狼な志波くん -肩-

 背に何かの気配を感じ、志波は思わず振り返った。その途端、隣を歩いていたはずの海野が、びくんと手を引っ込めるのが見えた。
「……何だ?」
「う、ううん。なんでも。ただ、志波くんの肩、広いなあって思って……」
 そう言いながら海野がこちらを見上げてくる様子が、志波にはたまらなく愛おしかった。
 海野と志波では、かなりの身長差がある。話す時、志波はいつも目線を下に、海野は目線を上にやらなければならない。だが、その差が、志波にとっては好都合だった。高いところにあるものを取れない海野を手伝うこともできるし、何より、志波が彼女に腕を伸ばせば、きっとすっぽり覆ってしまえる。想像の上だけでも、まるで彼女が自分のものになったかのような思いに、志波は快感を覚えるのだ。
 志波は海野に微笑みかけると、ゆっくりと膝を曲げた。
「ほら。かがんでやったぞ」
「あ。うん、ありがとう」
 海野は驚いたように目を丸くしていたが、おそるおそる、志波の肩に手を伸ばしてきた。
 海野の手の震えが伝わってくる。だがその震えが恐れからくるものではないことを、志波は知っていた。自分の手で海野の手を掴みたくなる思いに駆られたが、志波は危うく、そこで踏みとどまる。
「すごい。やっぱり、鍛えてるもんね」
「ああ。自信があるんだ、ここだけは」
「ふふっ。だって、"強肩の志波"だもんね?」
「……おい、コラ。笑うな」
 意味ありげに笑う海野を、志波は赤くなりながらたしなめる。
 いつだったか、彼女とデートの待ち合わせをしていた時の話だ。志波が少し遅れて行くと、海野がナンパ男に絡まれていたのだ。その時、ナンパ男を追い返す文句として、志波は自分に付けられた"強肩"という言葉を利用した。すなわち、口に出せば同じに聞こえる"きょうけん"を、違う意味の言葉に聞こえるように言ったのだ。
 ナンパ男はそれで怖気づいたのか逃げて行ってしまい、事なきを得たのだが、時々それを覚えている海野にからかわれてしまうのが、悩みの種だった。
「あの時のことは、もうつっこむなって言っただろ」
「ふふっ。でも、嬉しかったんだ、わたし。志波くんが助けてくれて」
 そう言って微笑む海野があまりに可愛く見え、志波は思わず目を逸らした。
 助けるなんて当たり前だ。海野に手を出す男は、全て追い払うつもりだったのだから――
 今の海野とのこの距離を、志波はこれほどもどかしく思ったことはない。友人と言うには、関係が進み過ぎているような気もする。けれど、決して恋人ではない。お互いがお互いの気持ちをはっきり口に出したことはないし、志波はまだ、海野が自分のことをどう思っているかなんて、知らない。
 それゆえに、彼女を独占できないのが辛い。彼女が他の男子と親しそうに話しているだけで、燃えるような嫉妬心が心に湧いてくるのに、志波はそれを遮る権限を持たない。
 彼女が自分のものだと、胸を張って言える日がいつか来るのだろうか。そのことを考えるだけで、志波の思考は闇の中へ落ちて行ってしまう。
「わたしね、すごく頼もしかったの。志波くんの広い肩」
 そう言って、海野は志波の肩をすっと撫でた。彼女の柔らかい手の感触が、鮮明に伝わってくる。
「わたしのこと、全部守ってくれるような気がして……ここに隠れていれば、大丈夫だって」
 そう言いながら肩を滑る彼女の手を、志波はついに片手で掴んだ。戸惑うような目を見せる彼女に向かって、微かな笑みを浮かべる。
「ああ。これからも、そうすればいい。オレが守ってやる」
「うん。ありがとう」
 海野はそう言って、嬉しそうに笑った。
 そんな海野の肩は、志波と比べると本当に小さい。志波は思わず、海野の肩に手を置いていた。海野が驚いたように目を見開いて、志波を見つめた。
「志波くん?」
「お前の肩、小さいな」
 志波が感想を洩らすと、海野の顔がほんのり赤らんだ。
「だって、それは、志波くんと比べたら……」
「はは、そりゃそうだ。でも、オレは、この方がいい」
「どうして?」
「お前のこと、そのまますっぽり包んでやれる気がするから」
 そのまま、両手を出してしまいたい衝動を、志波はぐっとこらえる。
 海野はまだ、戸惑ったような視線を志波に向けていた。困ったな、と思いながら、彼女のそんな表情さえ、志波には愛しく見えていた。彼女の表情は、予想以上にころころと変わる。志波が見ていて飽きないと思う理由の一つだ。
 志波の思考は、行動よりも言葉よりも先へ先へと進んでいて、歯止めが効かなくなりそうだった。その思考に追いつこうとするように、志波は言葉を発していた。
「なんなら――」
「え?」
「試して、みるか? オレがお前を、すっぽり包んでやれるかどうか」
「え……」
 海野の戸惑いの声が、鈴のように志波の耳に響く。その声が聞きたくて、志波はいつもこんな言動を繰り返してしまう。彼女がその真意に気付くような鋭い人間ではないから、なおのこと、止め時が見つからない。
 そして勿論、そんな言動を全て打ち消してしまう魔法の言葉を付け加えることも忘れず。
「……冗談だ」
 志波は折っていた膝を伸ばし、歩き出した。少し遅れて、海野がついてくる気配。
 彼女が未だに戸惑ったような視線を向けているのを感じながら、志波は気付かないふりをして歩き続けていた。
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