誰がために

 堀田クリニックで御剣からの電話を受けた後、狩魔冥は考えを巡らせていた。
 事は一刻を争う。そんなことは分かりきっていたが、御剣の要請を受けて即座に動く気になるほど、冥の中のわだかまりはまだ解消していなかった。
 事件の真実。そんなものは冥にとって、どうでもいいものの一つだった。狩魔冥という人間に与えられた使命はただ一つ、被告人を有罪にし、裁判に勝利することのみだ。
 だからこそ、日本での二つの裁判の結果は、冥にとって許し難きものだった。成歩堂龍一という、弁護士になって間もないような新米に、二度も負けた。アメリカで負けたことなど一度もなかったのに、だ。
 その成歩堂龍一のため、そして、成歩堂龍一の影響で心変わりした御剣怜侍のために、今から証拠品を法廷に届けねばならない。すなわちそれは、彼らの手助けをするということを意味する。冥のプライドは、なかなかそれを許そうとしてくれなかった。
 ふと、手に持った電波受信機に目をやり、点滅している光を見つめる。日本に来てから、あの危なっかしい刑事、糸鋸圭介に付けていた発信器からのものだ。
 発信器は先程から動きが止まっている。御剣からの電話では、彼が裁判所に急ぐあまり事故を起こしてしまったという話だが、どうやらそれは嘘ではないらしい。
「……バカなオトコ」
 冥は呟いて、病室に置いていたムチを手に取り、病室を出た。やや薄暗い廊下を真っ直ぐ歩き、堀田クリニックから外へ出る。幸い医者や看護師、そして鬱陶しい偽の院長に捕まることもなく、外へ出ることができた。
 手に持った受信機を見て、糸鋸の反応がそこから動いていないことを確認する。場所はだいたい分かった。堀田クリニックと、その場所と、裁判所がさほど離れていないのが救いだった。
 後は、自分がそこへ向かうだけだ。
「本当に、バカなオトコ」
 呆れたように呟く。だが、そのバカな男のせいで冥の心が動いたことを、冥は認めざるを得なかった。事故を起こしたという彼が今、どうしているのか。そのことを思うと、気が急いて仕方がなかった。
 肩の傷は多少痛むが、動くのに支障はない。冥はすぐさま走り出した。――発信器が示す場所へ。


 現場は実に酷い有様だった。糸鋸の車が電柱にぶつかり、見るも無惨な姿になっている。
 冥は急いで糸鋸の姿を探した。糸鋸は運転席でぐったりしていた。
「起きなさい、ヒゲ!」
 冥はムチを振るった。だが糸鋸は目を覚まさない。冥の心が一瞬ひやりとした。
「なんぴとたりとも……ジブンを……」
 ちょうどその時、糸鋸の口から洩れる声が聞こえた。どうやら生きてはいるらしい。冥は思わずほっと息を吐いた後で、先程自分の中に生まれた感情に苛立ちを感じる。
 ――生きていて良かった、だなんて、どうしてこのオトコに思う必要がある?
 冥は車の中を探った。そこからは三つの証拠品が、奇跡的に無事な姿のまま出てきた。ピストルと、ビデオテープと、ホテル・バンドーのボーイの制服だ。糸鋸はこれをこっそり持ち出し、一人で裁判所へ向かおうとしていたらしい。
 いつもなら、そこまで必死になる糸鋸を内心嘲り笑うことができた。だが、今はそうできなかった。この証拠品を無事に、法廷まで送り届ける。それが今の冥の使命で、それは糸鋸がしようとしていたことと、完全に一致していたからだ。
 冥は携帯電話を取り出し、ある番号へかけた。二回ほどのコール音の後、部下の警官が電話に出る。
「もしもし!」
「狩魔冥よ。虎狼死家のアジトから発見された遺留品について、詳細を報告しなさい」
 相手の警官は戸惑ったような声を出した。
「は、し、しかし今、それが先程、何者かに奪われてしまったらしく……」
「私が全て持っているわ。さあ、早く報告しなさい! 事は一刻を争うのよ!」
「は、はッ!」
 何故今冥がその証拠品を持っているのか、それについて疑問はあるようだったが、冥の勢いに押され、警官は急いで詳細を報告し始めた。ピストルについて、ビデオテープについて、ボーイの制服について。
 全ての報告を聞き終えた後、冥は静かに言った。
「分かったわ。それで結構。ところで……今そこに、イトノコギリ刑事はいないわね?」
「は、それが先程から姿が見えず……」
「ここにいるわ。救急車を呼んでやりなさい。……事故を起こすなんて、本当にバカなオトコ」
 冥は手早く自分の居場所を説明した後、何か聞きたそうにしている警官を無視して電話を切った。無駄話をしている暇はない。今すぐにでもこの証拠品を持って法廷まで行き、詳細を報告せねばならない。
 だが、と冥は新たな問題に気付いた。三つの証拠品を一人で抱えて行くのは難しい。どうするべきか――
 冥はとっさに、糸鋸のコートに目をやっていた。糸鋸がいつも来ている、薄汚いコートだ。彼の体格はかなり大きい。その大きな彼をいつも包んでいるコートなら、この証拠品を包むにももってこいだろう。
 冥はぐったりしている糸鋸の体から、コートを引きはがそうとした。だが、なかなかうまくいかない。
 苛々しているとその時、糸鋸がうっすらと目を開け始めたのに気付いた。
「か、狩魔……検事?」
 糸鋸のか細い声が口から洩れる。冥はふっ、と小さく笑った。
「気が付いたようね、ヒゲ。安心なさい。今、救急車をここに向かわせたから」
「そ、そんなことより! し、証拠品は……ジブンは、証拠品を届けないと!」
「それも安心なさい。私が持って行くわ」
 糸鋸はぽかんとした顔になった。
「か、狩魔検事が……ッスか? しかし、検事、肩のケガは……」
「他人の心配をしているヒマがあったら、自分の心配をしなさい」
 冥はなるべく冷たく聞こえるようにそう言った。バカなオトコ。何度も何度も口に出して呟いたその言葉を、冥は心の中で呟いた。こんな状況になっても、他人の心配をするなんて。
「それより。この証拠品を包むものが欲しいの。コートを貸しなさい、ヒゲ」
「わ、分かったッス!」
 冥がそう言うと、糸鋸はいそいそとコートを脱ぎ始めた。急いでいる冥はそれすらものろのろとした動作に見えて苛々したが、糸鋸がコートを脱ぎ終わった瞬間、冥はそれをひったくった。
「汚いコートね。洗濯していないの?」
「は、あいにくジブンには、そんなヒマが――」
「他人の心配をするヒマはあるのに?」
 コートで証拠品を包みながら冷ややかに皮肉を言い放つと、糸鋸はしょげたような顔で、冥を上目遣いに見た。
「ジ、ジブン、本当に心配してたッスよ……狩魔検事のこと」
「そう。じゃあ、私も心配してあげるわ。キサマのケガを」
 証拠品を包み終えた後、冥は微笑を浮かべながら、片方の手に持ったままのムチを鳴らす。
「このムチで叩く相手がいないと、ムチが寂しがるから」
「ううう……」
 ムチで叩かれた時の痛みを想像したのだろう、糸鋸は苦しそうな表情を浮かべた。冥はふっ、と小さく笑った後、糸鋸に言った。
「随分無駄話をしてしまったわね。それでは、私はもう行くわ」
「わ、分かったッス……よろしくお願いするッス、狩魔検事!」
「ええ」
 小さく頷いて、冥は証拠品を包んだコートを片手に走り出した。
 この場所からなら、十分もすれば、裁判所に辿り着けるはずだ。車でなら五分もかからないだろう。そんな近くまで来ておきながら、事故を起こすなんて。本当にバカなオトコ、と、冥はもう一度呟く。
「でも」
 冥の唇に、小さな笑みが浮かぶ。
 何故だろう。カンペキになれないバカなど、嫌悪の対象でしかなかったというのに、それなのに、あのオトコをカンペキに嫌ってしまうことなど、今の冥にはできなかった。
「私のムチは、随分キサマが気に入ったようよ」
 冥は小さく呟くと、糸鋸のコートとムチの取っ手を握る力を強め、走り続けた。
(2010.3.14)
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