シャイニング早乙女が亡くなった。
そんな一報が飛び込んできたのは、活動20周年を迎えるST☆RISHのクリスマスコンサートが終わった直後のことだった。ファンの割れんばかりの声援を受けながらあらゆるパフォーマンスに挑戦し、心地よい汗を流して舞台裏に戻った後。皆でハイタッチを交わし、ライブの成功を喜んでいた彼らは、一様に驚愕の表情を浮かべた。
「そんな、まさか社長がっ」
真っ先に声を上げたのは翔だった。それをきっかけに、他のメンバーたちもそれぞれ呆然としながら言葉を洩らす。
「信じられません……」
「ここのところ体調が優れないという話は聞いていたが、まさかそんな……」
「殺しても死なない人だと思っていたのにね、ボスは」
「社長……社長がいなくなったら、僕たちはどうすれば良いのでしょう……」
トキヤ、真斗、レン、那月と、言葉が続く。
翔を含めた五人それぞれが顔を見合わせ、言葉を交わす中で、一人だけ一言も発しないで、目を伏せている人物がいた。俯いているせいで、表情は窺えない。様子を不審に思った翔が、ぐいと顔を覗き込んでくる。
「おい、音也、大丈夫か?」
音也はそこで、ようやく顔を上げた。口角がくいと上がり、ライブの時に見せていたものと変わらぬ笑顔で、心配そうな五人と相対する。
「あ、ごめんごめん、大丈夫。ちょっと考え事。ところでさ、」
音也は一度言葉を切って、報告しに来た日向の方を向いた。
「お葬式って、いつになるの?」
「詳しくはまだだが、二、三日後になるだろう。葬儀の方は、身内だけで行うつもりだ」
シャイニング早乙女、もとい早乙女光男は生涯独身だった。恋人もいなかったというから、無論子どももいないことになっている。要するに、本来なら葬儀を執り行うべき近親者と呼べる人間がいないのだ。よって葬儀を執り行うのは事務所ということになるのだろうから、この場合身内というのは、おそらくシャイニング事務所に所属していたタレントたちを指すのだろう。
「そっか」
音也は軽く頷いた後で、楽屋のソファから立ち上がった。そのまま何も言わずに扉の方にすたすたと歩いていくのを見て、翔が後ろから声を上げる。
「音也! どこに行くんだよ?」
「お葬式の日、決まったら教えて。じゃ」
「一十木! 待っ――」
慌てて引き留めようとした日向の声に応えることもなく、音也は軽く手を振って、そのまま楽屋を出て行ってしまった。出て行く瞬間、彼の赤いネクタイがひらりと舞って、音也の横顔を隠してしまった。
残された者達は一斉に顔を見合わせた。音也の行動の意図が掴めない――誰もが表情でそう語っていた。同時に、音也の様子はいつもと違っておかしかった、とも。
夕方から降り始めた雪は、街をあっという間に白く染めてしまった。クリスマスということもあり、街中に溢れるイルミネーションの光はあまりに眩しすぎた。
地味な灰色のコートを羽織り、サングラスを掛けた音也は、会場を出て空を見上げた。ちらつく雪がサングラスの上に落ち、小さな水玉を残しては消えていく。それを拭うこともないまま、その場に立ち尽くす音也の口からは、小刻みに白い息が洩れた。
「聞いた? あのシャイニング早乙女が死んだんだって」
「あー、さっきニュースでやってた。信じらんないよね」
他愛もないはずの会話が、耳を掠めた。冷たいものが、あっという間に心全体に広がっていく。
音也は視線を下げ、肩に掛けていた黒いバッグから、音楽プレーヤーを取り出した。カナル式のイヤホンを耳に嵌め、プレーヤーを操作する。
画面に現れたのは、『愛故に…』の文字。
ふうっと溜息をついて、音也はそのまま、コートのポケットに手を突っ込んで歩き出した。
すれ違う恋人達の楽しげな笑い声が、馬鹿みたいにはしゃいでいる男たちの声が、酔っているのか高笑いをする女たちの声が、ノイズのように鼓膜を震わせる。サンタやトナカイの衣装を着て客引きをする者達に目もくれず、音也はひたすら歩き続けた。
切なげに歌う、イヤホンの向こうの男の声だけが、音也の心を揺さぶった。愛故に恋人を突き放した男の後悔の歌。覚悟の上の行動だったはずなのに未練が断ちきれぬと、ひたすらに恋人に愛を告げる歌。その歌の真実を知っている者は、この世に多くはいない。
歌が終わりに近づいた時、音也はようやく立ち止まった。サングラスを一瞬だけ外し、あまりにも眩い風景に耐えられず、すぐさま俯いてサングラスを掛け直した。
普段と一切変わらないこの世界に、音也は疑問を覚えた。日本で最も影響力があるとすら言われた人間がこの世からいなくなったというのに、街はあまりにも変わりなく動いている。
「嘘だろ……」
音也の呟きが、口から滑って落ちていった。喉から溢れ出しそうなほど膨れ上がった喪失感を呑み込めず、音也は思わずその場で叫びそうになった。
――社長が……シャイニング早乙女が、亡くなった
ライブ直後に告げられた日向の言葉が、何度も何度も頭の中で響き渡った。
三日後、シャイニング事務所に所属していた者たちのみが出席し、葬儀が執り行われた。
小さな葬儀ホールを貸し切って行われた葬儀には、それでも多くの人々が集まった。中央に置かれたシャイニング早乙女の遺影、そして白い花々で囲まれた桐の棺桶を見ながら、焼香を済ませて立ち位置に戻る。静かながらもすすり泣く女性の声、嗚咽を必死に堪える男性の声が響き、葬儀は非常にしめやかな雰囲気の中で執り行われていた。
「あの棺桶の蓋がバッと開いて、中から出てきそうなのにな、社長」
翔がぽつりと呟くと、隣に居た真斗が頷いて同意する。
「ああ。まだ信じられん……全てが嘘のようだ」
その隣では、唇を噛んで目を真っ赤に腫らしている那月の肩を、レンが優しく叩いて慰めている。
「社長が僕たちにとってどれほど大きな存在だったか……、今になってようやく分かるなんて……」
「……シノミー」
多くを語らないが、レンも複雑な思いを抱いているようだった。
焼香を終えて戻ってきたトキヤは、ふと、隣に立つ音也を見た。音也の顔はずっとシャイニング早乙女の遺影の方を向いていた。横から窺える顔には、表情らしき表情が宿っていないように思えた。瞳は干からびた灰色、素直に感情表現をするはずの頬や唇はぴくりとも動かない。トキヤは言い知れぬ不安を覚えて、そっと音也の名を呼んだ。
「音也。……音也」
二度呼んでも、反応は見られなかった。まるで心ここにあらずといった様子で、ひたすら遺影を見つめている。更に隣にいた春歌も、同じ不安を覚えたらしい。下から軽く顔を窺うようにしながら、音也の名を呼んだ。
「あの、……音也くん」
そこでようやく、音也ははっと目を見開いた。ゆっくりと顔をこちらに向けた時には、既に表情は緩んでいた。それは一瞬笑顔に見える、けれども、その表情から彼の心情を読み取るのは難しかった。
「ごめんごめん、何?」
「……いえ……何も」
「あ……な、なんでもないです。ごめんなさい」
音也の威圧感に似た雰囲気に呑まれた二人は、それ以上言葉を継げなくなった。そう、と短く言うと、音也の視線は再び遺影に向かった。
経を読む僧の声が地を這うように響き渡る中、音也はぴくりとも動かなかった。出会った頃と変わらない、普段から元気で、悪く言えば落ち着きのない音也が、こんなにも直立不動の姿勢でいる姿を、誰もが初めて目にしたことだろう。それほどまでに、音也は異常な雰囲気だった。終始無表情で、何を考えているのかすら、悟らせまいとするかのように。
葬儀が終わった後、音也は日向に呼び出された。
「社長の遺言と、……あと、お前に個人的に手紙を預かってる」
音也は軽く目を瞠った。日向から差し出された白い封筒を、やや戸惑いながら受け取る。
「これを、俺に?」
「そうだ。遺言も……お前には、後で読んでもらいたい」
俺は立ち会ったから既に知っているんだが、と言う日向に、音也は無言で頷いた。
クリスマスが終われば、世間は一気に正月ムードになる。年末は特番も多くなり、本来ならば音也も、数多くのバラエティ番組に出演し、お茶の間を賑わせる予定でいたが、既にそんな雰囲気ではなくなってしまった。
仕事は仕事だと割り切って笑顔で振る舞ったはずなのに、番組の共演者たちからは覇気がないと言われ、ファンからは心配するメールが事務所宛に数多く届いた。それを見た日向が一日オフの日を作ってくれ、音也はその日、自分の部屋でシャイニング早乙女が残したという手紙を読むことにした。
白い封筒の表には一十木音也へ、と書かれている。封を切り、中から手紙を取りだした。手紙は直筆のものだった。きちんと彼自身のサインが記されていることを確認してから、音也は手紙を読み始めた。
『音也へ
これをお前が読んでいるということは、私は既にこの世にいないのだろう。
まず、最初に。お前には謝らなければならないことが山ほどある。
数え上げればキリがないが、何よりも、お前が親という存在を知らぬまま育ってしまったこと。お前に親の温もりを、教えてやれなかったこと。
私はいつも後悔していた。後悔しなかった日はないだろう』
手紙を持つ音也の手が、小刻みに揺れる。
『それなのに、お前は真っ直ぐに、明るい人間に育ってくれた。
私と同じ道を歩もうとしていることを知ったときは、どれほど嬉しく、また、どれほど複雑な思いになったことか。
私と同じ過ちを繰り返させまい。そう思って、常に指導してきたつもりだ』
白い手紙の上に、大きな染みができた。一つ、二つ、雨の降り始めのように、徐々に増えていく。
『それがお前にとって良かったのか、私は今でも分からない。
ただ、お前はアイドルとして成功した。どんな辛い仕事も、弱音を吐かずやり通した。
そんなお前を、私は自分の息子として、何よりも誇らしく思う』
「っ、……」
唇を噛んで、嗚咽を必死に堪えた。手紙の文字は歪んで、手は震え、ただ読み進めるのさえ、困難になった。それでも食らいつくように、手紙の文字を一つ一つ読み進めた。
『私にはお前を息子などと呼ぶ権利はない。お前の父親だと名乗る権利はない。
それでも最後だけは、お前に父親らしいことをしてやりたかった。今までできなかった分、お前に何かを残せたらと、そう考えた。
私の正式な遺言を読んで欲しい。日向に託してある。
私の愛する息子 音也へ
早乙女 光男』
音也は耐えきれず、手紙をぐしゃりと握りしめた。堰を切ったように溢れ出した涙は止まらなかった。葬儀の間、あんなにも無表情だった音也が、顔をくしゃくしゃに歪め、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
涙を乱暴に拭って、音也は部屋を出た。向かう先は事務所だ。日向に連絡はしていないが、きっとそこにいてくれるだろう。音也は走った。外では今にも泣き出しそうな曇天が、音也をじっと見下ろしていた。
「一十木。来たか」
思った通り、日向は事務所で待ってくれていた。日向は少し疲れた様子だった。葬儀を執り行った後、マスコミへの対応に追われ、数日後に迫った告別式の準備にも取りかかっている。早乙女学園で初めて出会ったときあんなにもはつらつとして、誰よりも声を張り音也をはじめ生徒達を厳しく指導していた日向。20年経ってもその姿勢は変わらなかったが、くたびれた表情、耳脇にうっすらと生えた白髪は、老いを感じさせた。
音也が何も言わないまでも、日向は全て分かっていたらしく、シャイニング早乙女が残したという遺言書を、音也に手渡した。
『遺言者、早乙女光男は、一十木音也を認知し、遺言者の息子一十木音也に、財産の全部を相続させる』
その一文は、予想できたものでもあった。顔を上げて日向を見ると、日向は複雑そうな表情でそれに相対した。
「そこに書かれている通りだ。初めて聞かされた時は、俺も驚いたがな。社長の最後の、お前への愛情……なんだろう」
音也は肩を震わせ、深呼吸した。そして、遺言書を黙って日向に突き返した。驚いたように目を見開く日向に、音也は絞り出すように言った。
「俺は……俺は、財産なんて、要りません。要らない」
「一十木……」
一度迸ってしまうと、次々溢れ出して止まらなくなった。
「俺はそんなもの要らない。そんなものが欲しくて、ここにいるんじゃないんだよ!」
音也の目から、再び熱い涙が零れだした。
「俺はあんたに憧れてた。あんたの歌が好きだった。あんたみたいになりたい、あんな人が父親だったらいい、そんなふうに夢見てたこともあったよ。でも……今更、息子だなんて、父親面して、……俺はっ、俺はそんなものが欲しくて、ここにいるんじゃない……」
握り締めた拳が、ぷるぷると震えた。
「俺は、あんたに、もっと生きてて欲しかっただけなんだ…………」
くしゃくしゃになった顔を見せられずに、音也は日向から目を逸らして俯いた。早乙女の死を告げられた日に聞いた『愛故に…』。あの歌の中で、確かに早乙女は生きていた。生きて、愛を歌い上げていた。その歌声は今でも、いつでも蘇らせられる。それなのに、本人はもうこの世にいないのだ。そんなことがあってたまるものか。
「俺は、いつだって温かかったよ。あんたの……父さんの温もりを感じていたよ……」
施設にいた時、クリスマスにいつも訪れていた足の大きなおじさん。エレキギターをもらったときは本当に嬉しくて、それ以来、ギターに触れない日はなかった。
学園に入ってからは、毎回無茶な課題を与えられ、文句を言いながらもこなした。結果、それらは全て、芸能界に入ってから役立った。いざという時の勝負度胸。演技や歌に込める気持ち。何より大切なそれらを、全て教えてくれた。
事務所に所属してからも、無理難題が与えられなくなるなどということはない。むしろ学園にいた頃より酷くなったようにも思えたが、それを愛情と感じるまでには、長い時間が掛かった。
ようやく愛情と理解できたその矢先に、常に惜しみない愛情を注いでくれたその人が亡くなるなどと、到底受け入れられるはずがないのだ。
音也はいくつもいくつも、溢れ出す涙を床に落とし続けた。
「俺はあんたの息子だって、胸を張って言えるようになるまで……見ていて欲しかった」
ぐっと唇を噛み締め、握り拳を震わせる。血の味が口の中に広がった。日向が無言で肩を抱く。音也は日向の腕にすがって、やがて声を上げて泣き始めた。
それと呼応するように、事務所の外から雨の音が響き始めた。雨の音が大きくなるのと一緒に、音也の泣き声も一層大きくなった。日向は黙って、音也の洪水のような涙を受け止めていた。
音也の手の中でくしゃくしゃにされて、意味を成さなくなった遺言書が、はらりと床に落ちた。