心の支柱

 聖地ノワーレでの決戦を終え、一行は飛光艇でそれぞれの故郷へと戻ることになった。
 ノワーレに残してきたラルクのことを思いつつ、しかし皆の表情は晴れやかだった。神の定理などに左右されるのではなく、これからは人が自分たちで未来を築いていく時代が始まるのだ。それぞれが自分たちのこれからの使命に思いを馳せつつ、心の中で決意を固めていた。
 レスリーとサージュは共和国の首都カルブンクルスに戻ることになった。レスリーだけでなくサージュまでがカルブンクルスに残ると聞いて、セシルは怪訝そうな顔をした。
「なんで? サージュの故郷はエブルでしょ?」
「俺にもちょいと契約があってね。傭兵としての契約が」
 軽快な口調でそう言い、サージュはセシルに向かってウインクしてみせる。なおも納得できていないという表情をしながらも、セシルはふうん、と言って、飛光艇の操縦に戻った。
 レスリーは傍らに立つサージュの横顔を覗き見る。聖地に足を踏み入れたが最後、もう戻ってくることはないかもしれない――そんなレスリーの心配は杞憂に終わったが、彼はノワーレでした契約を覚えていてくれたようだ。さすがに傭兵としての契約を忘れるほど、軽薄な男には見えなかったけれども。
 見つめていると、すぐさま彼の視線がこちらへ向いた。
「どうしたんだい? バイオレンスレディ。俺の横顔があまりに美しいから、見とれていたのかな?」
「ふふ、何の冗談かしら。私はただ、貴方のウインクがあまりに下手だから、面白くて見ていただけよ」
「これはこれは。相変わらず手厳しいねぇ」
 サージュは苦笑を洩らす。レスリーも唇には微笑みを浮かべながら、鋭い瞳で彼の顔を見た。
 簡単に他人に心を許すことも、相手に主導権を与えることもないと自負しているレスリーだが、このサージュ相手に限っては、油断することはできないのだった。いかにも軽薄そうな印象のある彼に騙されることなどないと油断してかかっていると、いつの間にかその巧みな言葉遣いに翻弄されることになる。
 成り行き上アルスの一行と行動を共にしていた際、彼がただの女好きでないことは見抜いた。本心を巧みに隠し、油断をしないようにしながら、上辺だけの言葉で接する。それが、サージュとの付き合い方だった。それはラルクたちと行動を共にすることとなってからも、変わらなかった。
 だからノワーレで、彼に本心を見抜かれた時は動揺した。その時に事情を話してしまった自分もどうかしていたかもしれないのだけれど――レスリーは心の中で苦笑する。ただノワーレにいた時の精神状態が互いに不安定だったせいか、本心をさらけ出すことに何故か躊躇いを覚えなかったのだ。
 今なら契約を破棄することもできるだろうが、レスリーは敢えてそうしなかった。彼の本質を見極める良い機会かも知れない、そう思ったのだ。だからレスリーは成り行きに任せ、飛光艇が故郷に到着するのをただ待ち続けていた。大きな飛光艇を器用に操る、小さな勇者様の後ろ姿を見つめながら。


 セシルの操縦する飛光艇は無事、カルブンクルスの入り口付近で着陸した。かつての仲間達に別れを告げ、二人は帝国へと向かう飛光艇を見送った。
 飛光艇が空の向こうで見えなくなった後、サージュは靴のつま先で地面を叩き、親指を立てて街を指す。
「さて、カルブンクルスに着いたぜ。あんたの妹さんのいる家は芸術街にあったな?」
「ええ、そうよ。けれどもう大丈夫。カルブンクルスにさえ着ければ、あとは自分で帰れるわ」
「おいおい、それはないだろう。俺との契約は家まで送り届けること、だったろう?」
「……それはそうだけど」
 レスリーは腕を組んで、上目遣いにサージュを見る。
「貴方にも帰りたい故郷があるんでしょう。可愛らしい妹さんの待っている場所が」
 するとサージュが、やや怒ったように眉根を寄せた。
「いいか、バイオレンスレディ。傭兵にとって依頼ってのは絶対なんだ。それに、俺はまだあんたから報酬をもらってないんだぜ。タダ働きする傭兵なんて、この世にいるわけないだろう?」
「そうね。忘れていたわ、報酬のこと」
 くすくすと笑うと、おいおい、とサージュが溜息をついた。
「一番重要なところだぜ、そこは……」
「ごめんなさい。けれど、すぐに払うってわけにはいかないかもしれないわ。それでも?」
「それでも、だ。お互い、納得して契約したはずなんだからな」
「そうだったわね」
 答えながら、ノワーレで交わされた言葉を思い出す。彼から報酬を提案し、レスリーもそれに了承した――涙という名の報酬を。
 契約の重さは知っているつもりだったけれど、彼がここまで頑固な人間だったなんてと、レスリーは微笑む。軽薄で何かに執着することのない、気ままな人間だとばかり思っていた。自分の見込みの甘さに、レスリーは内心溜息をついた。
 二人は無言で、カルブンクルスの街を歩む。明るい陽光の降り注ぐ賑やかな通り、人々の集う噴水広場を抜け、二人は芸術街に足を踏み入れた。街の人々は、先程聖地でこの世界の運命を変えるような戦いが行われていたことなど全く知らない。だからこそ街を流れる時間はいつも通り穏やかで、それがレスリーの心を幾分か和ませた。
 ダグラス家の前に着いた時、レスリーは振り返って礼を言った。
「ありがとう、サージュ。これで依頼は終わりね」
「ああ、そうだな」
 サージュも少しばかり安堵したような表情で頷いた。
 それを確認した後、レスリーは身体を翻す。愛しき妹の待つ、懐かしの我が家。少女のように胸を膨らませながら、目の前の扉を開けた。
「ただいま」
 もう何年も言っていなかった言葉を、自然と口にする。
「姉さん……!」
 やつれたエンジュの顔が驚き、そして喜びに変わるのを、レスリーは見逃さなかった。


 妹との再会を終え、外に出たレスリーは驚きに目を見開いた。そこには先程と変わらぬ様子で佇むサージュの姿があったからだ。サージュは所在なげに家の前で地面を見つめていたが、レスリーが出てきたのに気付くと、さっと顔を上げた。
「よう。妹さんとの再会は終わったかい?」
「サージュ、まだいたの? もう帰ったのだとばかり思っていたわ」
 サージュは軽く笑って、首を振る。
「そんなわけないだろう。まだ報酬をもらってないってのに」
「でも、報酬はもっと先になるって――」
「少し、ここで待たせてもらおうかと思ってな。妹さんと再会した感想も聞きたいし?」
 唇の端をつり上げて笑みを作るサージュに、レスリーは小さく溜息をつく。自分の見込み違いだったろうかと僅かに後悔を覚えつつ、レスリーはサージュの隣に立った。
「で、どうだった。感動的な再会だったのかい?」
「ええ、とっても。……あの子、私を見て泣いていたわ」
「そうかい、そいつは良かった」
 小さく溜息をついた後、サージュは目を伏せて呟くように言った。
「……守るべきもの、か」
「どうしたの? 突然」
 唐突なサージュの言葉に、レスリーは目を見開く。サージュはいいやと小さく笑って、視線を空へと向けた。
「あんたは守るべきものがたくさんあるからな。少し、羨ましいと思っただけさ」
「……そうね」
 レスリーは小さく呟くように答えた後、思いを巡らせる。愛しい妹エンジュ。共和国元老院議長であり、親友でもあるシェリィ。皆この手で守ると誓った、大切な者たちだ。
 でも、とレスリーはサージュの方を向いて、口を開く。
「あなただって、守るべきものがあるから、傭兵になったのでしょう?」
 サージュは僅かに目を見開いた後、ははっ、と軽く笑った。
「そうだな。……けど、結局守れなかったものもある」
 自嘲気味に呟くサージュの横顔を見て、レスリーも目を閉じて過去を振り返る。自分もサージュと同じ、守るべき者を守れなかった過去がある。それも世界で最も大切だった、あの人のことを。
 彼のことを考える時、レスリーはいつも息苦しくなる。彼の護衛として、最も近い場所にいたはずなのに、それなのに守れなかったという後悔。彼が愛した人、エンジュを悲しませてしまったことに対する罪悪感。様々な思いに苛まれて、レスリーはそれ以上軍にいられなくなった。彼を殺した人物を捜すという口実を設けながらも、それはある種の逃げだったのかもしれない。
 目を開けて、肩に掛かる髪を振り払いながら、レスリーは微笑みを浮かべた。
「私と貴方は似ているわね。大切な人を守るために戦っていたことも、その大切な人を亡くしてしまったことも」
「……そうだな」
 サージュも顔を上げて、頷いた。
「あなたはこれからどうするの? エブルに帰って、故郷と妹さんを守って暮らすの?」
 レスリーが尋ねると、サージュは一拍止まった後、意外にも首を横に振った。
「そうしたいのはやまやまなんだが、少し気が変わってな」
「あら、どういうこと?」
「さっきの依頼だが、ちょいと報酬を変更してもらいたいんだ。どうやら最初に提案した報酬をもらうには、長い時間がかかりそうなんでね」
「どうすればいいの?」
 レスリーが首を傾げると、サージュは少し考えるような仕草をした後、口を開いた。
「そうだな。俺が守るべき大切なものを増やす、ってのはどうだい?」
 サージュはレスリーの瞳を真っ直ぐに見据えた。彼の言葉の意味を咄嗟には理解しかね、レスリーは怪訝な顔をする。納得するためには、彼の言葉はあまりにも抽象的すぎた。
「どういうこと? 大切なものって」
「分かってるんだろう?」
 サージュはレスリーの心を見透かすかのように、視線を動かさずそう言った。レスリーは一瞬考えた後、はっとする。彼の言葉の意味に気付いてしまったのだ。
 自然と口から笑みがこぼれる。信じられないような話を聞いた時笑みをこぼす癖が、抜け切れていないのだった。
「あら……それ、口説いてるつもりなの?」
「一体何を。俺は真面目に仕事の話をしているだけだぜ?」
 サージュはあくまでも涼しい顔である。彼の本心までは計りかねたが、悪い提案ではないとレスリーは思った。一見、涙よりも安い報酬。しかし、貴重な報酬だ。彼にとっても、自分にとっても。
「いいわ。その提案、受け入れてあげる」
「即決か。もう少し考え込むかと思っていたんだがねぇ」
 皮肉めいたサージュの言葉にレスリーは苦笑を洩らしつつ、声のトーンを保ったまま言う。
「だって、貴方に涙を見せるには、まだ早すぎるもの」
「俺もそう思っていたところだ。それに俺が欲しいのは、あんたの心の涙だからな」
「ふふ。相変わらず気取った表現を使うのね」
 レスリーはいつものように軽くあしらいつつ、悪い気はしていないことに気付いて苦笑する。こんな男の提案をあっさりと受け入れてしまうなんて、自分もまだまだ未熟なのだろうか――そう考えながら、それでもいいと囁く心があった。ならば少しくらい、心の赴くままに流されてみても良いのではないか。
 レスリーは再び桃色の髪を払いながら、サージュに言った。
「じゃあ、これからもヨロシクってことでいいのかしら? 光召術師さん」
「ああ、これからもよろしくな、バイオレンスレディ」
「報酬が欲しいなら、その言葉遣いから改める事ね」
 笑顔のまま繰り出されるレスリーの鋭い言葉を受けても、サージュは余裕の笑みを浮かべたままだった。
「はいはい、気を付けますよ。じゃあ、またな」
 首の周りでたなびく蝶タイのようにひらひらと手を振って、サージュはその場を去っていった。
 彼の後ろ姿を見ながら、レスリーはこれからの未来について、明るい気持ちで思いを馳せていた。
(2010.3.27)
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