共に行く道

 ベオク、ラグズの生存をかけた戦争の後、ラフィエルは伴侶のニケと共に故郷の森を訪れていた。
 三年前、リュシオンとリアーネが再生の呪歌で修復したというセリノスの森。ラフィエルがそこにいた頃と変わらぬ輝きを放っているように感じられたが、そのことを言うと、リュシオンは首を横に振って言った。
「いいえ、まだまだです。私たちが森からしばらく離れていたこともあり、まだあの頃の完全な姿を戻すには至っていません。これから私たちが毎日呪歌を捧げ、森の輝きを取り戻していかねば……」
 深刻そうな表情だった。その表情に合わせて、ラフィエルも不安そうな表情になったのだろう、ニケが二人の横から口を出してきた。
「ならば、しばらくお前も私もここに留まろう。それでいいか、リュシオン?」
「はい。兄上がいてくださるのであれば、とても心強いです」
 リュシオンは笑みを浮かべ、ニケもそれに納得して頷いた。一人、まだ不安そうな表情をしていたのはラフィエルだった。ラフィエルはニケの方に向かって、遠慮がちに言葉を発した。
「ですが女王、すぐにハタリに帰るのでは……」
「ハタリに帰ることなどいつでもできる。お前の故郷の一大事なのだ、お前がここにいなくてどうする」
「それは、そうですが……」
 まだ決めかねている様子の兄を見て、リュシオンが言った。
「兄上、ここはニケ様のご厚意に甘えてはどうでしょう。せっかく残っても良いとおっしゃってくださっているのですから」
「そうだぞ、ラフィエル。私はそれでいいと言っているのだ、迷うことなど何もあるまい」
 二人からそう言われ、ラフィエルはやっと承諾した。
 リュシオンは喜んで、リアーネに知らせてくると言い、その場を去っていった。ここにはラフィエルとニケだけが残った。
 ラフィエルはためらいがちに、ニケに言った。
「女王、本当に良かったのですか?」
 ニケはふっと笑いをもらした。
「しつこい奴だな。ハタリへはそれほど急いで帰る必要もない、心配するな。それに」
 ニケはそこで一度言葉を切り、セリノスの森を眺め回しながら言葉を続けた。
「お前の故郷には一度訪れたいと、前々から思っていた。ちょうどいい機会だ、お前の弟たちが許すのなら、私も滞在させてもらいたい」
 ラフィエルは微かに笑みを見せた。
「もちろん、弟たちは喜んで女王を迎え入れてくれるでしょう。それは私も同じ気持ちです」
「そうか、なら良かった。ではしばらく、ここに滞在するということでいいな?」
「はい」
 ラフィエルは不安の色の全くない笑みを浮かべ、頷いた。ニケも満足そうに笑い声を立て、また森を眺めた。
 セリノスの森は美しく輝いている。しかし確かにリュシオンが言ったように、その輝きは以前ほど戻っているわけではなさそうだ。ゆっくりと森を眺めているうちに、ラフィエルはそう思った。
 それに以前ほど、森が自分に語りかけてこない。やはり元気を失っていると見える。
 ――私が、森を元気にしてやらねば……
 ラフィエルはいっそう強くそう思うのだった。


 明朝、ラフィエルはニケと共に森の祭壇へ向かった。既にそこにはリュシオンとリアーネがいて、ラフィエルとニケを温かな目で迎えてくれた。
「兄上、ニケ様、おはようございます。早速お願いできますか、兄上?」
「はい」
 ラフィエルは頷き、祭壇へと登った。ニケは下から三人をじっと眺めている。
 ラフィエル、リュシオン、リアーネの三人は目配せし、同時にこくりと頷くと、ニケが立っている方向を真っ直ぐに見た。
 これから呪歌を謡い、森に捧げるのだ。毎朝こうしておれば、いつまでも森は美しい輝きを保つ。この儀式は、ラフィエルがこの森に生まれて物心ついた頃から行ってきた儀式であった。
 それから少しした後、三人の喉から美しい歌声が発せられた。その歌声は森中に響き渡り、共鳴する。森が呪歌に応えようとするのだ。
 その森の響きも感じながら、ラフィエルは呪歌を紡ぐ。長いこと謡っていなかったために忘れているかもしれないと心配したが、そんな心配は無用だった。呪歌の旋律は身に染みついているのだと、はっきり感じさせられる。ちょうど、戦闘に特化したラグズたちが戦いを本能とするように、呪歌を謡うことは鷺の民の本能でもあるのだ。
 呪歌を謡い終わり、ラフィエルは深呼吸をした。謡う前と後とでは、その空気の澄み具合が全く違う。そんな森の空気を吸うことで、清々しい朝の始まりを感じさせられるのだった。
 祭壇から下りてくると、ニケが微笑みを浮かべながら立っていた。ラフィエルはすぐにニケのもとに駆け寄った。
「すごいな。鷺の民の呪歌には、こんな力もあったのか」
 開口一番、ニケはそう言った。感動のあまり声が少し掠れているようにも感じる。ニケがそれほど感動している姿を見たことがなかったので、ラフィエルは嬉しくなった。
「毎朝の儀式です。こうすることで、森がいつまでも輝きを保てるようにするのです」
「なるほどな。いや、いいものを見せてもらった。礼を言う」
「女王に喜んでいただけて、私も嬉しいです」
 ラフィエルは微笑みを返した。
 森にいると、やはりここは自分の故郷であり、自分のいるべき場所なのだということをひしひしと感じる。病気がちなために気弱になっていた心も、次第に強くなっていくような感覚があった。
 この森で一生、傍らの女王と共に暮らせたら――ふとそんなことを思ってしまい、ラフィエルは慌てて心の中で首を振った。


 それから数日が経った。
 ラフィエルは日に日に元気になっていくように思われた。それは傍目から見ても明らかであったし、ラフィエル自身もそう感じていた。
 故郷の森が、ラフィエルに良い影響を及ぼしたのは間違いなかった。
 ある日の朝、儀式を済ませたラフィエルは祭壇から下り、いつものようにニケの方へ駆け寄った。
 しかし、今日のニケは少し様子が違った。いつもは微笑と共にラフィエルを迎えてくれるはずなのだが、今日は何故か深刻そうな表情をしていたのだ。
 ラフィエルは不安になって、遠慮がちにニケに尋ねた。
「あの、女王、どうされたのですか?」
 ニケはああ、と頷いて、祭壇を見上げた。
「お前のことを考えていた。お前は、一体どこにいるべきなのだろうと」
 ラフィエルは一瞬耳を疑った。ニケがこんなことを言うなんて思いもしなかったからだ。
「それは、どういう意味ですか?」
「お前は、ここ数日で見違えるほど元気になった。それはやはり、この森がお前に力を与えたからなのだろう」
「ええ、それは私も思います」
 ラフィエルが答えた後、ニケはラフィエルの方を向いて言葉を続けた。
「だから、尚更思ったのだ。お前はこれからもずっと、このセリノスの森にいるべきなのではないかとな」
 ラフィエルは心臓を鷲掴みされたような感覚がした。唇がわなわなと震えた。
 それは自身でも薄々思っていたことだったが、まさかニケがそれを指摘してくるとは思いもしなかったのだ。
「ですが女王、それでは、女王は――」
「私はハタリに帰る。次代の王が決まっていない今、私がこのまま国を離れるわけにはいかないのでな。だからもし、お前がここに残るというのであれば、私とお前は離れることになってしまう」
 ラフィエルは首を大きく振った。激しい感情が心から溢れだし、止まらなかった。
「嫌です! 私は、一生貴方のお側にいると決めたのです。離れるわけにはいきません」
「しかし、お前のためを思って言っていることだ。私とてこのような決断はしたくはないが、やむを得まい」
 ラフィエルは首を横に振り続けた。普段の自分からは想像もできないくらい、言葉が口からほとばしった。
「いいえ。女王と離れることになるなら、私は森を出ます」
「だがラフィエル、それでは――」
「女王は誤解していらっしゃいます。私がこうして元気になったのは、もちろん森の影響もあるでしょう。しかしそれは、女王がこうして側にいてくださったからこそなのです」
 ニケは大きく目を見開いた。ラフィエルは言葉を続ける。
「女王に出会う前の私なら、森に残ることに対し何の迷いも生じなかったでしょう。ですが現に私は、女王に出会ってしまった。貴方の側にいることで得られる安らぎを、知ってしまったのです」
「ラフィエル……」
「私はもう、女王がいなければ生きることなどできません。たとえこのままセリノスの森にいたとしても、女王と離れてしまえば、私は元気をなくしていくでしょう」
 ラフィエルはそこまで言ったところで、ふっと体の力が抜けるのを感じた。こんなふうに激しく自分の感情を爆発させ、自分の思いを相手に話したことは一度もなかったからだろう。
 ふらりとよろけたラフィエルを、ニケは優しく支えた。その体の温もりを感じ、ラフィエルは思わず涙を流した。
 ニケと過ごした日々。それはラフィエルに様々な心境の変化をもたらした。ニケと共にハタリで暮らしていた頃は、こちら側に全く未練を持たなかった。時折思い出すことはあっても、決して戻りたいとは思わなかった。ただ、ニケの側にいられればそれで良かったのだ。ニケもそれを望んでいるのが感じ取れたし、自分も同様だった。
 今更これほどまでに深く愛した相手と別れろと言われて、あっさり首を縦に振る者はいまい。それがたとえ、どんなに良い条件と引き替えであったとしても。
「ラフィエル、すまなかった。私はつまらぬことを考えていたようだな」
 ニケは優しい声で謝った。いいえ、とラフィエルは首を振った。
「女王は私のことを思って言って下さったのです。どうか、そんなふうに謝らないで下さい」
「ふ、そうか。それでは、私と共にハタリへ帰るのだな?」
 ニケに改めて聞かれて、ラフィエルは首を縦に振った。
「はい。私は女王のいらっしゃるところ、どこまででもついていきます」
「そうか。ありがとう、ラフィエル」
 ニケは微笑みを見せた。その笑顔はどの朝に見たものよりも、素晴らしく輝いて見えた。
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