041.楼上「うつくしきせかい」

 今日も世界に夜の帳が下りる。
 時の流れを取り戻したとはいえ、やはり夜の森は暗い。セレビィは日課としている黒の森の見回りを終えた後、暗闇の中でそっとため息をついた。ただひたすらに世界の時が再び動き出すのを待ち続けていたあの時ほどではないが、寂寥感がひしひしと心の中に迫ってきていることに気付く。
 誰かが横にいてくれれば話も違うのだろうけど。思わずそんなことを呟く。直後、セレビィの頭の中に一匹のポケモンの顔が浮かんだ。一瞬の隙も逃さぬ鋭い目、微かに気障な笑みを浮かべる尖った口――セレビィは顔に血液が集まってくるのを感じ、慌てて首を振った。
 憧れのような、淡い恋情を抱いたことは確かにあった。今でもその思いは少し残っているのかもしれない。けれども、セレビィはその思いをわざと無視することにした。特別彼とどうなりたいというわけでもないし、一人で森と時の回廊を守って暮らしている以上は不要な感情に違いない。そうして無視し続けたおかげで、意識し始めた頃の胸を焦がすような熱い思いは既に消え、沈静化していたはずだったのだが――
「セレビィ!」
 突然名を呼ばれ、セレビィは心臓が止まるかと思った。振り向くと、そこには先程頭の中に浮かべたポケモンが一匹。
 心の中に素直に浮かび上がった嬉しい、という感情を慌てて隠し、セレビィは口を尖らせる。
「突然話しかけないでください、ジュプトルさん。わたしの心臓が止まったら、どうするつもりだったんですか?」
「すまない。お前がそこまで驚くとは思わなかったんだ」
 ジュプトルは一言謝った後、言葉を続けた。
「それより。お前に見せたいものがあるんだ。森の高台へ行こう」
 そう言うなり、ジュプトルは森の奥へ走り出す。あまりに突然のことに、セレビィは呆気にとられ、しばらく小さくなっていく彼の背を見つめていた。
 はっと我に返り、こうしてはいられないとセレビィは慌ててジュプトルの背を追いかける。ただ追いかけるといっても、その速度には限界がある。自分も決して遅い方ではないが、ジュプトルの方が僅かに足が速いことを、セレビィは知っていた。セレビィは森の木々の間を縫うように飛びながら、呆れたようにため息をついていた。
 いつだって彼はそうなのだ。思い立ったらすぐ行動しなければ気が済まず、腰を据えて待つということができない。仲間を連れて未来に帰ってきた時も、再会を喜ぶ間もなく過去へ戻っていってしまった。もう少しゆっくりしてくれてもいいのに、とこぼしたことを覚えている。それももう、遠い昔のことのようだけれど。


 高台のふもとのところで、ジュプトルは立ち止まっていた。後ろを振り返り、セレビィのことを待っていてくれたようだ。セレビィはすっとジュプトルの横を通り抜けると、少し高い場所で止まって、上からジュプトルを睨み付けた。
「もう。ジュプトルさんったら、いきなり走り出すんだから。追いかけるわたしの身にもなってくださいよ」
「すまない。けど、今が一番よく見える時間なんだ。早く上へ行こう」
「分かりました」
 小さくため息をついて了承した後、早歩きをするジュプトルの隣について飛びながら尋ねる。
「ジュプトルさん。そんなに見せたいものって、何なんですか?」
「すごく綺麗なものだ。過去の世界にいる時初めて見たが、俺はとても感動した」
「そんなに? あの、夜明けの太陽と、同じくらい?」
「そうだな。俺は同じくらいだと思う」
 闇のディアルガとの戦いの後――ジュプトルの腕に抱かれ、薄れゆく意識の中で見た夜明けの太陽。それがセレビィの見た初めての太陽だった。
 闇に包まれた世界を、一瞬にして光輝く世界に変えてしまう力を持つそれは、セレビィに無限の感動を与えた。時が動くということは素晴らしいことなのだと、あれほど実感できた時はなかった。その時のことを思い出すと、セレビィは今でもあの感動が蘇り、思わず涙を流しそうになる。
 高台の中腹まで来たところで、セレビィはふと、上空から不思議な光が降り注いでいることに気付いた。セレビィが疑問に思って上を向こうとした途端、緑の手がにゅっと伸びてきて、セレビィの視界を覆い隠した。
「きゃっ! なにするんですか、ジュプトルさん!」
「今はまだ見るな。上に行ってからの方が、綺麗だから。――よしセレビィ、急ぐぞ」
「えっ? 急ぐって、もうわたしは――」
 これ以上速く行けませんよ、と言おうとした途端、セレビィの身体は大きな腕に抱きすくめられていた。ジュプトルの身体と密着していると理解した瞬間、心臓の鼓動が速まる。少しだけ上を向くと、にやりと気障に笑うジュプトルの顔がそこにはあった。
「俺がお前を連れて行く。これなら問題はないだろう」
「ちょ、ちょっと――」
 何かを言う間もないまま、セレビィはジュプトルの腕に抱かれ冷たい空気の中を走り抜けていた。
 ジュプトルがやや身体をかがめて走っているせいで、彼の顔がより近づく。セレビィは顔がこれ以上ないくらい熱くなってくるのを感じた。心臓は相変わらず胸の中で暴れているし、抵抗しようにも言葉を発することのできないくらい、彼の足は速い。どうしようもなくなって、セレビィは黙ったまま彼の胸に身体を委ねるしかなかった。
「ほら。見えてきたぞ!」
 ジュプトルが上空を見上げながら言い、セレビィもつられるようにして空を仰いだ。
「あ……」
 セレビィが思わず声を洩らしたと同時に、ジュプトルの足が止まった。どうやら頂上に着いたようだ。だがそんなことも気にならなくなるくらい、セレビィは空の景色に目を奪われていた。
 墨で塗りつぶしたような夜空に、丸く浮かぶ黄色い物体が一つ。それが神秘的な光を放ち、高台を明るく照らしているのだった。太陽もそうだが、かつて時の失われた世界では、世界に光を振りまくものなど一切存在しなかったのだ。時が流れていることを再び実感し、セレビィはしみじみと感動していた。
「あれは、なんなの?」
「ツキ、というらしい。夜になったら、太陽の代わりに出てくるものだ」
「ツキ……」
 口の中でその名前を繰り返す。
「なんだか、神秘的な名前ね」
「ああ。綺麗だろ?」
「ええ。とっても綺麗……こんなに綺麗なものがこの世界にあっただなんて……」
 セレビィは自分の前に回されているジュプトルの腕をそっと握った。ジュプトルもそれに気付いたのか、少しばかり腕の力を強めてくる。真っ赤になって抵抗することばかりを考えていた先程よりも明らかに密着したのに、セレビィはそこから抜け出そうとはしなかった。
 嬉しい。その気持ちだけが、今のセレビィの心を占めていた。いつもは封印しているはずの思いも、今だけはその鎖から解き放たれているような気がした。
 ――また……一緒に見られたのね。
 あの夜明けの太陽の時と同じ。ジュプトルの腕の中で、一緒に美しいものを見ることが出来た。それだけで、セレビィは天にも昇るような思いになった。ジュプトルがどんな思いであの月を眺めているのかは分からないが、自分と同じくらい喜んでいればいいのに、とセレビィは無意識に願っていた。
「ねえ、ジュプトルさん……」
「なんだ、セレビィ?」
「わたしやジュプトルさん、みんなが取り戻した世界って……こんなに、こんなに綺麗な世界だったのね。わたし、知らなかったわ……」
 セレビィがしみじみと言うと、ジュプトルも頷く。
「ああ、そうだ。時があるというのは、本当に素晴らしいことなんだ」
 世界の中に時が存在し、その流れに従って生きるということ。それは全ての生物たちにとって当たり前のことであるはずなのに、今まではそれが当たり前ではなかった。
 その当たり前の世界がどれほど素晴らしいものであるのか、それは夜明けの太陽を見、そして今月を眺めているセレビィとジュプトルが、誰よりも一番よく知っているのだ。
「わたし、幸せよ……」
 あの時には言えず、心の中にとどめた言葉を口にする。直後、自分の頭上で、ジュプトルが強く頷く気配がした。
「ああ、オレもだ。セレビィ、また見に来よう。一緒に」
「ええ……」
 天上の青白い光を見つめるセレビィの瞳から、小さな水の粒が零れ落ちた。
(2010.1.20)
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