エリンシアから爵位を授かり、新たな衣装に身を包んだアイクは、まだ慣れない様子で大神殿マナイルの廊下を歩いていた。
アイクとしてはこの衣装を着るのにまだ抵抗があったため、あまり人に見られたくなかったのだが、幸いにも歩いてしばらくの間は誰にも会わずに済んだ。いよいよクリミアにとっての敵国――デイン王国に進軍することになる。皆、そのための準備で忙しいのだろうと、アイクは思った。
そうして、あと一つの角を曲がれば自分の部屋に着く、という時のことだった。
「なかなか、様になっているようだな」
後ろから落ち着いた声が聞こえ、アイクは思わずそちらを振り向いた。そこには、微笑みを浮かべた、明るい緑の髪の男性が立っていた。
「ソーンバルケか。珍しいな、あんたが外を出歩いているなんて」
アイクがそう言うと、ソーンバルケはふっと笑った。
「私とて、気分転換に外を歩き回ることはある。ずっと神殿の中にいるのは、いささか退屈なのでな」
「あんたもそう思うのか。俺もそうだ。ここは窮屈でかなわん」
アイクはソーンバルケの言葉に同意した。
昔から続く身分制度に縛られ、古くからの伝統や規律を重んじる国、ベグニオン。自由な国風のクリミアで育ったアイクにとって、その国は窮屈で仕方がなかった。まるで見えない糸でがんじがらめにされているような気さえした。
そんな糸など、早く断ちきってしまえばよい――アイクは何度もそう思ったが、この場でそうすることはできなかった。アイクは仮にも、クリミアの王女エリンシアを護衛する傭兵団の団長なのだ。自分が勝手な行動をとれば、エリンシアの名誉が傷つくということくらい知っていた。
この爵位を授かり、新たな身分を手に入れることも、できることなら辞退したかった。だがサナキに説得され、アイクは気が進まないながらもそれを受け入れざるを得なかった。
今着ているこの新しい衣装もサナキが用意してくれていたらしいが、落ち着かず、どこかむずがゆい感覚が抜けなかった。自分はもう一つ、新たな糸で縛られてしまった――そんな気さえ、していた。
ソーンバルケは、アイクの今の姿を隅々まで見回し、ふ、と笑い声をもらした。アイクは言い訳するように言った。
「俺は爵位などに興味はなかったが、エリンシアが、どうしてもと言うからな」
「気が進まないようだな。だが、なかなか悪くはないぞ。その格好も」
「そうか? 正直、慣れる気が全くしないんだが」
「心配せずとも、そのうち慣れるだろう。人は、そういうものだ」
そう言って、ソーンバルケは意味ありげな笑みを浮かべる。ソーンバルケの心の内が全く読めず、アイクは微かに首を傾げた。
他人の細かな心の動きにあまり敏感でないアイクでも、ソーンバルケのような人間を相手にすると、戸惑うことも多かった。何もかもを見透かしたような瞳で、こちらをじっと見つめてくる。そのくせ、自分の心の内は、決して明かそうとしないのだ。
「それで……どうだ、お前の剣は。その身分と同じように、成長したのか」
突然ソーンバルケに問われて、アイクは少し考えた後、答えた。
「わからん。鍛錬は続けているが、ここのところあまり実戦に出る機会がなかったからな」
「そうか」
ソーンバルケは相づちを打った後、考えるような仕草をした。アイクがその様子を怪訝そうに見つめていると、やがて考えがまとまったのか、ソーンバルケが微笑みを浮かべながらアイクに言った。
「ならば、手合わせ願おうか。お前の技が極まったのかどうか、見てみたい」
「あ、ああ……よろしく頼む」
アイクは少し驚いたが、その申し出を受けることにした。
二人はマナイルの敷地内にある訓練場に向かった。神殿の中にいるばかりでは腕がなまるだろうと、サナキが特別に設けてくれたのだ。元老院の反発もあったようだが、少しの間だけだからと、サナキが説き伏せたらしい。
その日、その場所には誰もいなかった。好都合だ、とソーンバルケは言った。二人は広場の真ん中辺りで、少し離れて相対した。訓練用の剣を抜いて構えると、じり、と靴が砂を踏みしめる音がした。ソーンバルケは剣を抜かぬまま、穏やかに微笑みながら言った。
「お互い、倒れたら負けだ。それでいいな?」
「ああ」
「ならば、お前から来い」
ソーンバルケはそう言って、剣をゆっくりと抜き、構えた。
すぐに、アイクは駆け出していた。ソーンバルケに近づき、剣を横から上へ振る。ソーンバルケの体はその軌跡をすり抜け、アイクが斬りかかった方とは別方向から剣を振り下ろしてきた。アイクはそれを、咄嗟に自身の剣で受け止める。金属と金属がぶつかり合う、鋭い音がした。
アイクはソーンバルケの剣を跳ね返し、今度は剣を持ちながら跳び上がった。そうしてそのまま剣を振り下ろそうとしたのだが、ソーンバルケは速かった。一瞬で別の場所に移動できる超能力を使用したのではないかと思うくらい、アイクの剣をさらりと避けてしまった。
「まだ、だな。お前の剣は、まだ極まっておらぬ」
ソーンバルケは独り言のようにもらした。アイクはその言葉に思わずかっとなり、ソーンバルケに向けて剣を薙いだ。無茶苦茶、と言われても仕方のない斬り方であったため、当然、剣はむなしく空を斬るばかりであった。何度も、何度もソーンバルケに向けて剣を振り上げた。斬り込もうとした。突き刺そうとした。それでも、ソーンバルケには易々と避けられてしまうのだった。
次第に、アイクの息が上がってきた。額から汗が流れ、荒く息をつきながらソーンバルケを睨み付けている。それを見て、ソーンバルケは静かに言った。
「では、こちらから行くぞ」
一瞬の出来事だった。
目にも止まらぬ速さでこちらに駆けてきたかと思うと、途端、アイクの体のあちこちから痛みが走った。自分の目の前にいたはずのソーンバルケは、いつの間にか自分の後ろにいて、剣を収めたところだった。痛みに耐えきれず、ぐ、と呻いて、アイクは倒れ込んだ。ソーンバルケがこちらに振り返る足音が聞こえた。アイクは歯を食いしばって立ち上がろうとした。
「成長していないわけではない。だが、まだ極めてはおらぬようだ」
アイクは膝をつく体勢まで起き上がり、ソーンバルケの方を向いた。
「今、あんた……一体、何をした?」
「『流星』……私はそう呼んでいる。剣を極めし者のみが、修得できる技だ」
ソーンバルケがそう言った後、アイクは立ち上がってソーンバルケを見た。ソーンバルケは、相変わらず穏やかな表情を崩していなかった。アイクはその澄んだ瞳を見つめながら、ソーンバルケに言った。
「その技は、俺にも修得できるものなのか。可能なら、教えてもらいたい」
すると、ソーンバルケは首を横に振った。
「いいや、お前には無理だ」
「何故だ。俺の剣の腕がまだ未熟だというのか? だったら――」
「そうではない。私の剣技とお前の剣技では、型が違うのだ。お前のその独特の剣技では、『流星』は修得できまい」
「ならば、俺はどうすればいい? あんたが言うように、剣を極めるには」
尋ねると、ソーンバルケは落ち着いた口調で返した。
「お前にしかできぬ技があるはずだ。それを身に付けることだな」
「俺にしかできない技、か……」
自分にしかできない技。突然そう言われても、戸惑うしかなかった。既にある剣の技を覚えるのは、容易とは言えないが、まだ簡単な方だ。だが、今度ばかりは自分で技を編み出さなければならないらしい。それが一日や二日でできるものではないことくらい、アイクも知っていた。自分はどうすればいいのか、ますます分からなくなった。
アイクが黙り込んだのを見て、ソーンバルケが思いがけないことを口にした。
「お前は既に、その技を修得しかけていると見たが……どうだ?」
「何? 俺が?」
アイクは下の方に向けていた顔を上げ、ソーンバルケの顔を見た。ソーンバルケはああ、と答えた。
「先程の手合わせで、お前は一度、跳躍してから私に斬りかかってきたな」
「あ、ああ。それがどうかしたか?」
「あのような技は、私も目にしたことがない。あれは、自分で考えたのか? それとも、師に習ったのか?」
「いや、親父に習ったんじゃない。かといって、俺が考えて編み出したわけでもないが……自然と、体がそう動いていたんだ」
「なるほど」
ソーンバルケは納得したような顔になった。
「自分に合った技というものは、体が自然と編み出すものだ。現に私も、そうして『流星』を修得した。お前の場合は、その技がきっかけになるのではないか?」
「そう、か。なるほどな……」
同じ師に習った者であっても、誰一人として全く同じ剣技を操る人間はいない。同じ技でも、自然と自分の体に合った技へと変化していくものだ。そういったソーンバルケの話に納得がいったアイクは、先程よりは幾分か晴れた気持ちになっていた。
そうしてアイクは、ソーンバルケに頼んだ。
「なら、あんたも手伝ってもらえないか。俺の技を、完成させるために。俺に、剣を教えて欲しい」
「ふむ、良かろう。私もお前の完成した剣技を見てみたい」
ソーンバルケは微笑み、承諾した。
その何時間か後、アイクは再びソーンバルケと相対していた。日は既に傾きかけていた。アイクは剣を構え、視線を真っ直ぐソーンバルケに向けた。
はっ、と息を吐き、アイクは手に持った剣を空に放り投げた。剣先が夕日に照らされ、赤く光る。続いてアイクは、その剣を追いかけるようにして自身も跳び上がった。空中で柄を握り、ソーンバルケに向けて振り下ろす。剣は空中を真っ二つに割り、そのままソーンバルケの服を切り裂いた。一息つく暇もなく、アイクは下ろした剣を今度は上に薙いだ。剣の切っ先が再びソーンバルケの服に触れ、服に剣の軌跡が残った。
はあ、はあ、とアイクは荒く息を吐いた。剣を構えた体勢のまま、ソーンバルケを睨むようにしてじっと見つめる。すると、ソーンバルケの唇に微笑みが浮かんだ。この数時間、一度も見せたことのなかった笑みだった。
「完成したようだな」
その言葉を聞いた途端、アイクの体から力が抜けた。同時に、心に達成感が湧き出した。達成感は心を満たし、アイクを晴れ晴れとした気持ちにさせた。
「やっと、か……」
「これで、ひとまず区切りはついたな」
そこで一度言葉を切って、ソーンバルケは続けた。
「ところで、お前はこの技の名を考えているか?」
「技の、名前?」
「そうだ。私の、『流星』のような名だ」
「そうだな……」
アイクは体に溜まった疲労を感じながら、頭を回転させた。その名は、案外すぐにアイクの頭に浮かんだ。それを、アイクはそのまま口にした。
「『天空』、だ」
「なるほど。天へ跳躍し、空を斬る技、か。良い名前だ」
「ああ、俺もそう思う」
自分で付けた名だが、と心の中で付け加え、アイクはソーンバルケに向かって微かに笑った。ソーンバルケもそれに微笑みで応え、アイクに言った。
「それでは、私はこれで帰るとしよう。お前の剣技が更に磨かれることを期待している」
「ああ。ありがとう」
アイクが礼を言うと、ソーンバルケは微かに頷いた。そしてアイクに背を向け、訓練場から去っていった。ソーンバルケから伸びる長い影を見ながら、アイクは訓練用の剣を握りしめていた。
「俺の技、か」
その技は、自分の体にしっくりと馴染んだ。これが技を編み出すということなのかもしれない、とアイクは思った。
アイクは訓練用の剣を片付けた後、訓練場を去った。夕日に照らされたアイクの顔は、これまでに見せたことがないくらい、満足そうなものだった。