届け、旋律

 ハタリ城の一室から、美しい旋律が流れているのに気付き、ニケははたと足を止めた。
 今までに聴いたことのない旋律だった。紡いでいるのはやや高めの、男性の声である。その声の主に思い当たったニケは、その部屋の扉を気付かれぬようにそっと開けた。
 ラフィエルは部屋のベッドに腰掛け、微笑んでいた。微笑みながら、小さく口を動かして歌を紡いでいた。彼の長い金色の髪には日の光が当たり、きらきらと輝いていた。彼が時折口を大きく動かすと、呼応するように背の翼が揺らいだ。
 美しいとしか言いようのない光景だった。ニケは思わず夢中になってその光景を見つめた。耳に流れ込んでくる旋律が、ニケの体をその場に留めていた。
 その時、かたん、とニケの足が扉にぶつかった。しまった、と思ったも束の間、ラフィエルは歌うのを止め、驚いたようにはっと顔を上げていた。
「女王……」
 ニケは自分の失態に舌打ちしたい気分になりながらも、これ以上後悔しても仕方がないと、扉を大きく開いて中に入った。
「すまない、邪魔をしてしまった」
「いいえ。お気になさらずに」
 ラフィエルは微笑みを取り戻し、首を横に振った。
「それは、鷺の民の呪歌と呼ばれるものか」
「はい」
「初めて聴いた。美しい旋律だな。心が洗われるようだ」
「女王が気に入ってくださって、嬉しいです」
 ニケが思った通りのことを口にすると、ラフィエルは心底嬉しそうな表情をした。
「その呪歌に、名前はあるのか」
「はい。先程のものは、"再生"と呼ばれる呪歌です」
「再生……」
「姿を変えてしまったものを、元に戻す歌です」
 そう言うと、ラフィエルは部屋の窓から遠くを眺めた。彼の表情は、やや曇っていた。
「女王には、お話ししましたね。私の故郷が今、どうなっているのか」
「ああ。ベオクによって、何もかも焼き尽くされてしまったと……」
 ラフィエルはゆっくりと頷いた。
 ここハタリから、砂漠を隔てた向こう側にある大陸、テリウス。そこにラフィエルの故郷はある。セリノスの森と呼ばれる場所で生きていたラフィエルは、ある日突然故郷と家族を失った。失意に呑まれそうになりながら、ラフィエルは病気がちな体で、故郷へ帰ろうと試みた。だが、どうしたわけか、デイン王国の向こう側にある砂漠に迷い込み、ハタリへと出てきてしまったというわけだ。
 幸いにもハタリで女王ニケに助けられ、それからずっとラフィエルは彼女の側で過ごしている。獣牙と鳥翼という種族の違いはありながらも、二人は惹かれ合い、互いを生涯の伴侶と認めた。
 最初に比べれば、ラフィエルが笑顔でいる時間は増えた。だが、彼が時折寂しそうな表情を見せることも、ニケは気が付いていた。決してニケの前では口に出さないが、ラフィエルは故郷が恋しいのだろう。まして、あのような事件があった後では、なおのことだ。
 ラフィエルは窓の外から、ニケの方へ視線を戻した。
「再生の呪歌であればきっと、セリノスの森を元通りに戻すことができます。そのためにも、私はいつか、故郷へ帰らねばならない……」
「ラフィエル……」
 ニケが名を呼んだ後、ラフィエルは我に返ったように首を横に振った。
「……申し訳ありません、女王。私は、怖いのです。ハタリで女王の側にいれば、こんなことは考えずに済みます。けれど、一人になった時、ふと考えてしまうのです。私はこのままでいて良いのか。家族は、そしてセリノスはどうなってしまったのかと」
 胸に手を当てて、ラフィエルは深く息を吐いた。
「気付いたら、この歌を謡っていました。どうか、この歌が故郷に届くようにと、願わずにはいられなくなって」
 ニケはラフィエルの側まで歩いていき、彼の体を覆うようにして抱きしめた。
 彼の体は震えていた。ずっと、耐えてきたのだろう。ニケに弱音を吐くことなく、一人でずっと、その繊細な心に秘めてきたのだ。
 ニケはその震えを止めようとするかのように、腕に力を込めてラフィエルをいっそう強く抱きしめた。
「ラフィエル、私を心配させまいとするお前の気遣いは嬉しい。だが、一人で何もかも抱え込むな。私たちは夫婦だ。夫婦の間に隠し事があってはならない――そうだろう?」
 静かに、しかし強い口調で言うと、ラフィエルの瞳に涙が浮かび上がった。
「女王、申し訳ありません。私は……」
「謝るな。分かってくれれば、それでいい。私はお前の心の支えになりたいのだ」
 つうと、ラフィエルの白い顔に涙が伝った。ニケはラフィエルを安心させるように、微笑んだ。
「いつかきっと、お前の故郷に帰る日が来る。その時は無論、私も一緒だ」
「女王も……一緒に来て下さるのですか?」
「ああ。お前の故郷が見てみたい。美しい森なのだろう? そのセリノスの森という場所は」
 ラフィエルは涙を流しながらも微笑みを浮かべ、頷いた。
「青々とした木々の葉が周りを覆い、その隙間から、光の粒が零れてくる。その光の粒を浴びながら、私たち鷺の民は、毎日喜びの歌を紡いでいました。歌を紡げば紡ぐほど、森もそれに応えてくれます。私たち鷺の民は、そうして生きてきたのです」
 歌い上げるようにして、ラフィエルは言った。
 ニケは目を閉じて、その光景を想像した。同時に、先程ラフィエルが紡いでいた旋律が、頭の中で蘇る。想像するだけで、心が喜びに満ちあふれていく気がした。自然と唇から笑みがこぼれ、ニケは幸せなため息をついていた。
「きっと、美しいのだろうな。ますます、お前の故郷が見てみたくなった」
「ええ。私も女王に、見せて差し上げたい。あの美しい私たちの森を」
 ニケは目を開けて、彼の体から離れると、ラフィエルに頼んだ。
「ラフィエル。もう一度、謡ってはくれまいか。先程の、再生の呪歌を」
「勿論です、女王。貴女の望みとあらば」
 ラフィエルは快諾し、小さく口を開けると、喉を震わせ始めた。
 再生の呪歌には、変化してしまったものを元に戻す効果があるという。ニケの心までも、穢れなき幼少の頃に戻っていくような、そんな気がした。それほどの効果が、ラフィエルの呪歌にはあった。
 ニケは目を閉じた。力が満ちあふれていく。ニケは狼の姿に化身すると、ラフィエルの側へ、体を横たえた。
 心地よい時間が、穏やかに流れていた。
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