま空へと飛び立とうとした。フェルグスは馬に乗っているから、歩兵よりはカリンに追いつくのは容易いけれど、山も森もひとっ飛びのカリンに完璧に追いつくのは不可能だ。そのまま逃げ切って、リーフたちのところへ先に戻ってやればいい。この男がその後どうなっても、自分には知ったことではない。
「おい、そんなに怒るなよ!」
「誰のせいだと思ってんのよっ!」
 カリンは怒鳴るようにして言葉を返した。そのままリーフたちのところへ戻ろうとして、ふと、下から聞こえてきたフェルグスの言葉が耳を掠めた。
「さっきのお前、いつもより可愛かったぜー!」
 カリンは思わずエルメスを止めてフェルグスを見下ろした。だが、地上でにやりと笑っているフェルグスを見て、慌てて視線を元に戻した。心臓の鼓動が速まる。顔が内側からじわじわと熱くなっていくのを感じた。
(こ、これは、きっと急に空を飛んだからよね。エルメスにも無理をさせちゃった、ごめんね……)
 あの男のせいで、とカリンは憎々しげに呟いた。本当にあの男に関わると、ろくなことがない。心を乱されてばかりだ。
 空を切るように天空を翔けながら、暴れ出したこの心臓の鼓動を抑えるには一体どうすれば良いのか、カリンは途方に暮れた。
(2009.6.29)
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