064.仮初

 制圧したばかりのリューベック城には、未だ不穏な空気が満ちている。
 まだ幼いデルムッドをオイフェとシャナンに託し、ベオウルフとラケシスは他の仲間達と共に、イザークに逃げて行く子供たちを見送った。
 次第に小さくなっていく彼らの背を見ながら、見送る親たちの顔が次第に複雑な表情に変化していく。これから戦は更に激しさを増すことだろう。その上、この先向かうのは死の砂漠とも呼ばれるイード。ただでさえ生きて渡った者はないと言われるその地に踏み込んで行くのに、子供たちを連れては行けない、せめて子供たちだけでも異国の地で生き延びて欲しいと願う親は多かった。ラケシスもその一人で、悩んだ末、デルムッドを二人に託すことを決めたのだった。
 まだ生まれたばかりの娘ナンナは、ラケシスの腕に抱かれて眠っている。一人では何もできない赤ん坊のナンナを手放すのはさすがに憚られ、この子だけは自分の手で守ると決めた。両親の髪の色を受け継いだ娘は毛布にくるまり、何も知らずに安らかな寝息を立てていた。
 自分たち家族に宛がわれた部屋に戻り、ラケシスはそっとベッドに腰を下ろした。ナンナの顔を見る度、胸が苦しくなる。同時にイザークへと落ち延びて行ったデルムッドのことを思い、ラケシスは息ができなくなりそうな感覚に陥った。
 その時扉が開いて、ベオウルフが入ってきた。いつもと変わらぬ夫の姿に、ラケシスは安堵する。
 ベオウルフはラケシスの顔を見つめ、その瞳の揺らぎを感じたようだった。
「不安か」
 ラケシスは思わず顔を伏せた。そうするとナンナの寝顔が視界に入って、ますます心が動揺する。
 デルムッドをオイフェ、シャナンに託すと決めた時、ベオウルフは何も言わなかった。そうか、と頷いて、ただラケシスの決意を受け止めただけだった。今まででも子供たちのことに関して、ベオウルフが何か口を挟んできたことはほとんどなかった。応とも否とも言わず、ラケシスの決定を全てその通り受け止めていた。
 そのことが、ラケシスを急に不安にさせた。
「本当に、これで良かったのよね……」
 溜息をつきながら、ラケシスはぽつりと呟くように言う。それでも、ベオウルフからの反応はない。ラケシスはたまらず顔を上げて、ベオウルフを真っ直ぐに見つめた。唇が震えているのが、自分でも分かった。
「貴方はどう思っているの。デルムッドを預けたこと、ナンナを手元に置いておくと決めたこと……」
 縋るような目で見つめた。答えが欲しい。自分以外の誰かに、自分の決定が間違っていないと言って欲しかった。だがベオウルフは難しい顔をして、眉間に皺を寄せた。はっ、と不安な気分に陥ったが、ベオウルフは何も言わなかった。
「ベオウルフ……どうして何も言わないの。後悔しているの? 私の決定が間違っていると思っているの? それとも……子供たちに、興味がないの?」
 口にしてから、何て恐ろしい質問をしてしまったのだろうと後悔した。それは胸の奥に、ずっとずっと引っかかっていたことだった。
 ベオウルフは子供に無関心なわけではない。ラケシスが城下町に買い物に出掛けたり、湯浴みする時、きちんと面倒を見てくれる。母親がいないと泣き喚いてしまうナンナを抱きながら、やれやれと溜息を吐くことはありながら、それでも高くに抱き上げてあやし、デルムッドが部屋の中ではしゃぎ回るのを、愛おしそうに目を細めて見ていることもあった。だから、無関心ではないと、そう思いたかった。だが、それなら何故何も答えてくれないのだろう。ラケシスの心に、疑念が積もっていく。
 だが、次に飛び出したベオウルフの言葉は、思いもかけないものだった。
「なあラケシス。お前は後悔していないか? 俺とこうやって契りを交わしたことを」
 不意をつかれて、えっ、という言葉が思わず口から洩れた。冗談を言っているのではないかと思った。だがベオウルフの瞳は真剣そのものだ。いつも軽口を叩く時のように、笑った目をしていない。全く想定外の質問に、ラケシスは咄嗟に返答することができなかった。
「今まで生きてきて、一つ学んだことがある。それはな、確実なことなんてこの世には何一つないってことだ」
 ベオウルフの淡々とした物言いに、ラケシスは思わず唾を呑み込む。
「絶対? その言葉に何の意味がある。この世に絶対は有り得ない。シグルド公子を見ろ。絶対に離さないと誓いながら、細君を敵に奪われてしまったじゃないか」
 全身の毛が逆立つのを感じた。シグルドの妻ディアドラはアグストリアにて行方不明となった。一人にしなければ良かった、城にいろときつく言いつけておくのだったと、シグルドが何度も悔やむ姿を目にしているだけに、胸の痛みが増す。
 確かにこの戦乱の中にいると、確実なことなど何もないかのように思えてくる。下した判断が正しいか間違っているかなんて、誰にも分からない。神にしか分かりはしないのだ。
 ラケシスは震えた。それはなんて恐ろしいことなのだろうと。先程まさに、ラケシスは判断を下した。何よりも大切な子供たちに対する判断――しかしデルムッドに必ず生き延びて欲しいと願い、ナンナをこの手で必ず守ると誓ったところで、それが達成されるかどうかは分からない。ただがむしゃらに、目の前に広がる暗闇の中を、ひたすら切り開き進んでいくしかないのだ。
「例えばの話だ。俺がお前を手にしたいがために、お前の弱った時に近づいて優しくしていたのだとしたら、どうする?」
 ラケシスの目が見開かれた。
「……どういう、事?」
 口から紡がれる言葉が震えていた。最愛の兄エルトシャンの死に打ちひしがれ、自害すら考えていた自分を支えてくれていたベオウルフを思い出す。
 シグルド軍に所属していた者たちからは腫れ物に触るような扱いを受け、当の本人であるラケシスも誰とも会いたくなく、一人部屋の中で泣き暮らしていた。腰に携えた細身の剣を見ながら、何度もそれを首に突き付ける自分を想像した。不思議と恐ろしさは湧かなかった。ただ、そうやって死ねたらどんなにいいかと、そうしてエルトシャンの元に逝けたらどんなにいいかと、そればかりを思った。
 そんなラケシスにただ一人、どんなにラケシスが拒絶してもしつこいくらいに接触してきたのがベオウルフだった。ベオウルフが兄エルトシャンの友人であったという話を聞いていたから、ラケシスは次第にベオウルフとも向き合うようになった。
 剣の柄に手をかけたラケシスを制して、ベオウルフは言い放った。
「生きろ。エルトシャンはお前の死を望んでいない」
「貴方に何が分かるというの! 兄様の何が……」
「お前こそ何も分かってねえ! エルトシャンが死んで喜ぶと思うか。お前の持っている大地の剣は何のために授けられた? お前が生き延びるために決まってるだろうが!」
 ラケシスは瞠目した。部屋の隅に置かれた大地の剣を見て、ラケシスの目には涙が浮かんだ。エルトシャンの最期の姿が蘇る。赤いマントを翻し、シャガールを説得すると言って、きらめく川面のような金の髪をなびかせ走り去った兄。兄は最期まで美しかった。その美しい姿が血染めにされるなど、一体誰が望んだだろう。
 気付けば、ラケシスの口から嗚咽が漏れていた。視界は既に涙でぼやけ、ラケシスは顔を上げた。目の前に金髪の男が見えた。愛する兄エルトシャンと同じ、金色の髪。
「う……ああぁ……!」
 ラケシスは泣いた。人目を憚らず大声で、ベオウルフの胸に縋って泣いた。ベオウルフは何も言わず、ラケシスの背をいつまでもさすっていてくれた。
 それからというもの、ラケシスは少しずつ外に出るようになった。すっかりなくしていた食欲も戻り、以前のように笑うことも多くなった。ただ前と今とで違っていたのは、その傍らにベオウルフがいるようになった、ということだった。ラケシスはベオウルフから剣の手ほどきを受けた。ラケシスを救ってくれた兄の友人・シグルドのために、少しでも力になりたい。何よりこの戦乱を引き起こした元凶を断ち、もう一度兄の愛したアグストリアの地に戻りたい。その思いが、ラケシスを奮い立たせた。
 それら全てが、弱っている自分につけ込んで行われたことだったとしたら。ラケシスは心のどこかがぽっかりと空いた気分になるのを感じ、ただただ呆然としていた。
 それを見て、ベオウルフは気まずそうにラケシスに背を向けた。横を向いて、ぽつりと呟くように言う。
「……悪い。さっきのは冗談だ、忘れてくれ」
 釈然としないまま、沈黙。
 それに耐えかねたのか、ベオウルフは扉を開けて部屋から出て行こうとした。その時、ラケシスはあることに気付いて瞠目した。
「ベオウルフ、あの大剣はどうしたの?」
 ベオウルフは足を止め、僅かにこちらを振り返った。あの大剣とは、ベオウルフが大切にしていた鉄の大剣のことだった。常に腰に携え、戦場で馬に乗ったままそれを振り回す姿は、がむしゃらなようにも勇ましいようにも見えた。戦場でなくとも片時も手放さず、何度も城下町の武器屋に足を運び、店主に刃を研いでもらい大切に使用していたというのに、その大剣が今ここにないのは、どう考えてもおかしい。
 そこまで思って、ラケシスははっとした。
「ベオウルフ、貴方……まさか……」
 オイフェやシャナンたちと共に去っていくデルムッドの後ろ姿を思い出す。そういえば出発前、デルムッドはラケシスの側を離れどこかに行っていた。ベオウルフのところにでも行っているのだろうかと思っていたが、どうやらその予想は当たっていたようだ。
 ベオウルフは唇の端に、微かに笑みを浮かべた。
「俺にはこれくらいのことしかできねぇからな。結局あいつには、親らしいことは何もしてやれなかったが……」
 ベオウルフはあの大剣をデルムッドに託したのだ。出発前、自分の武器や持ち物を子に託す親は多かったが、まさかベオウルフまでそうしているとは思いもしなかった。すぐさま、ラケシスは先程恐ろしい質問をしてしまった自分を恥じた。子を愛さぬ親はいない。ベオウルフもそれは決して例外ではなかったのだ、と。
「ごめんなさい、私、貴方を疑ったりして……」
「謝るな。お前が疑うのは当然だ、これまで何もしてやれなかったんだから」
 そう言って笑うベオウルフの横顔は、心なしか寂しそうに感じられた。
「それから、さっきの答えだけどな。二人の未来を決めるのにふさわしいのはお前だし、俺はお前を信用している。お前の決定は、間違いないさ」
 いつもの軽い口調だが、その言葉は真剣味を帯びていた。嘘を言っているのではないと、咄嗟にラケシスは思った。同時に、喉元までせり上がっていた不安をようやく呑み込むことができ、ラケシスは大きな溜息をついた。ベオウルフが言ったとおり、この世に確実なことなど何もない。けれども自分の決定は間違っていなかったのだと、誰かに保証してもらえるだけでこんなにも安堵するものなのだ――ラケシスは改めて、思いを噛み締めた。
 照れくさそうに頭を掻いて、再び扉を開けようとしたベオウルフの背に、ラケシスは言葉を投げかけた。
「ベオウルフ、私も……さっきの答えだけれど」
 ベオウルフの足が止まり、彼の顔がこちらに向く。
「後悔していないわ。貴方とこれまで歩んできたこと、そしてこれからも歩めること」
 ベオウルフが微かに肩を震わせたのが伝わってきた。これから。そう、これからもだ。戦いは苛烈を極めることになるだろうが、それでも最悪の事態だけは考えたくなかった。最後まで希望を捨てないでいたかった。
「これからも一緒よ、ベオウルフ」
「……あぁ」
 小さく、返答。
 扉が閉まる音がして、ベオウルフの足音がだんだん遠ざかっていくのを感じた。嫌な予感をどこかに抱えながらも、そこに思考を届かせまいと、ラケシスは心の中で踏ん張りながら、愛しい娘ナンナの前髪をそっと払った。
(2010.12.7)
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