074.拒絶

「痛、っ」
 突然腕に痛みが走り、レックスは顔をしかめる。
 袖をまくると、痛みを感じた箇所から血が流れていた。気づかないうちに、攻撃を受けていたらしい。傷口をもう片方の手で押さえて血を止めながら、レックスは救護兵を探した。早く杖で傷口を癒してもらわなければ、今後の戦闘に支障が出てしまう。
 その時、レックスの後ろから声がした。
「レックス? どうしたの?」
 レックスが振り向くと、そこには杖を持ったエーディンが立っていた。レックスはしまった、という顔になったが、エーディンはレックスが腕を押さえているのに気づき、すぐに駆け寄ってきた。
「大変。すぐにライブをかけるわ」
「いや、いい。大したことはない」
 レックスはとっさに嘘をついていた。
 彼女は治癒の杖を使えるプリーストだ。そういう意味では、レックスが今探している救護兵には間違いない。だが、レックスはエーディンと必要以上の接触をしたくなかった。親友のアゼルが彼女に恋心を抱いているという事実が、その原因の一つなのかもしれない。
 いつもアゼルの恋を応援し、アゼルとエーディンの仲を取り持とうとしてきたレックス。だから自分は、必要以上に彼女と接してはいけない――誰に命令されたわけでもないが、レックスの心の中にはそんな意識が深く埋め込まれていたらしい。ゆえに、無意識のうちにレックスは彼女の厚意を断っていた。
 だが、エーディンは退かなかった。大したことはないというレックスに向かって、厳しい顔で首を横に振った。
「駄目よ。少しの傷が命取りになることもあるわ。さあ、見せて」
「いや、いいんだ。この程度の傷、よくあることだ」
 レックスは傷を隠し、エーディンから顔をそらした。本当は今すぐにでも治療してもらいたいくらいだったが、何故か気が咎めたのだ。
 そうして、エーディンのもとから去ろうとした時だった。突然、エーディンがレックスの傷を負った方の腕を握ったのだ。激痛が走り、レックスは顔を歪めた。その表情を見て、エーディンはため息をついた。
「やっぱり。大したことないなんて、嘘ね」
「それは……」
 言い訳しようとして、そんな言い訳など最初から存在しないことに気がついた。言葉に迷っていると、エーディンはレックスの腕を握ったまま杖を持ち、傷口に近づけた。杖の先に白い光が灯り、みるみるうちに傷口が塞がれていった。エーディンは杖をしまい、レックスをじっと見つめた。エーディンの瞳は真剣な光が宿っていて、レックスはそれを避けがたく感じた。
「どうして、嘘をついたの。あんなに痛そうな顔をしていたのに」
「いや……」
 答えられなかった。心の中にある何かが邪魔をしたから、なんて答えられなかった。しかもその何かの正体も判らないのに、言えるはずがない。レックスが黙っていると、エーディンがレックスの目を見て、尋ねた。
「私のことが、嫌いなの?」
 レックスはえっ、と驚いて、エーディンを見つめた。エーディンの瞳には、微かに悲しみの感情が宿っていた。
「あなた、いつも私を避けているから」
 エーディンの言葉に、レックスははっとさせられた。
 確かに、そうだ。自分はいつも、彼女を避けてきた。話しかけられても、適当にかわして逃げた。自分から彼女に話すことといえば、いつもアゼルのことだ。それ以外のことは何も言わず、ただアゼルという糸を残して、エーディンに繋がる他の糸を全て断ち切ってしまっていた。だから彼女とまともに話したことなんて、数えるくらいしかない。
 レックスは言葉選びに迷いながら、答えた。
「別に、あんたが嫌いなわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
 そこでまた、レックスは言葉に詰まった。だが、苦し紛れに、なんとか言葉を紡いだ。
「あんたとアゼルの仲を邪魔しちゃ、悪いと思ったんだ」
 その答えは、エーディンにとって意外なものだったらしい。一瞬目を丸くしたかと思うと、次の瞬間にエーディンはくすくすと笑っていた。レックスはその笑いの正体が分からず、怪訝そうな顔をした。エーディンはなおも笑いながら、レックスに言った。
「私とアゼルは、なんでもないわ。ただのお友達よ。それにアゼルは、もう別の恋を見つけたようだから――」
「そうなのか?」
「ええ。気づいていなかったの?」
 そう言われてみれば、最近アゼルの様子がおかしかった。戦場でも、エーディンとは別の女性とよく一緒にいるのを見たことがある。レックスは訝っていたが、いつものように内気なせいで、エーディンと接触できないだけかと思っていた。全ては、自分の思い込みだったのか。
「なんだ、そうだったのか」
 レックスはそう言って、ため息をついた。同時に、レックスの心を縛っていた鎖が解かれていくような気がした。その後、新たな感情が、レックスの心の奥から顔を覗かせていることに気がついた。
 それに気づいた時、レックスは全てを悟った。自分がエーディンを避けていた訳。それは、アゼルに遠慮したからではなかったのだ。アゼルのことは、ただの言い訳に過ぎなかった。エーディンに知らず知らずの間に惹かれてしまうことが、怖かったのだ。
 美しい女性だった。初めて各国の貴族が集まる舞踏会で出会ったとき、その美しさに目を奪われたのは、アゼルだけではなかった。揺らめく金色の髪。その髪に隠れるようにして、控えめに微笑む唇。優しげな光を宿した瞳。彼女の容姿を形容するのに、美しい以外の言葉が見つからなかった。
 その後のアゼルの思わぬ告白によって、レックスは彼女への思いを封印した。純粋に、親友のアゼルを応援したいという気持ちも無論あった。その気持ちを盾にして、自分の心の中にエーディンへの思いを隠したまま、あわよくば忘れようとした。
 彼女への必要以上の接触を断ったのも、そのせいだ。彼女に接すれば接するほど、封印したはずの思いがよみがえってくるかもしれない。それをずっと危惧していたのだ。
 果たして、それは現実のものとなってしまった。心を縛る鎖から解放されたことで、レックスの中にエーディンに対する思いがよみがえってしまったのだ。
 そこまで思って、レックスはふっと笑った。自分の協力がなければ、エーディンと話もできないアゼルのことを、レックスはいつもからかっていた。だが、人のことは言えないのだ。自分はアゼルよりもっと、臆病な人間だったのだから。
 レックスが突然笑ったのを見て、エーディンが不思議そうに尋ねた。
「どうしたの、レックス?」
「ああ、いや……俺は、情けない男だと思っただけだ」
「情けない?」
「ああ。アゼルのことばかり気にして、俺自身の気持ちをずっと隠していたんだからな」
 エーディンが、微かに首を傾げる。レックスはエーディンの瞳を見つめ、言った。
「俺はずっと、あんたのことが好きだったってことさ」
「えっ……」
 エーディンは目を丸くして、レックスを見つめ返した。レックスは笑い、言葉を続けた。
「あんたに特別恋人がいないなら、立候補させてもらいたいんだが。構わないか?」
 そう言われて、エーディンは戸惑いの表情を見せた。当然だろう。今まで嫌われていると思っていた男から、突然好きだと告白されたのだ。無理もない、とレックスは思った。
 彼女の返事を待っていると、しばらくして、エーディンがレックスに向かって微笑んだ。エーディンは穏やかな声で、レックスに答えた。
「喜んで」
 レックスはほっ、と胸をなでおろした。彼女を慕う男は、この軍の中ではとても多いと聞いている。そんな彼女なら、とっくに他の男と愛の言葉を交わしているかもしれないと思ったのだが、そうではなかったようだ。
「私も、ずっと貴方が気になっていたわ。でも、いつも素っ気無いから、嫌われているのだとばかり思っていたの」
 思いがけない言葉だった。レックスは思わず口を開けた。
「そうなのか?」
「ええ。でも、良かった。嫌われていたのではなくて」
 エーディンは安心した表情を見せて、にっこりと笑った。その笑顔が、今のレックスにはとても眩しく見えた。やはり、彼女は美しい。レックスは改めてそう思った。
 その後、森の向こうからオイフェがやって来た。怪我人が出たというので、エーディンを呼びに来たのだ。エーディンは頷き、オイフェについていこうとした。
 しかしそこでエーディンはふと立ち止まり、レックスの方を振り向いた。レックスが何だ、と疑問の視線を投げかけると、エーディンが言った。
「今度からあなたも、傷ついたら私のところへ来て。平気だなんて言わないでね」
「ああ、そうする。俺には、もうお前を拒む理由がなくなったから」
 その答えを聞いて、エーディンは安心したように笑った。そしてレックスに背を向け、オイフェの後を追いかけていった。
 そのエーディンの背を見送るレックスの顔は、今までで一番輝いていた。
Page Top