030.崩壊

 マルスはひとしきり手を振った後、城のバルコニーに背を向け、中へと戻った。
 それでも未だに、城外からは割れんばかりの歓声が聞こえていた。マルス王子万歳、アリティア王国万歳――アリティアの民たちが、解放の喜びを分かち合おうと、先程解放されたばかりのアリティア城に集まってきたのである。
 そんな民たちとは対照的に、マルスの姿は、まるで抜け殻のようだった。微笑みを浮かべてはいるが、どこか空虚で、悲哀が漂っている。祖国解放をあれほど願っていたマルスであるのに、その虚ろな笑みからは、喜びの念を感じ取ることはできなかった。
「モロドフ、すまない、少しの間……一人にしてくれ」
「かしこまりました、王子」
 マルスはそう言って、かつて自分の部屋であった場所へ入っていってしまった。モロドフは淡々と答えながら、しかしその顔には辛そうな表情が浮かんでいた。
「私たちは、下へ行っていた方が良さそうですね」
 マルスの後ろ姿を見つめていたニーナも沈んだ声で言い、兵たちに守られながら階下へ行ってしまった。
 後に残ったのは、モロドフとシーダだけであった。
 シーダはニーナの言うとおり、マルスを一人にしておいた方がいいかもしれないと最初は思った。だが、何故か足がその場から動かなかった。かといって、部屋に入ってマルスの心を乱すことも本意ではないから、どうすることもできないでいるのだった。
「シーダ様、他の者たちと一緒に、階下へ行かれては」
 ずっとそこにいたせいでモロドフにそう言われたが、シーダは首を縦に振ることができなかった。
 マルスのあんな顔を、シーダは初めて見た。アリティアの王子としての使命を背負い、今まで戦ってきたマルス。それを苦痛に思っているふうなど、微塵も見せたことはなかった。蹂躙された祖国を奪還し、アンリの血を引く者として、戦の元凶となった者たちを倒す――マルスの目はいつも、その使命に燃えていた。そのはずだった。
 今、彼の目には、風に簡単に翻弄されてしまうような弱々しい火しか映っていない。
 シーダはついに、部屋の扉に向かって歩を進めた。そうしてシーダがドアノブに手をかけた時、モロドフが驚いたような顔をした。
「シーダ様、お待ちください。今、マルス様は――」
「分かっています。でも、少しだけ……少しだけ、マルス様と話をさせて。お願い」
 シーダの強い意志の宿った表情を見たせいか、モロドフは無言で下がり、シーダに向かって頷いた。
「ありがとう」
 シーダは小さく礼を言うと、ゆっくりと扉を開けた。


 シーダが中へ入った時、マルスは立ったまま、窓から少し離れて外を見つめていた。
 割れんばかりの歓声が、なおもガラス越しに聞こえてくる。マルス様、と声をかけようとして、シーダは彼の様子がいつもと違うのに気がついた。
 マルスは、肩を震わせていた。小さく、ほんのわずかではあるが、その肩が揺れていた。
 城外にいる民たちに手を振っている時、マルスの背はぴんと伸びていた。実に毅然とした態度だった。今もその時と一見同じ様子のようで、そうではなかった。いつも大きく頼もしく見えていたマルスの肩が、急に小さくなったように感じられた。
「マルス様」
 シーダが声をかけると、マルスの肩が波立ったように大きく揺れた。
 シーダを振り返ったマルスの目は、赤く充血していた。唇には微かではあるが歯型がついていて、嗚咽を懸命にこらえていたのだろうかと、シーダは思った。
「あ、ああ、シーダか」
 マルスはシーダを見て、微笑んだ。
「すまない。みっともないところを見せてしまったね」
「いいえ。私こそ、勝手に入ってきてしまって、ごめんなさい」
 いいんだ、とマルスは言った。
「今すぐにでも進軍の準備をしなくてはならないのに、わがままを言ったのは僕だ。本当はこんなところで涙を流している暇など、ありはしないのに……」
 その時、マルスの目から一条の雫が伝い落ちた。
 シーダは胸がいっぱいになった。マルスの辛さが、痛いほどに伝わってきた。父を、そして母までも失い、一人残った姉は、敵の手中にあるというのだ。この状況で笑っていられる人間の方が稀だろう。民の前だから笑っていなければならない、自分はアリティアの王子だから――そう言ってマルスは自身を奮い立たせていたが、マルスは王子である以前に、マルスという名の一人の人間なのだ。
 マルスは伝い落ちた涙に気づき、慌てたように拭った。
「すまない。こんなところを見せて、僕は……」
「マルス様、どうか無理なさらないで」
 気遣うようにシーダが言うと、マルスは再び微笑んだ。
「ありがとう、シーダ。君が隣にいてくれるだけで、とても心が安らぐ」
 マルスがそう言ったので、シーダはひとまずほっとした。
 それでも、マルスの心の奥にある悲しみの根源まで取り去れたわけではない。未だに悲哀の感情漂うマルスの表情が、それを物語っていた。
 その悲しみを癒したい。シーダは思った。それが簡単なことではないことは分かっていた。それでも、そのマルスの悲しみを、なんとかして取り除けたら――
 自然とシーダは、マルスの手を自分の両手で包みこんでいた。
 マルスは驚いたような顔でシーダを見つめた。シーダはマルスの手をいたわるように優しく撫でながら、マルスと目を合わせた。
「私は、お母様やお姉様の代わりになることはできません。でも」
 シーダは、マルスの手を握った。
「ずっと、お傍におります。マルス様が、望まれる限り」
「シーダ……」
「どうか、我慢なさらないで。悲しみを自分の中だけに押し込もうとしないで、マルス様」
「ああ……ああ……」
 そこで、マルスを今まで抑えていた何かが、崩壊したようだった。
 マルスは途端に、赤子のように泣き崩れた。シーダの胸にすがって、わあわあと泣いた。この時のマルスは、アリティアの王子ではなく、両親と姉を失った一人の少年であった。
 外ではまだ、歓声が響き渡っている。アリティア万歳、マルス王子万歳、アリティア万歳、マルス王子万歳――
 終わるところを知らない歓声と、マルスの号泣する声とを聞きながら、シーダもいつの間にか涙をこぼしていた。
(2008.8.23)
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