憂いの瞳

「オイフェを見なかったかい?」
 アルスター城の廊下で突然セリスに話しかけられ、フィーは驚いて目を見開いた。
 オイフェ。解放軍のリーダーセリスの庇護者であり、軍ではレヴィンに次ぐ位置にいる騎士である。
 自分たちとは明らかに年齢の異なる生真面目そうな騎士のことを、フィーはこれまで特に気に掛けた事はなかった。むしろ、近寄りがたい存在だと思っていた。歳が違いすぎるために何を話せば良いのか分からないし、少しでも気の緩んだことを言えば、たちまちお小言をくらいそうな雰囲気が漂っていたからだ。勝手に苦手視していた、と言っても良い。
 だからセリスに尋ねられても、彼の行方など知るはずもなかった。
「いいえ、見ませんでしたけど」
「そうか、ありがとう。どこへ行ったんだろう……部屋にはいなかったんだけど」
 セリスは独り言を言いながら、その場を去っていってしまった。
 その後ろ姿を見届けた後、フィーは少しばかりオイフェのことを考える。彼は先の戦いにて、セリスの父シグルドの軍師として同行し、後にセリスたちをイザークで育てたと聞いている。セリスたちに剣技や戦術、騎士としての心得を教えたのも、彼であると。
 フィーはシグルド軍に在籍していた頃の両親の話を聞いてみたいと、何度かオイフェに話しかけようとしたことがある。だがオイフェが忙しそうにしていたり、苦手な感情が勝ってしまったりで、結局話しかける事は出来なかった。もやもやと残る気持ちはあったが、それも今までそのままにしてしまっていた。
 しかし、オイフェがいなくなるとは珍しい。彼は常にセリスの傍に寄り添い、何かあればすぐに飛んでくるイメージがあった。規律を乱すような行動はしないだろうし、勝手な行動を取る事もあるまい。フィーはやや疑問に感じながらも、自分ではどうすることもできないと、部屋へ帰る事にした。


 フィーに割り当てられた部屋は二階にある。幸いにもアルスター城には部屋数が多く、一人一人に個別の部屋が割り当てられていた。長い廊下をいくつも通り、階段を上って、部屋の前へ辿り着く。
 扉を開けようとしたその時、フィーは廊下の奥にいる何かの影を発見した。
 まさか敵襲か、と警戒しながら、ゆっくりと奥へ歩を進める。一歩一歩先へ進むうちに、遠くから見るとおぼろげな影でしかなかったものが、徐々に形を成してきた。
 その正体を確認した瞬間、フィーは仰天した。焦げ茶の軍服に身を包み、赤いマントを羽織った髭面の騎士が、そこにはいた。
「オ……オイフェ、さん!?」
 それは間違えようもなく、先程セリスが探していた騎士オイフェだった。ただ、いつもと様子が違う。端正な出で立ちの、折り目正しい人物。それがオイフェから受ける印象であったが、今の彼は体勢を崩しうずくまって、廊下に伏していた。荒い息が絶え間なく口から漏れている。
 フィーはおそるおそる近寄って、オイフェの肩に手を置こうとした。
「オイフェさん、大丈夫、ですか?」
 近寄った途端、彼の口から酒臭い息が洩れた。うっ、と眉を顰め、フィーは思わず顔を背ける。理解の範疇を超えた事態に、フィーの頭はしばし混乱した。オイフェのような規律に厳しい人間が、強かに酔っている姿など見た事もないし、そもそも有り得ないことだ。酩酊し乱れた行動をする事がどれほど罪深い事か、彼が最もよく知っているはずなのに。
 フィーは誰かを呼ぶべきか一瞬戸惑ったが留まり、躊躇いながらも、オイフェの腕を自分の首にかけた。オイフェはそこで初めてフィーに気付いたのか、とろんとした目をやや瞠って、フィーの横顔を見つめた。
「フィー……なの、か……?」
 酒臭い息に耐えながら、こくりと頷く。
「オイフェさん、とりあえず私の部屋に行きましょう。誰かに見られたら大変だから」
 自分でも思いも掛けない言葉が口から飛び出し、フィーは内心驚く。近寄りがたい、苦手意識を抱いていた相手を介抱し、自分の部屋に引き入れるなどと、自分は一体何を思ったのだろうか。
 だがとにかく、今は誰にも見られないようにしないといけないという思いでいっぱいだった。誰かにこの醜態を見られたら、軍部内のオイフェの評価が下がる事は避けられない。肩身の狭い思いをするオイフェの姿を見るのは、フィーとて辛いと感じた。
 今、オイフェの姿を目撃したのはフィーだけだ。フィーさえ黙っていれば、オイフェが偏見に満ちた目で見られる事はなくなる。オイフェの名誉を守る事は、同時に彼に全幅の信頼を置いているセリスの名誉を守る事でもあった。
「う……すま、ない……」
 息と共に微かに洩れる彼の低い声を聞きながら、フィーは必死にオイフェを引っ張って歩いた。さすがに相手は成人の男性だ、フィーのような華奢な女性が担いで歩くことなどほぼ不可能に近い。フィーは歯を食いしばってその重さに耐えながらも、なんとか足を動かし続けた。どこかの扉が突然開いて、仲間が出てこないようにと祈りながら。
 なんとか自室の扉を開き、オイフェを中に引き入れる。オイフェの身体をベッドへ横たわらせると、オイフェは顔を歪めながら荒い息を吐いた。
「オイフェさん、大丈夫ですか? 水、持ってきましょうか」
「あ、ああ……頼む」
 そっと自室を出て、一階の台所へ向かう。ガラスのコップに水を一杯汲んだ後、フィーは再び足音を忍ばせながら自室へ戻った。オイフェは身体を起こしてベッドに座っていたが、相変わらずその顔は苦悶の表情に満ちていた。
「水です、どうぞ」
「ああ……ありがとう」
 オイフェはコップを受け取り、一気に水を飲み干した。それで少しは落ち着いたのだろうか、コップをベッド近くの棚に置き、息を整えようと努めていた。
「一体、何があったんですか? オイフェさんが、こんなに酔うなんて……」
 彼がただの酒好きであるわけがない。何か理由があったに違いないと、フィーは探りを入れてみたのだが、オイフェは首を振るばかりで、何も答えようとしなかった。
 オイフェはフィーから視線を逸らし、床を見つめている。その瞳の色が、普段とは明らかに違うものであることに、フィーは気が付いた。威厳さを含むでもなく、敵と対峙する時のような鋭利さを含むでもなく、かといって無論、愉快なものでもない。喜怒哀楽で表すのならば、それは哀に似た色であった。それに気付いた時、フィーは驚いてはっとした。
 自身の感情など二の次で、忠誠を誓った主君のためにひたすら奔走する。そんな騎士の手本であるかのようなオイフェが、憂いに満ちた瞳を見せることなど、今までなかったからである。
 彼の心の中で一体どのような感情が動いたのか、彼が口を開かない限りフィーには分からない。だが、彼がここまで酩酊しているくらいなのだ、何か大きな感情の動きがあったに違いない事は、容易に想像が付いた。今後の戦況を憂えていたのか、軍にいる仲間たちのことを考えていたのか、それとも全く別の事で苦悩することがあったのか。考えているうちに、フィーは自分まで心苦しくなるのを感じた。
「オイフェさん」
 名を呼ぶと、オイフェの顔がつられるようにして上がった。フィーは躊躇いながら、思いのままに口を動かす。
「私には、何があったのか分からないけど……オイフェさんがそんな顔をしているのは、悲しいです」
「フィー……」
「分からないから、余計に考えてしまって、だから、私まで……」
 そこまで言って、フィーは自分の頬に温かいものが伝うのを感じた。自分自身が悲しいわけでもないのに、涙が溢れるとは一体どういうことだろう。フィー自身にも訳が分からず、泣いている自分の姿を見られたくないと、フィーは顔を背けた。オイフェの驚いたような視線が、痛いほどに突き刺さるのを感じた。
「フィー、君は……」
「な、何でも、ありません。違うんです、私はただ」
 言い訳しようとして、その先の言葉が見つからなかった。フィーは涙を拭った後、再びオイフェと向き直る。オイフェは相変わらず目を見開いてフィーを見つめていたが、その視線から逃れるように、フィーは顔を俯けた。
「君が思い悩むことではないんだ。すまない」
「ううん、いいんです。それより、私は……知りたいんです。オイフェさんが、どうしてそんなにお酒を飲んだのか」
 首を振って、フィーは明確に疑問を口にする。オイフェはしばらく口を噤んでいたが、やがて大きな溜息をついた後、口を開いた。
「シグルド様のことを、思い出していたのだ」
 フィーは聞き覚えのある名に反応して顔を上げた。
「シグルド様って、セリス様の……」
「そうだ。セリス様の父上にして、私の主君であられた方だ」
 オイフェはかつて軍師としてシグルド軍に同行していたのだという話を、フィーは思い出していた。
「フィン殿と再会してから、当時の事が強く思い出されてな……つい、耐えきれずに酒に走るような真似をしてしまった」
 オイフェの目が険しくなった。
「とんだ醜態を晒してしまったな。セリス様に何と言えばいいか、言葉も見つからない。関係のない君にまで、このような姿を見られてしまった」
「そんなこと、気にしないでください。私はオイフェさんのこと、嫌だなんて思っていませんから」
 躊躇いもなく飛び出した言葉に、内心で驚く。こうして話すまで、オイフェにはあれほど苦手意識を抱いていたというのに。オイフェはその言葉に少し救われたのか、唇の端に微かに笑みを滲ませた。
「すまない。君には感謝している。こうして、私を介抱してくれたことを」
「いえ、気にしないでください」
 フィーが首を振ると、オイフェは僅かに安堵したような息を漏らした。そうして天井へ視線を向け、独り言を呟く。
「シグルド様の最期も見届けられず、私は愚かな騎士だったのだ」
「オイフェさん……」
 オイフェは自嘲気味に笑う。
「主君と共に死ねなかった、生き恥を晒しているようなものだ……本当はセリス様に騎士の教えを説く資格など、あるはずもないのに」
「そんな……」
 フィーは耐えられなくなった。今まで見た事もないオイフェのあまりに痛々しい姿に目を伏せたくなりながら、フィーは強い口調で言い返していた。
「そんなこと、ありません! オイフェさんは素晴らしい騎士だわ!」
「フィー……」
「だって今まで、自分の人生を犠牲にしてまでセリス様たちのために生きてこられたのでしょう。そんなこと、普通の人にはできないわ。だからそんなふうに、卑屈にならないで」
 強い口調のフィーに、オイフェは随分と戸惑っているようだった。言い終えた後、また目尻に涙が浮かぶ。オイフェが抱えているものを、おぼろげではあったが、フィーは徐々に理解し始めていた。
 彼はとても一人の人間では抱えきれないような重いものを、全て背負ってきた。近寄りがたい雰囲気を発していたのも、きっとそのせいだったに違いないとフィーは思った。彼の故郷シアルフィの騎士であるということ、それだけがオイフェの存在理由であり、拠り所であったのだろうから。
 ふと気付くと、オイフェが自分の頬に乾いた指を乗せていた。目から伝い落ちた温かい粒を拭われ、フィーの心臓が高鳴る。オイフェは優しい笑みを浮かべ、フィーに言った。
「君のような女の子まで泣かせてしまって、私は本当に愚かな騎士だな」
「だから……そんなこと、言わないでください……」
「すまない。だが、君の気持ちは嬉しかった。ありがとう」
 フィーは唇に笑みを浮かべて、頷いた。心の中に嬉しさが込み上げる。オイフェの穏やかな表情を見ていると、自分の心までも穏やかさを取り戻していくような気がした。
 彼の心の深い部分に触れられた事を、フィーは嬉しく思っていた。かつての戦の中で人々が抱えていたものを、少しでも知れたような気がした。
 同時に、今まで無知だった自分の甘い考えを恥じる。彼らの行動の一つ一つには理由があって、それは全て現在に繋がっているのだ。そんな当たり前のことを、今まですっかり忘れていた。
 母を置いてどこかへ行った父を恨む気持ちも、少しずつ薄れていくような気がした。


「ねえ、オイフェさん」
「ん、何かな」
「今度、もし……オイフェさんがいいなら、私の両親の話、聞かせてください。ずっと聞きたかったんです」
 オイフェはああ、と言って、遠くを見るような目つきになる。
「そうだな。……また落ち着いた時にじっくりと、な」
「はい」
 楽しみが一つ増えたと、フィーの口元が緩む。
 いつの間にか、この歳の離れた騎士に好意を抱いている自分に気付く。主君のために全てを犠牲にしてきた彼の生き方が、フィーの目には素晴らしいものに映った。辛さも苦しみも全て背負ってなお、フィーのような若き者たちに優しい視線を注ぐオイフェ。その器の大きさ、偉大さに、憧れに似た気持ちを持つ。
 その憧れが恋情に変わるまで、さほど時間はかからなかった。
(2010.2.26)
Page Top