061.時計

 ある日の放課後、火原は珍しく、練習室にやってきていた。
 火原は一人で練習するのがあまり好きではなく、練習室を利用することもほとんどなかったのだが、今日はたまたま、予約していた友人が急用で入れなくなったとかで、使用権を譲ってもらったのだ。
 使用時間は五時半から下校時間の六時までの三十分だった。火原は少し遅れたものの、すぐに練習室に入って楽譜を広げた。その後で、ちらりと時計に目をやる。五時三十六分。ふう、と深呼吸してから、火原はトランペットを構えた。
 すぐに、勇ましく歯切れの良い音が、練習室いっぱいに満ちる。ワーグナーの『双頭の鷲の旗の下に』は、火原が好きな曲の一つだった。そして、次のセレクションで演奏する予定の曲でもある。
 火原は目を伏せて楽譜をちらちらと見ながら、両方の手と指を動かした。火原の吐き出す息が、音色となって勢いよく空間へ放出される。それがなんとも言えず心地よいのだ。これだからトランペットはやめられないと、火原は常々そう思っていた。
 だが、しばらく曲が進んだところで、トランペットが急に黙り込んだ。火原が口を離し、目線を上にやったからだ。
 視線の先には、先程も見たはずの時計。
 時計の短針は、三十九分を指していた。当たり前だが、大して時間は経っていない。火原は少し落胆しつつ、楽譜をめくる。
 めくりながら、ふと、火原の頭にある女の子の顔が浮かんだ。同時に、先程の出来事も徐々に蘇ってきた。
 そう、火原が時計を気にするきっかけとなった、出来事が。


 先程、練習室に来る前。火原は普通科のエントランスで日野と会った。
「日野ちゃん!」
 彼女の姿を見るなり、火原は日野に話しかけた。
 相手は同じ学内コンクールに出場している、いわばライバルともいえる存在だ。だが火原は、そのライバルたちと四六時中火花を散らし合うような、殺伐とした関係でいるつもりはなかった。日野に対しても、火原は心からそう思っていた。だからこそ、気軽に話しかけることもできた。
 日野は急に声をかけられて驚いたようだが、相手が火原と知って笑顔を見せた。
「あ、火原先輩、こんにちは。よく来るんですね、ここに」
「うん。ま、これから練習室行こうと思ってるんだけどさ」
「そうなんですか?」
「そう。おれが予約してたわけじゃないんだけど、友達が急用で入れなくなったとかで、おれに譲ってくれたの」
 日野はうらやましそうな顔をした。
「いいですね。練習室、いつもいっぱいで入れないから、うらやましいです」
「へへ。日野ちゃんも来る?」
「いいですよ、火原先輩の邪魔しちゃ悪いですから」
 日野はやんわりと断った後、そうだ、と思い出したように言った。
「あの、火原先輩。今日、誰かと一緒に帰る予定とか、ありますか?」
「ん? ううん、別にないけど。なんで?」
「あの、良かったら一緒に帰りませんか?」
 火原の心臓が、とくんと音を立てて大きく動いた。一瞬、どう返答すべきか迷ったが、ためらうことなど何もないはずだ。そう思って、火原は笑顔のまま頷いた。
「うん、いいよ!」
 それを聞いて、日野は心底ほっとした表情を浮かべた。
「良かった。じゃあ六時に、校門前で待ってますね」
「うん。また後でね!」
 火原は手を振って、その場から離れた。
 練習室に向かって歩いているうち、何故か自然と早足になった。足の動きに合わせて、心臓の鼓動も速くなっていく。右手に持っているトランペットケースが、何故かいつもより軽くなったように感じられた。
 頭には、ちらつく日野の顔。だが火原は思わず首を振って、慌ててそれを追い払っていた。
 火原は自分を襲った妙な感覚に首を傾げながらも、練習室の扉を開ける。そこには当然誰もおらず、何故かそんな当たり前のことにほっとした。
 すぐに楽譜を広げ、ケースからトランペットを出し、構える――そうして、今ここにいるというわけだ。


 そんなことをぼんやりと思い出していたら、時計の短針がもう四十五分を指していた。火原は慌ててトランペットを構え直し、続きから演奏しようとする。
 だが、火原のトランペットから放出された音は、先程よりも勢いのない、弱々しい音だった。
 火原はトランペットを下ろし、小さくため息をつく。こんなこと、今までなかったのに――
 日野の顔をまた頭の中に浮かべ、驚いたわけでもないのに心臓がぽんと跳ねる。視線は自然と、また時計へ向かう。四十七分。今から片付けて校門に行くには早すぎるし、かといってまた一曲通して吹いていたら間に合わなくなってしまう、微妙な時間だ。
「あー、どうしようっ」
 火原は頭をくしゃくしゃとかいた。その後で、またため息が出る。だがそんな自分が嫌になって、火原は大声で独り言を言った。
「悩むなんて、おれらしくないよな! よしっ、今日は終わり!」
 そうと決まれば話は早い。火原はケースにトランペットをしまい、楽譜を折ると、自分の鞄の中にしまいこんだ。
 鞄とトランペットケースを持ち、準備が完了したところで、また時計を見る。時計は五十分を指していた。よし、と意味もなく頷いて、火原は勢いよく練習室の扉を開けた。
 すると、ほぼ同時に隣の練習室の扉が開いた。
「うわあっ!」
 火原は思わず驚いて大きな声を出してしまった。その後で、隣から出てきた人物を見て、火原は胸を撫でおろした。
「なんだ、柚木かあ。びっくりした」
 出てきた柚木も火原に目をやり、驚いたように目を丸くした。
「あれ? 火原。珍しいね、練習室にいるなんて」
「今日はたまたま。柚木もここで練習してたの?」
「うん。幸運なことに、今日は予約が取れたからね」
 柚木はそう言って穏やかに微笑んだ。
「コンクールに出ているからといって、練習室を優先的に使えるわけではない、というのが辛いところだね」
「まあ、練習室はみんなのものだもんな」
 火原の言葉にそうだね、と同意した後、柚木は言葉を続けた。
「そうだ。今日、一緒に帰る? 車で送っていくよ」
「あー、今日はごめん。実は先約があってさあ」
 火原が顔の前で手を合わせて申し訳なさそうに謝ると、柚木は不思議そうな顔をした。
「へえ、そうなのかい? 誰と?」
「日野ちゃん。さっきエントランスにいた時に会ってさ、一緒に帰ろうって言われたんだ」
「へえ……彼女から? それは少しうらやましいね」
 柚木はくすくすと笑いながら言った。そうでしょ、と返そうとして、火原はまた心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。何故だか、気恥ずかしいような思いがしたのだ。
 へへ、と笑ってその思いをごまかした後、ああっと火原はまた大声を出した。柚木が怪訝そうな顔で、火原を見つめた。
「どうしたんだい? 急に大声なんか――」
「柚木、今っ、今、何時?」
「ええと……五十五分というところかな?」
「わっ、遅れちゃうよ! じゃあまた明日ね、柚木!」
 一方的に会話を断ち切ると、火原は柚木に向かって手を振った後、廊下を走りだした。
 校舎から校門まで、かなりの距離がある。遅れて、日野を待たせるわけにはいかない――その一心で、火原は足を動かした。幸い自分には、中学時代に陸上で培ってきた足がある。小さな風を起こしながら、火原は懸命に走った。
 校門が見えた時、既に日野はその場に立って待っていた。火原は焦り、大声で日野の手を呼びながら手を振った。
「おーい、日野ちゃーん!」
 その声で、日野はすぐさま火原に気付いたらしく、ぱあっと笑顔になった。日野だけではなく、他の生徒たちからも注目を浴びてしまったが、気にするどころではなかった。
「はあ、はあ……」
 やっと日野の前に着いて、荒く息をついていると、日野がくすくすと笑いながら言った。
「火原先輩、そんなに急がなくてもいいですよ。私、ちょっと早めに来ていたんですから」
「でも、日野ちゃんを待たせるわけにはいかないと思ってさ」
「ふふっ。ありがとうございます、火原先輩」
 その声が天使のように優しげに聞こえて、火原の心がいくらか安らいだ。
「じゃ、帰ろっか、日野ちゃん」
「はい」
 二人は笑みを交わし合った後、校門を離れようとした。
 その直後、下校時間を知らせる放送が校内に鳴り響いた。火原は思わず振り返り、校舎を見つめる。
「今が六時ちょうど、だったんだね」
「はい。なんだか、すごいですね」
 日野も振り返って、感動したように頷く。
 その時、近くにいた誰かの時計から、かちり、という針の動く音が聞こえたのを、火原ははっきりと聞いた。
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