結ばれる運命

 砂塵が舞い、熱がじりじりと肌を焼く。行けども行けども周りは砂ばかりで、視界には少しの緑も存在しなかった。
 それでも、ラフィエルは進まずにはいられなかった。ここが故郷であるセリノスの森ではないことは分かってはいたが、立ち止まっていては故郷にたどり着けないこともまた承知していた。ほんの少しでも何かの癒しになるものが見えることを願いながら、ただ重い足を動かしていた。
 ざく、ざくと進むたび、足が砂にまみれる。
 鷺の王族の象徴ともいえるその純白の翼は、この疲労で全く使い物にならなくなっていた。
 それから少し歩いたところで、運の悪いことに突風が吹き荒れた。ラフィエルは為す術もなく、その場に倒れ込む。自分の半身が砂に埋まっていきそうになるのが分かったが、既に立ち上がる力は残されていなかった。
 ――私は、ここで死ぬのですね……
 ぼんやりと、そんなことを思った。
 セリノスの森が焼き払われ、鷺の民がベグニオン帝国の民たちによって滅ぼされた事件――「セリノス大虐殺」。それを聞いたラフィエルはいてもたってもいられず、故郷へと戻ろうとした。しかし故郷には帰れず、自分はこうして生涯を閉じようとしている。
 未練はあったが、何故か心の中は安らかだった。もし弟のリュシオンや妹のリアーネ、そしてセリノスの王でありラフィエルの父でもあるロライゼもその事件で亡くなったのだとしたら、自分はその傍に行くことができるのだ。生命の輝きを失い、同じ種族の者たちが死に絶えた森を見て絶望するくらいなら、今こうして安らかに逝ける方がよっぽど良いではないか。
 ――同胞たちよ、私は今、あなたがたの傍に……
 ラフィエルは目を瞑り、微かに笑みを浮かべた。
 遠くから何かの遠吠えが聞こえてくる。自分が天に召される瞬間だから、そんな幻聴がしたのだろう――そう心の中で納得した後、ラフィエルは意識を失った。


 悪い夢を見ていた。
 セリノスに帰還したところで、自分は色を失った森を見る。あんなに美しく、自分たちの歌に応えてくれていた森は一体どこへ行ってしまったというのだろう――。必死に森に呼びかける。しかし、返事は全くない。今度は同胞に呼びかける。結果は同じだった。途端に力が抜け、がくりと膝を折る。次々に溢れる涙をぬぐうこともなく、冷たくなった地面に手をついた。今の力なき自分では、再生の呪歌を謡うことすらできない。自分の胸に、絶望が溢れていく。
「ああ……」
 そこで、ゆっくりと目を開けた。
 ぼんやりと天井が見えた。どこかの建物らしい。ラフィエルは、こうして意識を失う前自分がどうしていたかをはっと思い出した。何故こんなところにいるのだろう、そして自分は何故生きているのだろう。砂漠の中に埋もれて、死んでしまったはずなのに。
「目が覚めたか」
 静かな、しかしはっきりとした声が聞こえ、ラフィエルは驚いた。聞いたことのない声だった。低めだが、女性の声のようだ。
 するとまもなく、視界にその者の顔が現れた。その者は確かに女性であり、しかも獣牙族の象徴である耳が、美しく垂れ下がる髪の中から顔を覗かせている。やや厳しめの光を放つ目は、ラフィエルをじっと覗き込んでいた。その後きりと引き締まった唇を開け、女性は言葉を発した。
「お前は見たところ鳥翼族の鷺の民のようだが、そうなのか?」
「え、ええ……」
「そうか」
 女性は納得した後、続けて言った。
「私はニケ。このハタリの国の、女王だ」
 聞いたことのない名前だった。女性の名前の方はもちろんだが、何よりハタリという名の国は、ラフィエルの記憶に全くない。ラフィエルはまだ疲労を引きずっている体を横たえたまま、ニケと名乗ったその女性に質問した。
「あの、ハタリとは、一体……」
 その問いを聞いて、ニケは怪訝そうな目つきになった。
「ハタリは、ハタリだ。お前はハタリを知らないのか?」
「ええ、そんな国の名は聞いたこともありません」
「どういうことだ。お前は一体、どこから来たのだ?」
 今度はラフィエルが質問される番だった。ラフィエルは息を吐いて気を落ち着かせてから、ゆっくりと答えた。
「私は、セリノスの森から来ました」
「セリノス? それは、一体どこにある?」
「え……」
 ラフィエルは驚いた。思いがけぬ質問だった。だが、ニケは真剣に自分に尋ねている様子だ。本当にセリノスのことを知らないらしい。
 では今、自分は一体何処にいるというのだろう。そんな不安が、ラフィエルの心をよぎった。
 その時、ラフィエルは自分が倒れていたはずの砂漠を思い出した。ラフィエルが知る限り、このテリウス大陸にある砂漠は二つ。一つはベグニオン帝国領内にあるグラーヌ砂漠だ。そして、もう一つは――。
 しかし、そんなはずはない。その砂漠に面した国は反ラグズ国家だ。そこでラグズが無事に生きていられる場所があるとは思えない。
 ラフィエルは一つの可能性に思い至った。それはある意味恐ろしい可能性だった。
「まさか、私は砂漠を越えた?」
 呟くようにもらしたその言葉は、ニケの耳にも入ったらしい。ニケは驚いたような目をして、ラフィエルを見つめた。
「お前は、あの“死の砂漠”の向こう側から来たと言うのか?」
 ラフィエルは黙ったまま、なんと答えるべきか迷った。自分でも分からないが、しかしよくよく考えてみれば、その可能性しか思い当たらない。
 それならば、セリノスと言っても通じなかったことや、ハタリという自分にとって未知の国が存在しているということも納得できる。今までデイン王国に面したあの砂漠を越え、帰ってきた者など誰一人としていないのだ。その向こうに国があっても、不思議ではない。
「そのようです……」
 先程のニケの問いに答えると、ニケは考え込むような仕草をした。
「しかし、考えられん。今まで何度も調査隊を送ったが、一人として帰ってこなかったというのに、まさか鷺の民が砂漠を越えてくるとは」
 ニケが首を傾げるのも無理はない。鷺の民は本来、戦いに向かない種族。そのため、体力や異なった環境への適応能力といったものも乏しいはずなのだ。“繊細”とは鷺の民に使われる一般的な表現だが、悪い言い方をすればか弱いとも言える。
 しかし、現にこうしてラフィエルは砂漠を越えた。事実とはいえ当の本人のラフィエルですら、首を傾げたくなる。
 しばらく下を向いて考え込んでいたニケが、顔を上げてラフィエルに尋ねた。
「お前はどうして、ここに来たのだ?」
「それは……」
 ラフィエルは少しためらったが、ゆっくりと自分がここに来た経緯を話した。
 故郷であるセリノスの森が焼き払われ。同胞の命が失われたと聞き、いてもたってもいられず森へ帰ろうとしたこと。しかし森へ帰るはずが、絶望の淵に立たされていたせいかいつの間にか砂漠に迷い込んでしまったこと。そして砂漠で倒れ、一度は死を覚悟したこと――。
 ニケは口を挟むことなく、じっとその話に耳を傾けていた。聞き終わった後で、ニケはラフィエルに言った。
「そうか、それは辛かったな」
 その言葉に、何故かラフィエルは涙を誘われた。涙腺が緩み、目の奥からじわじわと涙が溢れそうになる。しかし彼女の前で涙を見せるのは気が引けて、なんとか我慢しようとした。
「泣きたいのか」
 ニケの言葉は、何もかも見透かしたようだった。ラフィエルははっと、ニケの顔を見つめた。ニケは表情を緩め、ラフィエルに微笑を見せた。
「お前が悲しい分、思う存分泣けばいい。ここには私以外、誰もいない」
 その言葉が合図となったかのように、ラフィエルの頬に一条の涙が伝った。涙は止まらなかった。次から次へと溢れだしてくる。
 その傍らにいたニケは、ラフィエルの頭をすくいあげるようにして自分の胸に抱いた。ラフィエルは驚いてニケと目を合わせたが、ニケは小さな声で気にするな、と言った。
 ラフィエルは声を上げて泣いた。こんなに激しい泣き方をしてしまったのは生まれて初めてだった。
 やっと気持ちが収まった頃、ニケはラフィエルをゆっくりと離し、ベッドに横たえた。ラフィエルは笑みを見せ、ニケに礼を言った。
「すみません……ありがとうございます、女王」
「気にすることはない」
 ニケも微かな笑みを返してきた。
「お前の体がよくなるまで、ずっとここに居ればいい。その間、私がお前を守ることを約束しよう」
「そんな、女王。そこまでしていただくのは――」
「気が引ける、か?」
 ラフィエルはゆっくりと頷いた。するとニケはますます笑みを深め、思いがけないことを言った。
「なら、私の伴侶になればいい。それなら問題はなかろう?」
「は、伴侶、ですか?」
「そうだ。無論、お前さえよければの話だが」
 ラフィエルは戸惑った。突然求婚されてしまったようなものである。それも、今初めて出会った相手に、だ。
 迷っていると、ニケの美しい瞳が自分を映しているのに気が付いた。その瞳は、自分を捉えて離さない。そして自分も、その瞳に強く惹かれてしまっているのを感じた。
 ラフィエルは微笑んで、ゆっくりと頷いた。
「あなたとこうして出会ったのも、女神アスタルテのお導きでしょう。女王が望むなら、私はあなたの傍にいます」
「そうか。なら良かった」
 ニケは安堵の息を吐いた。
「ラフィエル、お前は私が一生守る。心配しなくていい」
「はい、女王」
 二人は手を取り合った。
 何故こんなに急に、初対面の相手と強い結びつきを作ることを承諾できたのかはわからない。ただ一言で言うなら、これは運命なのだろう。ラフィエルは強くそう感じていた。
 そして女王の思っていることがこちらに伝わってきたことも、承諾した理由の一つだった。
 ――私はお前に惹かれている。こんなに強く男に惹かれたのは、初めてだ。
 ラフィエルは目を閉じた。私も同じのようです――そう、心の中で呟いて。
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