072.胎動

 ドレスの裾を持ち上げて、ブリギッドはただひたすらに走った。
 人々の間をすり抜け、セイレーン城から逃げるようにして、外へ出た。廊下を歩いている兵士たちが驚いたようにブリギッドを見たが、気に留めている暇はなかった。
 海賊として、男たちに囲まれて育ったブリギッドにとって、このような貴族の重たい衣装を身につけるなど、苦痛でしかなかった。それでも今日はセイレーン城でパーティが行われるからと、エーディンに言われて仕方なくドレスを着ることにしたのだ。
 化粧をし、髪を結い、美しい桃色のドレスを身に纏ったブリギッドは、実にエーディンに酷似していた。姉妹だから当たり前といえば当たり前のことなのだが、そのことはブリギッドにとって一つの苦痛をもたらした。
 すなわちそれは、自分がエーディンと見間違えられてしまうことだった。事実、こうして逃げる間にすれ違った兵士たちに何度も「エーディン様が」と言われたし、何より、パーティに参加していたシレジア貴族の一人がブリギッドの手を取りながら、エーディンと呼んで、ダンスに誘ってきたのだ。
 思わず、その手を強く振り払っていた。女性とは思えぬその強さに、貴族は驚いたようだった。
「私はエーディンじゃない」
 怒りのこもった声が出た。貴族はようやく自身の過ちに気づいたらしく、唇をわななかせ、恐れの目でブリギッドを見つめた。
 確かに、最初は怒りが心のほとんどを占めていた。だが時間が経つにつれ、どうしようもない悲しさが襲ってきた。ブリギッドは貴族から目を逸らすと、一目散に広間の外へ向けて走った。
「ああっ、お待ちください! ブリギッド様!」
 貴族の声が広間にこだましたが、ブリギッドは聞かなかったふりをした。涙がこぼれそうになったが、ブリギッドはそれだけはなるまいと耐えた。


 そうして、外へ出て、ブリギッドは自分の行動を後悔した。外が一面の銀世界であったことを、すっかり忘れていた。ドレスの裾は溶けた雪水を含んで変色し、夜の冷たい風がブリギッドの露出した肩を襲った。ブリギッドは思わず肩を両手で守っていた。
 その時、背後から声がした。
「お前、ブリギッドだな」
 はっと振り向くと、そこには目を閉じたまま木にもたれかかっているホリンがいた。ホリンは目を開けると、ブリギッドの方をじっと見つめた。
 ブリギッドはえ、と間抜けな声を洩らしていた。エーディンと間違えられることに慣れ過ぎて、一瞬、自分が呼ばれたと分からなかったからだ。
「今、なんて?」
「だから、お前はブリギッドだろう、と」
「私がブリギッドだって、分かったの?」
「ああ」
「どうして」
「見抜けない方がおかしい」
 ホリンは静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。
 何故ホリンが自分とエーディンを間違えなかったのか不明なままであったが、その時、ブリギッドの心に温かいものが溢れた。自分をブリギッドだと分かってくれる人がいた。しかもそれは、偶然見抜けたわけではないらしい。
 ブリギッドは微笑んで、ホリンに尋ねた。
「ずっと、ここにいたのかい?」
「ああ。ああいう華やかな会は、どうも苦手でな」
 ホリンは城の方を一瞥した。ブリギッドはすっかり安心して、ホリンの言葉に同意した。
「私もだよ。だけどどうしても、ってエーディンが言うものだから」
 ホリンはブリギッドのドレスを見つめた。ドレスの裾は、緩くなった地面の土ですっかり汚れてしまっていた。
「それで、ついに嫌になって逃げ出してきたというわけか」
「それもある。けど……」
「けど?」
「あんたのように、私を私だと分かってくれる人間が、あそこには一人もいなかったから」
 そう言いきった後、ブリギッドは胸をつんと突かれる思いがした。ダンスに誘おうと、ブリギッドの手を取った貴族のことを思い出した。あの時、エーディンと呼ばれた自分が、どれほど傷ついていたか――あの男には分からないだろう。ブリギッドは貴族に握られた手をもう片方の手で包み、その跡を拭うようにゆっくりとさすった。
 ホリンは眉根を寄せた。
「信じられんな。お前とエーディンを間違えるとは」
「そう、思うかい?」
「ああ。確かに二人はよく似ている。だが、よく見れば、すぐに見分けがつく」
 ブリギッドはここで、ずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。
「どこで私とエーディンを見分けるんだい? 見間違われるのはいい気分ではないけど、私とエーディンは確かによく似ているのに……」
「お前は、エーディンと違って、弓を扱うだろう」
 当たり前のことを言われて、ブリギッドは怪訝そうな顔をした。
「それが、一体――」
「お前の手には小さなまめができている。それが分かれば、見分けなど簡単につく」
 ブリギッドは思わず目を見開いた。慌てて、自身の手を見る。ホリンが言うとおり、確かに自分の手にはまめができていた。あまりに当たり前のことすぎて、今まで気付かなかった。
 そういえば、エーディンはもっと白く滑らかな手をしていた。
「よく、分かったね。こんなところ、誰も気づきやしないのに」
「お前をずっと見ていれば、気づくことだ」
「えっ?」
 ブリギッドは思わず訊き返していた。するとホリンははっきりとした口調で言った。
「前から、お前をずっと見ていた。お前だけを」
「どう、して?」
「興味があったからに決まっているだろう」
 さらりと言う。躊躇いも恥じらいもないその物言いに、ブリギッドは戸惑った。ずっと見ていたなど、気があると告白しているようなものだ。それをまるでなんでもないことのように、こうして言えるものなのだろうか――
「寒いだろう、早く中へ入った方がいい」
 いつの間にか話を変えて、ホリンがそう言った。その時に再び、ブリギッドは外の風の冷たさを思い出した。途端に、身がぶるりと震えた。
 それよりも、城を振り返った時、パーティでの出来事が思い出されて、ブリギッドの心がひやりと冷たくなった。どうしても、帰る気分にはなれなかった。
「でも、こんな姿のまま帰れないな。エーディンたちに、何を言われるか分からないし」
「なら、これを着るがいい。少しは寒さが和らぐだろう」
 ブリギッドが言い訳めいた言葉を口にすると、ホリンはそう言って、自分の羽織っていた上着を投げた。ブリギッドはそれを受け取って、まじまじと見つめた。
 上着はホリンの温もりを含んだままで、この寒さの中では熱の塊のように感じるほど、温かかった。
 ホリンの上着を羽織って、その温もりをしっかりと身に引き寄せた後、ブリギッドは礼を言った。
「ホリン、ありがとう。私――」
 何かを言おうとして、言うべき言葉が見つからなかったことに、ブリギッドは気づく。
 心が、揺れていた。ホリンの瞳が自分を映すたび、その瞳が違う場所へ行ってしまうたび、小刻みに揺れた。そのホリンは今、自分を見ている。何かを言いかけた自分の続きの言葉を、待ってくれている。
 ブリギッドは少しためらった後、口を開いた。
「もう少し、傍に寄ってもいいかな」
「ああ、構わん」
 ブリギッドはホリンの隣まで行った。するとホリンの手が伸びてきて、ブリギッドの肩を強い力で掴んだ。とくんと、ブリギッドの心臓が跳ね上がった。
 ブリギッドの肩を抱くホリンの手は、微かに汗がにじんでいた。今まで剣を振っていたからなのか、それとも、緊張しているのか――? 緊張などという、ホリンの様子からは想像もできない言葉が突然浮かんできて、ブリギッドは思わずくすりと笑ってしまった。
「何がおかしい?」
 ホリンに尋ねられ、ブリギッドはその黄金にきらめく髪と共に首を振った。
「なんでもないよ」
 自身の心に新たな羽が生え、未知の世界へ飛び立とうとしているように、ブリギッドは感じた。その世界がどのような場所かはわからないけれども、ブリギッドが今まで見たこともない世界であることは、確かだ。
 ブリギッドはいつの間にか、ホリンの体に身を寄せていた。
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