Con tenerezzaに抱き締めて

 嫌な夢を見た。
 音也は保育園にいた。帰りの時間、皆体育座りをして親が迎えに来てくれるのを待っている。同じ組の子達は一人、また一人と親が迎えに来て、手を繋いで帰って行くのに、親のいない音也は最後まで残ってしまうのだ。
 寂しさに耐えかねて顔を伏せると、「音也」、と呼ぶ声が聞こえて、音也ははっと顔を上げる。優しげに微笑む女性が、音也に手を差し伸べていた。音也は嬉しくなって、「おかあさん」、と言いながら、手を伸ばそうとした。
 だが、その手は空を切るばかりだった。確かにそこに女性の手は見えているのに、どうしても掴めない。そうしているうちに、優しげに微笑んだ女性の姿が遠ざかっていく。音也は立ち上がり、必死にその姿を追い求めた。
「おかあさん、おかあさん!!」
 そこで目が覚めた。
 がばりと身体を起こす。息は荒く、汗だくになっていた。部屋の向こうのベッドでトキヤが背を向けて眠っているのを見て、ようやく現実感が湧いてきて、音也は深く溜息を吐いた。
「……夢、か」
 手のひらを見つめ、ぐっと握り締める。これまでも、似たような夢を見ることはあった。顔も分からないはずの親が音也の前に現れる夢。それでも彼らの手を掴めたことは一度もなくて、いつも遠ざかっていく彼らを追いかけるところで目が覚めるのだった。
 音也は親を知らずに育った。幼い頃、親に手を引かれて嬉しそうに家に帰っていく同級生達を見て、どうしようもなく羨ましかった時期がある。拳を握り締めて、唇を噛み締めても、音也を迎えに来てくれる親はいない。同じ施設にいる子がやって来て、一緒に帰ろうぜ、と促され、音也は一抹の寂しさを覚えながら、笑顔でうん、と頷くのが常だった。
 最近はこの夢も見ないようになっていたはずなのに――音也は髪を掻いて、再び溜息をつく。二ヶ月ほど前に学園長室で見た、琴美、という名前の書かれた手紙を思い出す。同時に普段とは違う、真剣な口調で話すシャイニング早乙女の姿も思い出されて、音也の胸は微かに痛んだ。
 せっかく早乙女の試練が終わり、久しぶりに寮の布団でゆっくり寝られると思ったのに――音也はすっかり目が冴えてしまった。仕方なく、ベッドから下りてのろのろと扉まで歩いて行く。明日はまた試練のため北海道に飛ばなければならない。貴重な睡眠を邪魔されてしまった気分だった。
 男子寮の廊下はすっかり照明が落とされ、静まりかえっていた。こんな時間に外を出歩いている人間など誰もいない。音也は階段を下りて、一階の玄関へと向かった。外靴を履いて、寮を出る。一月の冷たい風が、音也の頬を打った。ぶるり、と全身が震える。
「何か羽織るもの、持ってくれば良かったな……」
 だが、今更戻るのも面倒だ。音也は二の腕をさすりながら、あてもなく早乙女学園の敷地を歩いた。


 校舎の裏庭までやって来たところで、音也は思わず目を疑った。そこには先客がいたからだ。彼女は寝間着に上着を羽織り、落ち着かない様子で同じところを行ったり来たりしている。
「春歌!」
 音也が声を上げると、彼女――春歌は驚いたように顔を上げた。
「音也くん! どうしてここに……」
「それはこっちの台詞だよ! 春歌こそ、何でこんなところに? 風邪引くよ」
「音也くんこそ、何も羽織ってなくて寒そう……上着、貸しましょうか?」
「いいよ、春歌はそれ着てて。俺はちょっとくらい平気だからさ」
 少し強がってみせる。春歌はしばらく不安そうな目で見つめていたが、やがてうん、と頷いた。
「えーと。……とりあえずさ、あそこのベンチ、座らない?」
「うん、そうですね」
 二人は裏庭にあるベンチに腰掛けた。音也は春歌の肩に手を回し、自分の傍へと引き寄せる。触れた部分からじわじわと春歌の温もりが伝わってきて、それだけでも冷えた身体が温まっていくような思いがした。
「春歌、どうしてここにいたの? こんな遅くに」
「なんだか、眠れなくって。明日にはまた音也くんが行っちゃうんだなって思うと……」
 春歌の身体が微かに震えた。それは寒さのせいではないと、音也にははっきりと分かった。恋愛禁止令をなくすため、そして自分たちの関係を認めてもらうためしていることとはいえ、彼女に心配をかけてしまうのはとても心苦しかった。
「ごめん。でも大丈夫。俺は絶対やり遂げて帰ってくるから。信じて待ってて」
 出来る限り力強い声で言うと、うん、と春歌は頷いてくれた。そして顔を上げ、今度は春歌が音也に問う。
「音也くんは、どうしてこんな時間に?」
「ああ……うん、ちょっと、イヤな夢、見ちゃって」
 否応なしに蘇ってくるあの夢の感触に、音也は深く溜息をついた。春歌が心配そうな顔で覗き込んでくる。
「どんな夢か、聞いてもいいですか?」
「うん。というか、聞いてくれる?」
 話せば少し楽になるかもしれない。春歌がこくりと頷くのを見てから、音也は話し出した。以前からよく見ていた嫌な夢。顔も知らない両親が出てきて、音也に向かって笑う夢。手を掴もうとするのに、それはいつも空を切るばかりで、全く掴めない夢。
「施設には同い年くらいの子がたくさんいたし、いつも賑やかで寂しくないって思ってたけど……本当は、寂しかったのかも。あんな夢見るなんてさ」
「音也くん……」
 音也が自嘲気味に言うと、春歌が音也のもう片方の手を取って、ぎゅっと握った。風に晒されて冷たいその手を温めるかのように、何度も何度もさする。そうしているうちに、音也の心から、先程まで感じていた寂しさや僅かな恐怖といった負の感情が、すっと溶けてなくなっていくような気がした。音也は思わず、両腕で春歌を抱き締めていた。
「きゃ……! 音也くん?」
「ごめんっ。なんか嬉しくて。春歌のこと、愛しくて愛しくてたまらないよ」
 愛が喉元から溢れて止まらない。いつもはその華奢な身体を壊さぬよう、気を付けて抱き締めているのに、今日はセーブがきかなかった。そんな自分をどうしようもなく不器用だと思う。大切にしたいのに。けれども愛おしさが溢れて止まらない。
 しばらくそうして抱き締めた後、音也は急に不安になって、春歌の耳元で囁くように言った。
「……こんな俺、格好悪いよね。こんなことで凹んでちゃ……もっと強くならなきゃいけないのに」
 それはある種、自分への叱咤でもあった。音也がはぁ、と溜息をつくと、春歌は腕の中で首を横に振って、そして音也の背に手を添わせた。
「そんなこと、ないです。わたしは嬉しかったです、音也くんが自分のこと、話してくれて」
 そう言って、柔らかに笑う春歌に、音也は思わずどきりとする。
「誰だって不安になったり、凹んだりすることはあると思うから……そうなったら、わたしを頼ってください。わたしじゃ頼りないかもしれないけど……音也くんの悲しみとか苦しみを、少しでも癒してあげられたらって思うから……」
 そんなことを言う彼女があまりにいじらしく、音也の中の何かが爆発した。その勢いでもう一度、今度はもっともっと強く春歌を抱き締める。きゃ、という小さな声が聞こえたが、音也はもう構わなかった。
「俺のこと、全部受け入れてくれてありがとう。大好き」
 そう言うと、腕の中の春歌は微かに頬を赤らめて、でも嬉しそうに言った。
「わたしも音也くんのこと……大好きです。だから、辛いときはいつでも言ってください。わたしに音也くんの悩みや辛さ、共有させてください」
 音也は一度春歌の身体を離し、両肩を持って言った。
「春歌。じゃあ……ごめん。今からちょっと、弱いとこ、見せていい?」
「……はい」
「ちょっとだけ、胸、貸して。あっいやその、変な意味じゃなくて!」
「え? はい、どうぞ」
 こんな時でもうっかり想像してしまった自分を心の中で叱りつつ、音也はそのまま、春歌の胸に顔を埋めた。春歌の身体は柔らかい。それを意識してしまって、全身が熱くなるような感覚がしたが、なんとか理性で鎮めながら、はあ、と大きく息を吐いた。こうしていると、徐々に安堵の気持ちが心に広がっていくのを感じた。
「……しばらく、こうしてていい?」
「はい。音也くんの気が済むまで、どうぞ」
 優しい声に癒されながら、音也は緩やかな曲線に顔を埋める。
 春歌の鼓動の音が聞こえてくる。どくん、どくん。いつもより少し速くなっていることに気付いた。自分と触れ合った時は、いつもこうだ。ドキドキしてくれているとわかると嬉しくなる。
「七海、温かくて気持ちいい」
「お、音也くん……でも、音也くんが元気になってくれるなら、嬉しいです」
 戸惑いがちに、けれど幸せな響きを伴って発せられた言葉。自分は最高の幸せ者だと思った。こんなに素敵な彼女がいて、辛いときや苦しいときも変わらず自分を支えてくれる。そしてどんな自分も受け入れてくれる。そんな彼女をこの手で守り、大切にしていきたいと強く思った。
 春歌は音也の背を優しくさすってくれた。
「音也くんは、もう一人じゃないですから。わたしがずっとそばにいます。寂しくないです」
「春歌……ああもう、大好きっ」
 音也は再び、ぎゅう、と春歌の身体を抱き締めた。春歌の全てが愛おしくて、感情が溢れて止まらなくなった。
 外の寒さも忘れて、二人はしばらくの間、温もりを確かめるようにずっと抱き締め合っていた。
(2011.11.4)
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