狼な志波くん -髪-

 分からない。
 肩で切り揃えた髪を揺らし、軽い足取りで学校の階段を上っていく彼女を後ろから見ながら、志波はつくづくそう思った。
 志波は、自分の中にある彼女への思いを既に自覚していた。自覚しているからこそ、余計に分からなかった。彼女が何を考えているのか、何を考えて自分と向き合っているのか。
 否、向き合っているかどうかすら、分からない。彼女の視線が他の男に向いているかもしれないことを考えるだけで、志波の身は焼かれるように熱くなり、苦しみに悶えざるを得なくなる。
 階段を昇りきったところで、彼女は志波の方を向いた。志波はその顔を見て、ふっと、意識が遠のくかのような感覚に襲われた。
「志波くん」
「ああ……なんだ?」
「早くしなくちゃ、授業、始まっちゃうよ?」
「そうだな……」
 そう言いながら、どうでもいい、と志波は思った。いつだったか、図書館で居眠りしてしまって、そのまま一、二限の授業をさぼってしまったこともあったが、それでも、大して良心が痛むこともなかった。志波にとって、授業と言うのはそれだけの価値しかないものなのだ。
 だが、彼女が呼んでいる。志波は重い足を上げて、階段を昇りきった。
「じゃあ、また後でね、志波くん」
 彼女は教室の前まで着くと、そう言って志波に手を振った。だがその時あることに気付いた志波は、思わず声を上げていた。
「待て」
 えっ、と戸惑った表情で、彼女が振り向く。志波は彼女の方へ歩いていくと、そのさらりとした髪に触れた。そこに小さな埃が付着しているのを、遠目で認めたからだった。
「埃、ついてるぞ」
「あっ。ありがとう」
 だが志波は、埃を取ろうとして髪に触れたまま、手を止めていた。なんと柔らかい髪なのだろう。志波はそのまま、自分の手の上を滑る髪を眺めていた。その髪のすぐそばに、雪のように白い頬があるのが見えた。
 彼女が無邪気に自分の体に触れてくる時、いつも抑えがたい衝動が志波の体中を走り抜けた。それはあまりにも危険すぎる衝動だった。このまま彼女を腕の中に収めて、自分のものにしてしまいたい。そして本能の赴くまま、彼女を抱きたい――
 志波はそう思うたび、目を閉じて深呼吸をした。そうすることで、少しでもこの衝動が和らげばと思ったのだ。
 だがその限界を感じる時、志波はいつもこの無自覚で無邪気な彼女を恨んだ。恋人でもない男に、どうしてこんなにも気を許してくるのか、全く分からなかった。分からないからこそ、知りたいと思った。だが、知りたいと思っていろいろと言葉をぶつけてみるものの、彼女から返ってくる答えは、的を射ないものばかりだった。
 ここまでくると、自分の気持ちなど既に見透かされた上で、この女に遊ばれているようにすら、感じる。
 志波は思わず、彼女の髪を強く握った。じり、と音がして、志波の手の上で髪が滑った。
「い、痛いよ、志波くん」
 その声に、志波ははっとした。そして慌てて、手を離していた。
「わ、悪い」
 それでも彼女は嫌な顔ひとつせずに、志波に向かって笑顔を見せた。
「ううん、ありがと。じゃあね、またあとで」
「ああ……」
 彼女は今度こそ手を振り、教室の中へ入って行った。
 急激に、志波の肩から力が抜けていくのを感じた。定時を告げるチャイムの音も、志波の耳には入ってこなかった。生徒たちが吸い込まれるように教室の中へ入って行き、まるで世界に、自分一人が取り残されたかのような感覚に陥る。
 自分は何を考えていたのだろう。後悔の念ばかりが志波を襲った。あんなにも無邪気な笑顔を自分に向ける彼女に対して、自分がしたことは何だ? 自分が考えていたことは、一体何だ?
 心に溜まったものとともに熱い息を吐きだした時、ぽん、と肩を叩かれ、志波はふっと我に返った。すると、後ろには若王子が立っていて、怪訝そうな目で志波を見つめていた。
「志波くん、どうしたんです? もう授業は始まっていますよ」
「あ、ああ……すみません、先生」
 志波は若王子に頭を下げると、走って自分の教室へ向かった。
 今から教室に入ったところで、教師にこっぴどく叱られるのは目に見えている。だが、そんなことはどうでもよかった。何と言われても、教師の言葉など、志波の心には響かない。
 そう、今の志波の心に響くのは、あの娘の声だけなのだから。
 ――志波くん、駄目だよ、授業サボっちゃ……
 彼女の声が、ふっと、志波の心に聴こえてきた気がした。
「ああ、悪かったよ」
 微笑み、口の中で呟くように謝りながら、志波は教室の扉に手をかけた。
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