032.眩暈

「それを持って行くといい。初歩を理解するにはもってこいの戦術書だ」
 そう言って、ランスが愛読しているという戦術書を渡された時は、あまりの量にひっくり返りそうになった。だが、少しでも強くなるため、戦場で役に立つため、ウォルトは力強く頷いてそれを受け取った。
 ロイの力になりたい。それがウォルトの最も大きな願いであった。強くなるためなら、どんな努力も惜しまないつもりだった。
 同じフェレに仕える騎士、アレンが場所を選ぶことなく鍛錬していると知った時は感動を覚えたし、ランスが様々な本を読んだ上で記録を続け、情報を集めているのを見た時は、思わずその本を読みたいとランスに申し出ていた。ランスは一瞬目を見開いたが、騎士として当然の心得だとでも言うように、ウォルトに本を寄越した。その本を一通り読み終えた後、次に読むべきものがあると言って、先程ランスの部屋に呼び出されたのである。
 進軍の合間を縫って、ウォルトはランスに渡された本を読み続けた。時には睡眠時間を削ってまでも、文章を読み進めることに集中した。あらゆる武器や魔法の解説、状況に応じた有利な陣形、そして騎士としての心得。一通りのことはマーカスから習ってはいたものの、ここまで深く掘り下げた本を読んだことはなかったから、ウォルトは感動していた。頭で覚えたことを実行する、それが一番大切なのだが、自分の持っていなかった知識を得られただけでも、ウォルトにとっては大収穫なのであった。


 その日は朝から、太陽が爽やかな日差しを振りまいていた。絶好の昼寝日和である。
 長く行軍を続け、疲れの見えてきた一行はしばし休憩を取ることになった。それを良いチャンスだとばかりに、ウォルトは本を持ち出した。
 草を払い、芝生の上に腰を下ろす。本を持ったままううんと伸びをすると、ぽかぽかした陽気に包まれ、そのまま草の絨毯の上に寝転んでしまいたい衝動に駆られた。
 ――だめだ。
 ウォルトは頭を振り、頬を叩く。確かに昨夜も眠りにつくのが遅かったが、こんなところで眠っている時間などない。ウォルトは目を意識的にぱっちり開けて、再び頬を軽く叩いた。本に視線を落とし、栞を挟んでおいた部分から文章を読み進めようとする。
 しかし睡魔はウォルトにしつこく付きまとった。視線を落とそうとして顔を下げるとその勢いで突っ伏してしまいそうになり、慌てて顔を上げる。その動きが、数分の間に何度も何度も繰り返された。
 気分を変えようと空を仰げばぽかぽかした陽気を全身に浴びることとなり、意識が奈落の底へ落ちて行ってしまいそうな感覚に陥る。これではいけないと一度伸びをしてみるが、ますます気持ち良くなって眠気は増す一方である。
 まさに八方塞がり。だが、ウォルトはそれでも諦めずに必死に文章と向かい合った。眠らないようにと、ぶつぶつと文章を口に出してみる。
「――と比べ、弓という武器は他と異なっており――」
 周囲に不審がられない程度の大きな声で読み始めたにも関わらず、火が消えるようにして次第に声に力がなくなり、ウォルトの頭は完全にかくりと落ちてしまった。


「――ルト、ウォルト?」
 風のような声が耳を通り、ウォルトの鼓膜を揺らした。ウォルトはゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした視界の中に活字が浮いているのに気付いて、ウォルトは慌てて顔を上げた。
 すると深緑の髪の少女が、横から自分に視線を向けているのに気が付いた。彼女は草原の民族衣装を身に纏い、草の上に腰を下ろしている。驚いたウォルトは、思わずのけぞった。
「うわっ! ……スーさんか、びっくりした」
「私も驚いたわ。あなたがこんなところで眠っているから」
 ウォルトはまだぼんやりとしている頭をぴしゃりと叩いて起こし、スーと向き直った。
「ごめん。ランスさんから借りた本を読んでいたんだけど、眠くなってしまって……」
「本? それは、何の本?」
 興味津々といった様子のスーに、ウォルトは本を開いて見せる。
「戦術書だよ。武器の解説とか、戦いにおける心得とか」
「そう。騎士は皆、そういうことを勉強するの?」
「うん。でも、僕なんかまだまだだから、読んで頭に入れるだけで精一杯だけど」
 スーはウォルトの膝の上の戦術書を何ページかめくり、納得したように頷いた。
「あなたがここのところ眠そうにしていたのは、これを読んでいたからなのね」
 ウォルトは思わず目を見開いた。スーはその反応が意外だったらしく、何かおかしなところでもあったかと問うように首を傾げた。
 確かにここのところスーと一緒に行動する場面は多かったが、まさか気付かれているとは思いもしなかった。スーは他人に強い関心を持つような人物ではないように見えたからである。
「僕、そんなに眠そうにしていたかな……」
「ええ。目が赤い日もあったし、最近よく欠伸をしていたわ。何かあるのだろうと思ったけれど、あなたが何も言わないから、訊かなかったの」
 スーに瞳を覗き込むように見つめられ、どぎまぎする。
 野営する時はもちろん、制圧した城などで一夜を明かす場合も、軍の騎士たちは常に見張りのために起きている。睡眠不足なのはウォルトだけではないはずだが、彼らは決してそのような様子は見せない。こんなふうにすぐ気付かれてしまうのも自分の力が至らぬせいなのかと、ウォルトは思わずため息をついた。
「駄目だなあ、僕は。まだまだ未熟だ」
「一体、どうしたの」
 スーに言うべきか言うまいか迷ったが、何もかも見透かされるような瞳で見つめられたら、話さないわけにはいかなくなった。
「僕はもっとロイ様のお力になりたいんだ。だからランスさんに戦術書を借りて頑張ってみたけど……寝不足にはなるし、スーさんにもそれを気付かれちゃうし。どうしようもないね」
 再びため息。自分は情けないばかりだと落ち込んだ。ロイを支える立派な騎士になりたい、そう願い続けていたけれど、どうもそれは容易なことではないらしい。予想はしていたが、その厳しさに心が折れそうになる。
 するとスーが、髪と同じ深緑の瞳を向けて、口を開いた。
「でも、一番大切なのは、あなたよ」
「へっ?」
 唐突な言葉に、ウォルトは目を見開く。スーはウォルトを見つめたまま、言葉を続けた。
「無理をして、戦場で倒れてしまってはどうにもならないということよ」
 言葉に抑揚はないが、何故か包み込むような優しさを感じた。ウォルトは頭に思い切り衝撃を受けたような気分になった。努力することばかり考えていて、自分の体調まで気遣ったことはなかったが、確かに最も大切なのはそこだ。倒れてしまえば、それこそ皆に迷惑をかけてしまう。役に立つ、立たないという次元の話ではなくなるのだ。
「……うん、スーさんの言うとおりだね。僕、ちょっと焦りすぎていたみたいだ」
 ウォルトは反省しながら頭をかくと、スーはふわりと優しげな微笑を唇に浮かべた。
「でも、あなたはずっと頑張っていたのね」
「え……あ、でも、僕はまだまだ……」
「でも、寝不足になるまでそれを読んでいたんでしょう? ウォルトは十分、頑張っていたと思うけれど」
 謙遜しようとしたウォルトの言葉を遮って、スーはそう言った。またスーさんには助けられてしまったな、と、ウォルトは苦笑する。
「ありがとう、スーさん」
 スーは何か答える代わりに、ウォルトに向かって微笑みを見せた。


 そろそろ休憩が終わる頃かもしれない。ウォルトは立ち上がろうとして、くらりと眩暈がするのを感じた。思わずよろめき、スーの方へ倒れそうになる。気付いたスーが素早く立ち上がり、ウォルトの身体を支えた。
「大丈夫?」
「あ……ご、ごめん。大丈夫だよ」
 ウォルトは赤面して、早く離れようとする。
 だがスーがウォルトの身体を支えたまますっと膝を折り、ウォルトに再び座るよう促した。抗う力もなく、ウォルトが素直に腰を下ろすと、スーは支えていたウォルトの頭を自分の膝に下ろした。
 状況を理解した途端、ウォルトは異常に慌てて、すぐに起き上がろうとした。
「ス、スーさん! 何を……」
 スーはウォルトの頭の上に手を優しく置き、ウォルトが起き上がろうとするのを遮った。
「まだ誰にも呼ばれていないし、敵の気配もないわ。しばらく休んでおきなさい」
「あ、で、でも、僕、重いんじゃ」
「大丈夫。大したことはないわ」
 僕にとっては大したことなんだけど――そう言おうとしたが、口がぱくぱく開くだけで、何の言葉も紡いではくれなかった。眠気がないといえば嘘になるし、仕方なく、ウォルトはスーの好意に甘えることにした。
 こんな経験をしたことはなかったから、ウォルトの心臓はこれ以上ないくらい暴れていたが、どうすることもできなかった。スーは何も気にしていない様子だ。だからこそ、こうして平気な顔でウォルトの頭を自分の膝に載せられるのだろうが――
「昔、父がよくこうしてくれたわ」
 突然、ウォルトの頭上から声が降ってきた。
「疲れた時も、眠れない時も、こうしてもらうとすぐに眠れたの。父の膝の上は、暖かくて気持ちが良かったわ」
「スーさんの、お父さんは……」
 スーは黙って首を横に振った。垂れた長い髪がウォルトの鼻をくすぐる。ウォルトは申し訳ない気持ちになって、ごめん、と謝った。だがスーはいいえ、と言った。
「大丈夫。父が亡くなっても、その温もりを忘れたりはしないから」
「うん。そうだね」
 ウォルトも故郷に残してきた両親のことを思い出す。戦争に向かったため久しく会っていないが、自分をのびのびと育ててくれた両親を思い出すたび、温かい気持ちになれる。両親に成長した自分を見せるため、自分はもっと鍛錬に勉学に励まなくてはならないと決意を新たにした。再びフェレに帰る、その日まで。
「スーさん。少し、眠ってもいいかな」
「ええ。そうするといいわ」
 スーの手で、優しく額を撫でられる。
 それが誘いとなって、ウォルトは再び心地よい眠りの世界へと落ちていった。
(2009.12.24)
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