091.一緒

 目を覚ました時、鋭い痛みがエフラムの頭を襲った。耐えきれず、思わず頭を押さえる。
 するとがたりと人の動く気配があって、エフラムはそちらに目を向けた。そこには心配そうな顔のラーチェルがいた。
「目を覚ましたんですのね? 具合はいかがですの?」
「ああ、ラーチェル……俺は一体、どうしたんだ?」
「倒れたのですわ。あんなに根をつめて仕事をするからですわよ」
 たしなめるような口調であった。エフラムはようやく思い出した。そういえばここのところ毎日仕事にかかりきりで、ろくに休息を取っていなかった。
 皆の前では平気な顔をしていたが、王になったことに対する重圧は、エフラムの心に強くのしかかっていた。尊敬する亡き父、ファードのような国王になれるかという不安。リオンの跡を引き継ぎ、グラド帝国を見守る役目を背負ったことに対する不安もあった。その不安は、目の前の仕事を片付けることで忘れようとしていた。だがそれもやりすぎてしまったようだ。
 エフラムは自分のふがいなさに苦笑すると、ゆっくりと頭を枕の上に下ろした。その上から、ラーチェルが布団をかけ直した。
「少なくとも、今日一日は寝ていなくてはいけませんわ。いいですこと?」
「仕方がない。今のままでまた仕事にかかったら、皆に迷惑をかけるだけだからな」
 エフラムが素直にラーチェルの言葉を受け入れると、ラーチェルが目を丸くした。エフラムは怪訝に思い、尋ねた。
「どうした?」
「いいえ。ただ、驚いたんですの。動いていないと気が済まない性分のあなたが、わたくしの言うことを聞いてくださるとは思わなかったんですもの」
 ラーチェルの答えを聞いて、エフラムは思わず笑った。
「そうかもしれない。だが、俺も王だ。いつまでも自分の思うままにやるわけにはいかないさ」
「自覚を持たれることはいいことですわ。でも……」
「でも?」
「あなたらしくなくて、少しつまらない気もしますわね」
 ラーチェルの言葉がおかしくて、エフラムはまた笑った。自分の思うままに突っ走れば王の自覚がないと怒られ、自重しようとすればらしくないと言われる。
 エフラムは少しいたずらな質問を、ラーチェルにぶつけた。
「一体君は、どっちの俺の方が好きなんだ?」
 ラーチェルは一瞬また目を丸くしたが、その後で軽く睨みつけてきた。
「エフラム。くだらない質問はおやめなさいな」
「少しくらい訊いてもいいだろう、俺たちは夫婦なんだから」
 エフラムがしつこく追及すると、ラーチェルは仕方がない、といったような様子で小さくため息をついてから答えた。
「わたくしはエフラム、あなただから好きになったのです。それ以上でも、それ以下でもありませんわ」
 ラーチェルはそう言って、微かに頬を赤らめた。
 その反応が愛しく見え、エフラムはラーチェルの手を自分の方に引き寄せた。戸惑ったように近づいてきたラーチェルの唇に、エフラムは口付けをする。
 彼女の顔を離れ、にやりと笑うと、ラーチェルは怒ったような顔をした。だが、ラーチェルは本気で怒っているわけではない。いつもこうなのだ。おおよそ照れ隠しのつもりなのだろう、とエフラムは考えていた。
「今日は決してここから出てはなりませんわよ。わたくし、後でまた来ますから」
 そう言って出て行こうとするラーチェルの手を、エフラムはやや強く引いた。ラーチェルが驚いたような顔をして、エフラムを見つめる。
「なんですの?」
「分かるだろう? 退屈なんだ。せめて話し相手になってくれないか?」
「困った方ですわね」
 ラーチェルは小さくため息をついた。その後で、ゆっくりと微笑む。
「いいですわ。そういえば最近、あなたとまともにお話ししていませんでしたものね」
「そうだな。それに、君の話はいい退屈しのぎになる」
 エフラムの言葉を聞いてラーチェルは嬉しそうに笑い、話を始めた。
「エフラム、ご存知? 最近、エイリークが――」
 その話は、夕食の時間を告げられるまで、続いた。エフラムの部屋からは、終始楽しそうな笑い声が響いていた。


 次の日の朝。
 エフラムはまだ頭痛が残っているのを感じていたが、これ以上眠ってはおれなくなった。ラーチェルの忠告を聞いていられるのも今日までだったということだ。
 机の上に載っている書類に目を通し、軽いめまいを覚える。だが、情けないことに、未だに重圧からくる不安がエフラムを襲っていた。これ以上心にわだかまる不安と戦うためには、仕事を続ける他ないと、エフラムは判断した。
 昨日はラーチェルと話をして心がまぎれていたが、今日まで彼女を付き合わせるわけにはいかない。ラーチェルも暇ではないのだ。
 椅子に腰を下ろし、残っている書類に目を通そうとした時、部屋の扉が軽くノックされた。
「エフラム、入ってもよろしくて?」
「ああ、構わない」
 エフラムは扉に背を向けたままそう答え、頭痛と戦いながら書類に目を通そうとした。
 その後すぐにラーチェルが入ってくる音が聞こえたかと思うと、ラーチェルの小さな悲鳴が聞こえた。エフラムはそれに反応して、思わず後ろを振り向いてしまった。
「なんだ、ラーチェル、どうしたんだ?」
「それはこちらの台詞ですわ! エフラム、いけませんわ、寝ていなくては!」
 エフラムは平気だ、と笑顔を作った。
「昨日はゆっくり眠った。心配しないでくれ」
「それは無理ですわ。だってそんなに、辛そうな顔をしていらっしゃるのに!」
 そう言ったラーチェルの顔が、一番悲しそうで辛そうだった。
「エフラム、どうしてですの? どうして、そこまで頑張るんですの。わたくしには、分かりませんわ」
 ラーチェルの声は、悲痛な響きを伴っていた。それを分かっていながらも、エフラムは本当の理由を話す気にはなれなかった。エフラムは微笑んで首を横に振った。
「大丈夫だ、ラーチェル。もう平気だから」
「エフラム……」
 ラーチェルの悲しげな声が、エフラムの名を呼んだ。その声を苦しく受け止めながら、エフラムはラーチェルに背を向け、再び机に向かった。
 その時だった。かつかつと足音が響いたかと思うと、ラーチェルがすっとエフラムの隣に立った。そしてエフラムが目を通そうとした書類を奪うと、書類の山に戻してしまった。エフラムは思わず目を見開き、ラーチェルを見つめた。
「ラーチェル、何を――」
「エフラム、わたくしをルネスで一番綺麗な場所に連れて行ってくださいまし」
 一瞬、エフラムの頭に多くの疑問符が浮かんだ。何故突然、ラーチェルがそんなことを言い出すのか分からなかった。
「今からか? 今度の休日にでも――」
「いいえ、今すぐにですわ。このお願いを聞いていただけないなら、わたくし、ロストンへ帰ります」
 きっぱりとした口調であった。
 エフラムは彼女の口調の強さに圧されていた。事実、本当に言う通りにしなければ、彼女はロストンへ帰ってしまうのではないか――そう思わせるだけの勢いがあった。
「分かった、そうしよう」
 エフラムは立ち上がって承諾した。ラーチェルはそれを聞いてにっこりと微笑んだ。
「それではわたくし、支度をしてきますわ。どこへ連れて行っていただけるのか、楽しみにしていますわね」
 そう言って、ラーチェルは部屋を出て行った。エフラムはしばらく呆然としていたが、頭を振り、彼女をどこへ案内するか考え始めた。
 子供の頃から城の中でじっとしていることなどできなかったエフラムは、しょっちゅう城の外へ出て騎士たちや父王に怒られていた。そんなエフラムがルネス一綺麗な場所と言われて、頭に浮かぶ場所はいくらでもあった。城の裏にある小高い丘。そのふもとにある花畑。もしくは城下町だって、非常に見栄えの良い場所だ。さて――エフラムは考えを巡らせた後、ラーチェルを花畑へ案内することに決めた。あそこまで行くだけなら病み上がりの自分でも辛くないし、何よりラーチェルは花が大好きだった。きっと喜んでくれることだろう。
 エフラムは階下へ行き、ラーチェルが支度を終えるのを待つことにした。


「それで、エフラム、どちらに連れて行ってくださいますの?」
 自身の馬に乗りながら、ラーチェルが尋ねた。
「この丘のふもとに、花畑があるんだ。きっと君なら気に入るだろうと思ってな」
「まあ。素敵ですわ」
 ラーチェルは心底嬉しそうな声を出した。ラーチェルが喜んでくれることが、エフラムにとっても嬉しかった。
 しばらく馬を歩かせると、やがて目当ての場所が見えてきた。その場所は長らく訪れていなかったが、変わらず色とりどりの花々が咲いていた。赤、白、桃、黄――ラーチェルが歓声を上げるのが聞こえた。
「まあ……! とても綺麗ですわ!」
 二人は馬から降り、花畑の方へ近寄った。城に飾られている生け花も上品で美しいが、野の花は生き生きと輝いて、また違う美しさを光らせていた。
 ラーチェルはしゃがみ、一輪の花の花弁に触れた。そして、満足げにその花の香りをかいだ。その後で、ラーチェルはしゃがんだままエフラムの方を向いた。
「こんなに綺麗な場所がありましたのに、どうして今まで教えてくださらなかったんですの?」
「あまり時間が取れなかったからな。戦争が終わって、ルネスへ帰ってきて……こんなところに来ている暇など、なかった」
「そういえばそうですわね。わたくし、今でこそあなたの妻ですけれど、あまり一緒に外へ出た記憶がありませんわ」
 ラーチェルがしみじみと言った。その言葉で、エフラムも思い出した。彼女に連れられてどこかへ行った記憶はあれど、自分から誘って自分しか知らぬ場所に連れてきたことは、今まで一度もなかった。それほどまでに、自分は仕事に夢中になっていたのか。否、夢中にならざるを得なかったのか――エフラムは思わず苦笑した。
「エフラム。少し気分は紛れまして?」
 いつの間にか、ラーチェルがエフラムの前に立っていた。妙な問いだ、とエフラムは思った。自分はラーチェルの気晴らしのために、ここに連れてきたのではなかったのか。
「俺より、君はどうなんだ。気に入ってくれたなら、俺としても嬉しいが」
「勿論、とても気に入りましたわ。でもそれより今、大事なのはあなたのことですわ」
「どういうことだ? 俺のこととは」
 訝るエフラムに、ラーチェルはそっと溜息をついて、言った。
「あんなに辛そうなのに、それでも仕事をしようとするあなたを見て、何か、それもあまり良くないものが、あなたをそうさせているのではないかと思いましたの。違いまして?」
 ああ、とエフラムは肩を揺らして笑った。ラーチェルは聡明な女性だということを、すっかり失念していた。そして何より、ラーチェルはエフラムの妻だ。夫である自分の細かな心情の変化に気づいたとしても、何もおかしなことはなかった。
「君に隠し事はできないようだな」
「当たり前ですわ。わたくしたちは永遠を誓った夫婦なのですわよ、そうでしょう?」
「ああ、その通りだ」
 エフラムは頷いた。ラーチェルはエフラムの手を取り、自分の手と重ねた。
「話してくださいますわね?」
「ああ」
 エフラムはラーチェルの手をやや強く握った。今なら、なんでも目の前の女性に話せる気がしていた。夫婦として、一生一緒にいる誓いを交わした、この女性に。
「ラーチェル、聞いてくれるか、実は――」
 エフラムはそうして、自身の心情をゆっくりと語り始めた。
 ラーチェルは微笑んだまま、じっとエフラムの話に耳を傾けてくれていた。
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