突進してきた魔物を素早く右にかわし、アスベルは抜刀した。手に不思議な光が宿るのを感じる。騎士学校から出て、初めて実地訓練に行った場所で覚醒した力。アスベルは刀剣を振り上げると、敵に向かって思い切り振り下ろした。
「雷斬衝!」
魔物の身体を眩い雷が貫く。その白い光の中で、魔物の姿は完全に消え失せていた。アスベルはその場に立ったまま素早く周りを見渡し、他に敵がいなくなったのを確認する。
他の仲間たちも同じようにしてアスベルに視線を向け、戦いは終わったと言わんばかりに頷いた。
だがその時、突然鋭い声が飛んだ。
「アスベル! 後ろ!」
アスベルが驚いて後ろを振り向くと、そこにはまだ魔物の姿が残っていた。どうやら自分の陰に隠れ、自分はもちろん、他の仲間たちからも見えなかったらしい。
慌てて身体を翻し攻撃をかわすと、すぐ後に強い衝撃が周りの空気を震わせた。
「やあっ!」
ソフィだった。ストラタで入手したばかりのルーンリストを手に嵌め、魔物に向かって拳を送り出す。最後残っていた魔物はその衝撃に吹き飛ばされ、あっという間に消えてなくなった。
「守る!」
魔物を倒し終わったソフィは、そう言って胸の前で拳を作った。他の仲間たちはそれを見て、一様に安堵の表情を見せた。
だがそれとは対照的に、アスベルの表情は暗くなった。やや俯いて、ソフィの言葉を反芻する。
守る。その言葉がどれほどの重みを持つのか、アスベルは一番よく知っている。それだけに、聞き逃せない言葉だった。思わず拳を握りしめる。
――俺は、またソフィに……守られたのか。
言い表せない悔しさが、胸の中を占める。
その昔、自分は守る側の人間であると信じていた。だからソフィに『守る』と言われた時も、自分が他人に、ましてや女から守られることなど有り得ないと一蹴していた。だが後に、その認識が間違っていたことを痛いほど思い知らされる。
自分は守る側の人間にならなければならない――そう思って今日まで努力してきたが、ソフィの前ではまだ、守られてばかりだ。七年前のあの日も、フェンデルの兵器に襲われた時も、成長したヒューバートに完膚無きまでに打ちのめされ、ラントを追い出された時も。一度ラントでリチャードと対峙した際、ソフィの危機を救ったこともあったが、あれは自分が“守った”とは到底言い難いものであった。
『守る!』
ソフィは事あるごとに、自分に向かってそう言う。彼女が自分に向ける純粋な気持ちは快く受け取っていたし、またそのつもりだったが、その単語だけはどうしても認めることができなかった。
「アスベル、どうした、行くぞ」
気が付くと、マリクが自分を見下ろしていた。他の仲間たちも、黙ったまま突っ立っていたアスベルを心配そうに見つめている。
アスベルは首を振り、笑顔を作った。
「大丈夫です。行きましょう」
マリクに向かってそう言うと、マリクはしばらく何か言いたそうな顔をしていたが、やがてふっと笑い、先へと歩き始めた。アスベルも仲間たちと共に、その後に続いた。
ストラタの都ユ・リベルテの宿屋は、さすが都市の宿屋というだけあってか、他の街の宿屋と比べても格段に大きく、過ごすのに快適な設備も十分に整っていた。入ってすぐに目を引くのが室内に滝のように流れている清水であり、またその場所に備え付けてある小さな雪だるまである。ストラタは砂漠の国であり、年中厳しい暑さが続いているが、この装置があるせいか、宿屋の中は常に変わらず快適な温度が保たれていた。
夜、誰もいなくなったロビーに、アスベルは顔を出した。いつもは戦い疲れてよく眠れるはずなのに、今日ばかりは何故か深夜に目が覚めてしまった。目が覚めてもしばらくは布団を被って横になっていたが、どうにも眠れそうになく、静まりかえったロビーに足を運んだのだった。
ソファに腰を下ろし、ため息をつく。考えていたのは、昼間のことだった。ソフィの放った何気ない一言が、まるで鎖のようにアスベルの心を締め付けていた。
自分が一人では何もできない無力な人間だということは自覚したつもりだったのに、自分はまだそれを認め切れていないのだ、とアスベルは思った。大切な少女一人守る力もないどころか、逆に守られている。
幼い頃に読んだ物語の中では、いつも男性が女性を守るという構図が取られていた。その格好良さに憧れ、自分もそうなれると無条件に信じていたあの頃が懐かしく思える。気が弱いヒューバートと、身体の弱いシェリアの間にいて、守る側にいられるのは自分だけだと自惚れていたのだ。ソフィに出会い、あの出来事を体験したことで、その幻想は無残にも打ち破られてしまったのだが。
あの時、自分が背後の様子にもよく気を配っていれば。後悔の念ばかりが打ち寄せる。そうすれば、ソフィに守られることもなく、自分の剣技で敵を薙ぎ払うことができたのに。
アスベルの口からは、無意識にため息が洩れていた。
その時、宿屋の二階から物音が聞こえ、アスベルはふっと顔を上げた。きょろきょろと辺りを見回すと、ちょうど階段から下りてきたソフィと目が合った。
「アスベル、起きてるの?」
アスベルは安堵に似たため息をついた。
「ソフィか。どうしたんだ?」
「下で音がきこえたから、なにかと思ったの」
「そうか。横、座るか?」
「うん」
小さく頷いて、ソフィはアスベルの隣に座った。こうして見ると、ソフィは本当に小さい。そう思うのは、彼女が七年前と全く体格が変わらないせいだろうか。こんなに華奢な身体から、あのような鋭く強烈な衝撃を繰り出すなんて、とアスベルは改めて驚いた。
アスベルの視線に気付いたのか、ソフィが顔を上げて首を傾げる。
「アスベル?」
「あ、ああ、いや、なんでもない」
アスベルは慌てて首を振った後、ソフィの頭に優しく手を当てた。
「ソフィは……強いな。俺なんかが守る必要もないくらいに」
言いながら、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。自分はこの、たった今この世界に生まれ落ちたばかりのような純粋で汚れの知らぬ少女に、無意識に庇われることを期待している。そんなことはない、アスベルだって強い――世辞などという汚れた大人たちの言葉を、ソフィが知るはずもないのに。
「アスベルは、わたしが守る」
期待外れだが、しかし予想通りの言葉。
透き通った瞳で見つめられ、アスベルは手を下ろし、思わず泣きたくなった。彼女の言葉には偽りや嘘が一切含まれていないと分かるからこそ、自分の心に良くも悪くも強く響くのだ。
守られるしかない自分はこの少女にとって、必要ない人間なのかもしれない――ふとそんなことを考えてしまって、アスベルは慌てて首を横に振った。
「どうして、ソフィは」
心の中に秘めていた疑問が、唇を突き破る。
「ソフィは、俺を守ろうとするんだ……?」
呟くように発せられた疑問に応えるように、ソフィは真っ直ぐにアスベルの瞳を見つめていた。やがて、ソフィの唇が言葉を紡いだ。
「大切、だから」
「大切……」
「アスベルは、大切だから」
少女の真っ直ぐな視線が、その言葉が嘘でないことを物語る。アスベルはソフィから視線を逸らし、俯いた。胸を締め付ける感情が込み上げる。しかし、先程まで胸を鎖のように縛り付けていた感情とは、明らかに違う種類のものだった。
守る守らないなどと、小さな事に囚われていた自分が恥ずかしくなった。アスベルは今までのつまらぬ感情を振り払うかのように頭を振り、自分の手のひらを見つめた。
不思議な光の宿った手。どうして突然、あんな新たな力が湧いたのかは分からない。だが、同じように不思議な光を手に宿すようになったシェリアに聞けば、そうなったのは七年前のあの事件からだという。
アスベルはソフィへと視線を戻した。もしかしたら、この力はソフィが与えてくれたものなのかもしれない。大切な誰かを守ったり、癒すことのできる力。ソフィは自身と引き替えに、アスベルたちにそれを与えてくれたのかもしれない。
アスベルは再び、その手をソフィの頭へと押し当てる。ソフィはゆっくりと首を傾げた。
「ソフィ、俺は」
そこまで言いかけて、言葉を誤ったと感じ、言い直す。
「――俺も、お前のことが大切だ」
今度は自分もこの力で、大切な彼女を守れるように。
ソフィの唇が、微かに笑みの形に変化した気がした。
「わたし、アスベルのこと、すきだよ」
「……ああ、俺も」
汚れなき言葉たちは、何にも邪魔されることなく、すとんと心の中へ落ちていった。