085.姫君

 白い鎧を身に着け、緑の髪を結い上げた彼女の姿を見た時、ジョフレは思わず目を瞠った。
 今まで不安げな色ばかり見せていたはずの瞳に、強固な意志が宿っているのが感じられた。震えていたはずの桃色の唇は勇ましく引き締められ、その細く白い手は腰に付けた剣の柄を握っている。
 ずっと自分に注がれているジョフレの視線が気にかかったのだろうか、エリンシアは微かに頬を赤らめた。
「ジョフレ、どうでしょうか、おかしいでしょうか?」
 尋ねられてやっと、ジョフレは我に返った。即座に、いいえと首を振る。
「そんなことはありません。とてもよくお似合いです」
「そうですか、良かった」
 エリンシアは微笑んだ。
 だが、ジョフレの心中は複雑だった。姫のこの姿は喜ぶべきなのだろうとは、頭の中で理解している。まだ平和だった頃に行った訓練で、エリンシアの剣さばきの美しさに驚いた記憶もある。しかし今までエリンシアは、ジョフレにとって守るべき対象だった。肩を並べて共に戦うなど、一体誰が想像しただろう。
 エリンシアが自分も戦いたいと申し出た時、ジョフレは姉のルキノやユリシーズと一緒になって反対した。クリミア城に近づくほど、戦いは厳しくなっていく。そんな最中、ろくに戦闘の経験を持たないエリンシアが戦うなど、無謀だ――何度も言葉を変え、三人は説得しようとしたが、エリンシアは決して折れなかった。
 エリンシアの頑固さに、とうとう臣下の方が折れざるを得なくなった。ユリシーズはエリンシアの曾祖母が身に付けていたという装身具と、かつての相棒であったペガサスを引き連れ、ジョフレは城の宝物庫から持ち出してきた宝剣アミーテをエリンシアに献上した。
 それら全てを身に纏い、エリンシアは今ここにいる。
 エリンシアは美しい――ジョフレは不謹慎ながらも、そう思った。初めて見た時からそう思ってはいたが、今のエリンシアには、今までになかった美しさが備わっている。それはこうして武装したからなのか、それとも引き締まった表情のせいなのか――ジョフレは嬉しくも、寂しくもあった。
 この美しい姫が戦場に出ていくことに、未だに不安を感じずにはいられなかった。エリンシアの姿は、良くも悪くも目立つ。遠目から見てもただの騎士には見えないし、エリンシアの顔はとうの昔にデイン軍に知れ渡っているはずだ。天馬に乗ったこの緑髪の女性がエリンシアだと分かれば、誰もが集中的にエリンシアを狙ってくるであろうことは容易に想像できた。
 そんなことを考えているうち、ジョフレは自分に注がれている視線に気付いた。エリンシアがこちらをじっと見ていたのだった。
「エリンシア様、どうかなさいましたか?」
「いいえ、ただ……」
 言いかけて、エリンシアは口をつぐんだ。ためらっている様子が見て取れたが、やがて決心したように、エリンシアはジョフレの目を真っ直ぐに見た。
「ジョフレ、不安ですか?」
 まるでジョフレの心中を見透かすかのような視線だった。ジョフレは一瞬動揺し、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
「エ、エリンシア様、それは一体どういう?」
 詰まりながら尋ねると、エリンシアが微かに目を伏せた。
「ジョフレが私を見る目が、とても不安そうに見えたから……」
 ああ、とジョフレは思った。何もかも、知られていたのだ。
 エリンシアは昔から、人の心の動きに敏感だった。自分では隠しているつもりなのに、エリンシアは鋭くその心情を見透かし、指摘した。まるで神話の中にいる鷺の民のように、人の心が読めるのではないかと疑ったこともあるほどだ。
「申し訳、ありません」
 ジョフレは背を真っ直ぐに伸ばした後、深く頭を下げた。だがすぐに、エリンシアが慌てたように言った。
「ジョフレ、どうか顔を上げて。あなたを責めているわけではないのですから」
 はっ、と短く返事をした後、ジョフレはゆっくりと顔を上げた。そうして見たエリンシアの唇は、先程と違って、やや震えを見せていた。
「あなたが不安に思っているのは、とてもよく分かります。私が未熟なせいで、ジョフレにまで不安を感じさせてしまうなんて……本当に、ごめんなさい」
「そんなことは――」
 ジョフレは否定しようとしたが、エリンシアは首を横に振った。
「いいえ。私は分かっているのです。自分が未熟なことも、経験不足なことも、痛いほどに」
「姫……」
「この防具を身に付けるまで、そんなことは考えもしなかったのに――今になって、自分の実力不足をひしひしと感じるのです。それが、不安で仕方なくて」
 情けないですね、とエリンシアは言った。
「あなたや、ルキノ、ユリシーズにあれほどわがままを言ったのに、私が不安を感じているなんて」
 強固な意志を宿していたはずのエリンシアの瞳が、揺らいでいた。
 突然自分の心情を吐露したエリンシアに、ジョフレは驚いていたが、無理もないと思った。むしろ、そう思わない者の方が珍しいのだ。
 ジョフレは少し迷っていたが、やがてエリンシアを安心させるように、強い口調で言った。
「それは、仕方がないことです。戦場に向かう者なら、誰もが経験することですから」
 エリンシアははっと目を見開いた。
「そう、でしょうか?」
「ええ。戦場に向かうのに、不安を感じない者などおりません。いたとすれば、その者は余程自信があるか、命知らずなのでしょう」
 ジョフレがきっぱりと言うと、エリンシアは表情を和らげた。
「ですから、姫が気に病む必要はございません」
 もう一押し、ジョフレが力強く頷くと、エリンシアはほっと息を吐いた。
 きっと溜めていたのだろうと、ジョフレは思った。不安を隠すために、心の奥に押し込めるために、厳しい表情をしていただけなのだ。
「それに」
 ジョフレは付け加えた。
「私も、姉も、ユリシーズもおります。ですから、姫が必要以上に気負われることも、不安を感じられることもありません。今まで通り全力で、姫をお守りいたします」
 エリンシアは驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑みを取り戻した。
「ありがとう、ジョフレ。だいぶ気が楽になりました」
「いえ、私の言葉などが、姫のお役に立てたなら何よりです」
 ジョフレがそう返した後、エリンシアは微かに声を洩らしながら笑った。表情を和らげたエリンシアを見て、ジョフレの心もいくらか安らいだ。
 しばらくの後、再び、その口はすっと引き締められた。凛々しい表情だった。その目は、明らかに戦場に向かう者の目をしていた。固い決意と、揺るがぬ信念。今のエリンシアは、そのどちらも持ち合わせているように、ジョフレは感じた。
「それでは、行きましょうか。ジョフレ」
「はっ」
 ジョフレは一礼し、エリンシアの後ろを歩いた。
 だがすぐに、エリンシアの足が止まった。慌ててジョフレも立ち止まると、エリンシアはジョフレを振り返り、思いがけないことを言った。
「ジョフレ、先程あなたは、私を全力で守ってくれると言っていましたが」
「はい、もとよりそのつもりで――」
「その必要はありません。どうか、これからは私を、一人の騎士として扱ってください」
「姫!?」
「お願いです」
 エリンシアの瞳には、再び、固い意志が宿っていた。
 その瞳は、エリンシアの父王、ラモンを思い出させた。彼もまた、勇ましい瞳を持った王だった。その王に仕えられること、そしてエリンシア姫を守れることが、ジョフレの何よりの幸せだった。
 その姫が、既に王の片鱗を見せ始めていることを、ジョフレは感じずにはいられなかった。
「了解、しました。エリンシア様」
「ありがとう、ジョフレ」
 ジョフレの言葉を聞いて、エリンシアはにこりと笑った。その後、白いマントを翻して、エリンシアは再び歩き出した。
 ――もう姫は、私たちがお守りすべき姫ではないのだ。
 ジョフレはエリンシアの凛々しい後ろ姿を見ながら、それを僅かに寂しく思った。
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