083.舞姫

 夕食の後、ホリンはセイレーン城の廊下を歩いて、部屋に戻る途中だった。
 部屋に戻っても、特にすることはない。夕食後鍛錬をするなどという者もいるが、一面の雪の中、外で剣を振る気にはどうしてもなれなかった。このまま寝てしまうのもいいが、部屋に一人でいるのが退屈になれば、誰か誘って酒でも飲めばいい。ホリンはそんなことを考えながら、廊下を歩いていた。
 ふと、目の前に現れた交差した廊下の向こう側から、人の気配がした。誰だろう、と疑問に思い、ホリンが視線を移すと、ちょうどシルヴィアが急いで廊下を駆け抜けていくのが見えた。あちらは確か、外へ出る方の廊下だ。こんな時間に外に用でもあるのだろうかと、ホリンはシルヴィアの跡をつけた。
 セイレーン城の外へ出たところで、シルヴィアは立ち止まった。腕に手を当て、さすりながら呟く。
「寒いわね、やっぱり……」
「こんな寒い中、一体どこへ行く?」
 ホリンはシルヴィアの後ろに立ち、そう尋ねた。シルヴィアはびくり、と体を震わせ、ホリンの方を向いた。ホリンの姿を認めると、シルヴィアは一気に安堵したような表情になり、なんだホリンか、と息を吐いた。
「びっくりするじゃない。あたしの跡、つけてきたの?」
「こんな寒い夜に、そんな薄着で外へ行くのは何故なのか、疑問に思ったからな」
 シルヴィアはいつもの踊り子の衣装に、薄い上着を羽織っただけの格好だった。シルヴィアが腕をさすり続けているのも当然だ。見ているだけで、何故かこちらまで寒くなってくる。
 ホリンに問われた後、シルヴィアはにやりと笑って答えた。
「城下町の酒場に行くの。そこで是非踊って欲しいって、頼まれちゃって」
「何? そんな場所、危険じゃないのか」
「大丈夫よ。こういうの、慣れてるから。じゃ、またね」
 シルヴィアはそこで会話を切って、ホリンに向かってひらひらと手を振った。シルヴィアはそのままホリンに背を向けて去ろうとしていたが、彼女の手を、ホリンは思わず掴んでいた。あまりに強く握りしめたためか、シルヴィアが痛そうな顔をした。
「ち、ちょっと、何よ。痛いってば、離して」
「俺も行く」
「は、はあ? なんで、ホリンが来るの?」
「暇なんだ。部屋に帰っても一人だから、することがないんでな」
 シルヴィアと共にその酒場へ行き、彼女の舞を見ている方が、よっぽど楽しく夜を過ごせそうだ――ホリンはそう考えたのだ。昼間、城の周りの広場で踊っている姿を観客に混じって見たことは何度もあるが、酒を飲みながら踊りを見るというのも、悪くないかも知れない。
 シルヴィアはしばらく怪訝そうな顔をしていたが、ついに納得したのか、頷いて言った。
「いいわ。じゃあ、一緒に来て」
 そう答えたシルヴィアの顔は、何故か嬉しそうだった。
 ホリンは時折吹く風に寒い、と呟きながら、シルヴィアの跡をついていった。


 酒場は当然の事ながら酒の匂いが漂い、男達がたむろしていた。静かに話している者たちもいれば、カードゲームにでも興じているのか、盛り上がっているテーブルもある。ホリンはシルヴィアと別れて一人で店内に入り、カウンター席に座った。マスターに酒を注文し、ホリンは舞台に目を向け、シルヴィアが出てくるのを待った。
 しばらくすると、舞台の裏から楽器を持った者たちが登場し、いそいそと準備をし始めた。それも完了した後、今度は裏からシルヴィアが出てきた。
 それに気付いた客たちが、おお、と歓声を上げながら拍手をした。それに応え、シルヴィアは微笑みながらお辞儀をする。その後でホリンの方を向き、軽くウインクをした。ホリンの方も軽く手を振って、それに応えた。
 音楽が始まった。軽快な打楽器の音が響き、それに合わせてシルヴィアは舞を披露する。白色の布を持ち、それをひらひらと動かしながら、自身も軽快な足取りでステージ上を跳び回る。ヒューヒューと、見ている男たちが指笛を鳴らした。
 先程見た時は上着を着ているから気付かなかったが、今のシルヴィアの格好はかなり際どいものだった。いつもより露出が多く、それが余計に男達の興奮を煽っているようだ、とホリンは他人事のように考えた。
 ホリンが一人で各地を放浪していた頃も、何度かこのような酒場で芸人の芸を見たことがあったが、シルヴィアの舞はそれに劣らぬものだった。初めは彼女の保護者のような気持ちで見ていたホリンも、知らぬ間にその舞に夢中になっていた。
 しばらくして音楽が止まり、それに従ってシルヴィアの動きも止まった。そこでぱらぱらと拍手があり、我に返ったホリンは、苦笑しながら手を叩いた。拍手は酒場中で起こった。シルヴィアは心底嬉しそうな表情で、手を振って拍手に応えた。
 ホリンはふと、自分の手元に目を移し、飲んでいたはずの酒が少しも減っていないことに気付いて、また苦笑した。自分は、それほどあの娘の舞に夢中になっていたのか。まだまだ子供だと思っていたのに――と、まるで彼女の保護者であるかのような独り言を心の中で呟き、酒を一気に飲み干した。
 シルヴィアの舞は終わってしまったが、もう一杯飲んでから帰るのも悪くはない。ホリンがマスターに、もう一度酒の注文をしようとした、その時だった。ガタッという音がして、シルヴィアの小さな悲鳴がはっきりと聞こえた。
「や、やめてったら!」
「へへへ、嬢ちゃん、俺と飲むの、付き合ってくれよ」
 見ると、舞台に一番近いテーブルに座っていた男が、へらへらと笑いながら立ち上がってシルヴィアを舞台から引きずり下ろそうとしていた。男は顔が真っ赤で、だいぶ酒を飲んでいるようだった。シルヴィアは抵抗していたが、やはり男の力の方が強いのか、引っ張られる一方だった。
 その時、男が一段と強い力でシルヴィアをぐいと引っ張った。シルヴィアは勢い余って舞台から落ち、男の胸に顔を押しつけた。男はチャンスとばかりにシルヴィアの背中に手を回し、肩を抱いた。シルヴィアはまたも抵抗したが、あまり効果はないようだった。
「へっへっへ、そう嫌がらなくてもいいじゃねえか、ちょっとぐらいよお」
「嫌だったら! 離しなさいよっ、この!」
 ホリンは立ち上がっていた。男がシルヴィアの肩を抱いた途端、怒りがどっとこみ上げたのだ。剣の柄に手をかけながら、ホリンは舞台の前まで歩いていった。シルヴィアがそれに気づき、ホリンと目を合わせた。助けて、シルヴィアはそう訴えているようだと、ホリンは思った。
 シルヴィアを捕まえている男の手を握り、ホリンは男を睨んだ。
「やめろ。嫌がっているだろう」
 男はそこで初めてホリンに気付いたらしい。目を剥き、ホリンを睨み返した。その目には、今にも殴りかかってきそうな気迫があった。
「あんだぁ、お前は。関係ねえだろう、引っ込んでろ」
 しかしそう言われて、あっさりとホリンが引き下がるわけがなかった。ホリンは男の手を強引に払った。男の手はシルヴィアを離れ、その勢いで男は床に叩きつけられた。シルヴィアは男から離れ、急いでホリンの後ろに隠れた。
 男はあまりに強い勢いで叩きつけられたせいか、上半身を起こすのがやっとといった様子だったが、怒りの形相で、先程よりも激しくホリンを睨み付けた。
「なんだお前! 関係ない奴が邪魔するんじゃねえ!」
「関係なくはない。彼女は」
 ホリンはそこで一度言葉を切り、考える間もなく、次の瞬間には続きの言葉を発していた。
「俺の、女だ」
 後ろにいたシルヴィアが、えっ、と疑問の言葉を発するのが聞こえた。
 咄嗟のこととはいえ、自分でもそんな答え方をしたのは予想外のことだった。酒場の静まりが、異様に重く感じられた。
「あんだとぉ? けっ、オス付きかよ!」
 男は舌打ちをし、悪態をつきながら、自分のテーブルに戻った。ホリンの一言で、シルヴィアに対する興味が完全に薄れたらしい。まだ殴りかかってくるのではないかと危惧していただけに、ホリンは拍子抜けした。が、これ以上騒ぎを大きくするのは本意ではない。ホリンはシルヴィアを腕を掴み、やや強く引いた。
「帰るぞ、シルヴィア」
「えっ? あ、ちょっと……!」
 シルヴィアは少しためらっていたようだったが、大人しくホリンに従って外に出た。


 外は相変わらず寒かった。酒場にいた間は気付かなかったが、そこそこ時間は経っていたようだ。既に明かりのない家もあり、来た頃と比べると街はやや暗めの雰囲気だった。
「怪我は、なかったか」
「う、うん」
 彼女の腕を引いて歩きながら、そんな言葉を交わした。シルヴィアの戸惑っている様子が、彼女を見なくてもはっきりと感じ取れた。
 正直なところ、ホリンも予想外の言葉が自分の口から飛び出したことに驚いていた。二人の関係を表すのに、仲間、というぴったりの言葉があったことに、ホリンは今更気が付いた。何故あの時、自分は彼女を自分の女だと言ってしまったのだろう。幼くて、まだ子供だとばかり思っていた娘を女と呼ぶのは、いささか不釣り合いであるように感じられた。
「ねえ、ホリン」
 シルヴィアが、不意に声を発した。ホリンは少し歩く速度を落とし、顔をシルヴィアの方に向けた。
「何だ」
「あの言葉、本気だったの?」
『あの言葉』が指すものに、ホリンは気が付いていた。もちろん、俺の女だ、と言ったあの発言だ。ホリンが何と答えればいいか迷っていると、シルヴィアが突然ホリンの腕に抱きついてきた。ホリンは驚いて、シルヴィアの方に顔を向けた。
「何をするんだ」
「いいじゃない。だって、あたし、ホリンの女なんだもん」
「あれは……場を収めるために言った、嘘だ」
 そう言うと、シルヴィアは少し口を尖らせた。
「なーんだ。本気じゃなかったんだ」
「当たり前だ」
 そう答えると、シルヴィアが不機嫌そうな顔になり、ホリンの腕に絡む力を少し緩めた。ホリンはシルヴィアの顔を見下ろしながら、何故か不思議な気持ちになっていた。
 子供だと思っていた。だが、一瞬、自分の見間違いかもしれないが、シルヴィアが“女”に見えた。あのような艶めかしい舞を見たせいなのかもしれない。あの舞に、ホリンは夢中だった。昼間見せないようなシルヴィアの女の一面を見た、そんな気がした。
 一瞬ためらったが、ホリンは決意して、シルヴィアに向かって言葉を発した。
「本当に、俺の女になるか」
「えっ?」
 シルヴィアが再び少し力を込めてホリンの腕に絡まり、やがてぱあっと明るい顔になった。
「本当に? ホリン、それって冗談じゃないわよね」
「ああ……多分な」
 言った後、ホリンは心の中で自身に苦笑した。自分は一体何を言っているのだろうか。一杯しか飲んでいないのに、もう酒が回ってしまったのか。
「多分って何よ。はっきりしてよ、もう」
「お前がそうしたいなら、そうすればいい」
「何よ、それ。男ならはっきり言ってって、言ってるでしょ」
 シルヴィアが不機嫌そうな声を出すので、ホリンは思わず言っていた。
「ああ、分かった。俺の女になれ、シルヴィア」
 ああ、ついに言ってしまった――。ホリンの言葉を聞いて、シルヴィアはくすくすと笑った。
「命令口調なの? ……でも、いいよ。あたし、ホリンの女になったげる。いいわよね」
「ああ」
 ホリンは言いながら、苦笑気味に笑っていた。今の自分は、やはり何か変なのかもしれないと、再び思った。
 酒のせいにして、あれは冗談だったと後で言えば、シルヴィアは許してくれるだろうか。そこまで考えた後で、ホリンは心の中で首を横に振った。きっと怒って、自分に悪態をつくだろう。泣き出して、周囲の同情を得ようとするかもしれない。そうなれば、まずホリンに勝ち目はない。
 どうやら、自分はとんでもない女をつかまえてしまったようだ。
 ホリンは歩きながら、明日の、意識がはっきりしているはずの自分に、ご愁傷様、と呟いた。
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