097.束縛

 時折、ピアノが羨ましいと思う。あの人を惹き付けてやまないピアノに、突然狂おしいほどの嫉妬心が湧き上がることさえある。その指が自分の肌に触れることがあっても、それは一日のうちのごく僅かな時間だ。漆黒の肌を持つピアノ、行儀良く揃えられた白い鍵盤に触れている時間の方が、ずっとずっと長い。それが当たり前のことなのだと頭では理解できていても、感情の部分が納得してくれるかどうかは、また別の話だ。
 自室でピアノを弾く設楽を見ながら、彼女はぼんやりと考えていた。既に曲は耳に入ってこなかった。設楽の指が鍵盤の上を自在に動き、美しい音を奏でる。まるでピアノの鍵盤一つ一つを大切に可愛がるかのように、彼の指は鍵盤を愛撫していた。
 彼女は思わずソファから立ち上がって、設楽の隣に立っていた。設楽は顔を上げて、彼女を驚いた目で見る。それでも鍵盤から決して指は離さない。彼女はたまらない気持ちになって、思わず設楽の手を掴んでいた。設楽は反射的にその束縛から逃げようと、抵抗する。
「何をするんだ」
 僅かな怒りと戸惑いの含まれた声。彼女は懇願するように、掴んだ手を自分の頬に触れさせた。欲しくてたまらなかった指が、自分の頬の上を滑り落ちていく。
「聖司さん、今日はピアノを弾かないでください」
「何故だ」
「わたしに触れて欲しいからです」
 彼女の答えに、設楽は目を見開いた。彼にとっては意外な言葉だったのだろう。設楽は数秒考えるように視線を逸らした後、ゆっくりと立ち上がった。彼女が誘導した手が、彼の意志によって動く。両手で顔を挟み込むようにして、その柔らかな頬を撫でる。
「ピアノがそんなに妬ましいのか」
 彼女は答えなかった。けれども図星を指されて、目から涙が溢れそうになる。浅ましい感情であるということは、十二分に理解していた。だが一度暴走してしまったら、もう止められない。彼女の目が抱えきれなかった涙が頬を伝うと、設楽は目を伏せて、その涙の跡に口付けた。
 寝室に誘われて、彼女は設楽の後に付いていった。素肌を隠していたものを全て脱ぎ捨て、設楽と向かい合った。まずは顔から。唇を塞ぎ、耳に触れ、頬を何度も撫でた。先程までピアノに触れていた指は、もう既に彼女のものとなっていた。首筋を下りて肩へ、細い腕に触れられると、心臓が高鳴った。同時に、設楽の温かさが幸福な気持ちを生んだ。
 彼女は幾度となく嬌声を上げた。設楽の指は音を紡ぐ指。彼女という楽器に触れれば、それだけで音楽は生まれるのだ。願わくば、彼が飽きてしまいませんように。何度も声を上げて、設楽の気を引こうとした。時折羞恥に襲われて唇を噛んで耐えると、設楽は少し不機嫌そうな顔をした。
「どうして我慢するんだ。おまえの声を聞かせろ」
 その言葉が、今の彼女には涙が出そうなくらい嬉しかった。設楽は自分という楽器を大切にしてくれている、必要としてくれている何よりの証拠だった。彼女は羞恥の殻を捨て、設楽に全てをさらけ出した。身をよじって声を上げ、身体を仰け反らせ、苦しいくらいに口づけを重ねて、潤んだ瞳で設楽を見上げた。設楽の息が徐々に上がり、熱さからその頬が赤らんでくるのを見て、彼女は無上の喜びを覚えた。
「聖司さん、好きです」
 もっと、と懇願するような瞳で見つめると、設楽はそれに応じてくれた。設楽のことが何よりも好きで、常に身を焦がすような感情を味わっている自分を、設楽は受け入れてくれた。
「俺も、……おまえが好きだ」
 そればかりか、自分もそうだという告白までしてくれたのだ。それだけで絶頂に上り詰めそうになり、彼女はますます彼の指の動きに従って声を上げる。一つになりたいと願った彼を受け入れ、その腕の中で熱い吐息を洩らす。時間が止まればいいのに、と願う。彼の指は自分以外のものに触れて欲しくない――喜びの感情が高まりすぎて、欲望が徐々に膨らんでいく。隠されていた独占欲が剥き出しになる。
 ずっとこうしていてくださいと、何度も懇願した。その度に設楽はそうする、と答えてくれた。設楽に触れられていた間、何度も何度もそのやりとりを繰り返した。もはや羞恥の殻をベッドの下に捨ててしまった自分には、何も怖いものなどない。ただ彼を夢中にさせてしまうもの以外は。
 設楽の腕に抱かれ、設楽と一体になりながら、彼女は絶頂を迎えた。


 いつの間にか眠っていたことに気付いて、彼女は顔を上げた。隣には、未だ眠ったままの設楽がいる。彼女はシーツを引き寄せて身体を隠し、目を伏せた。
 捨てていたはずの羞恥が戻ってきて、先程までの行為が頭の中を駆け巡る。彼女は耐えかねて、ゆっくりと首を横に振った。同時に自分がいかに罪深いことをしたか、唇を噛んで悔いなければならなかった。
 彼にはピアノしかないのだ。それは冗談でも比喩でもない。彼とピアノの間には、何かを挟み込む余地など微塵も残されていないのだ。それは恋人である自分ですらもそうだ。そこに割って入るということは、ピアニストとしての彼が、そしてピアノという存在に支えられた彼自身が、死んでしまうということになってしまう。それだけは絶対に嫌だと、彼女は血が滲むほどに唇を強く噛んだ。
 彼を自分に縛り付けてしまうことは、どちらにとっても不幸なことだ――そんな簡単なことに、ようやく気付くだなんて。彼女は目を伏せて溜息を吐いた。こうして暴走してしまう前は、嫉妬のあまり、ピアノが設楽を縛り付けているのだとばかり思っていた。あわよくばその指を解き放ち、自分のものにできればいいとすら思っていた。だが、本当はそうではなかったのだ。
「ごめんなさい。聖司さん」
 言いながら、自分の腕を握ったまま眠っている設楽の手を、そっとほぐして解放した。この指は自分のものであってはならないのだ――
 そうしてベッドの下に散らばっている服を拾い上げ身に着けると、彼女はそっと寝室から出て行った。一つの心のわだかまりがなくなった清々しい思いと、一つの真実に気付いた切なさを胸の奥に抱えながら。
(2010.10.24)
Page Top