普遍の真理

 設楽の指が鍵盤の上を滑り、美しい旋律を奏で始める。
 こうして実家のピアノに触れたのはいつぶりだろうか。長いこと弾いていないせいで、音楽室のピアノとの違いに不覚にも戸惑ってしまう。調律されていないせいでだいぶ狂ってしまった音に苛立ちに似た違和感を感じながら、滑らかな指使いで次々に音を紡ぎ出した。
 もう何度も弾いた馴染みの曲を奏でながら、設楽はちらとピアノの向こうに視線をやる。その途端、向こうにいる人物と目が合ってしまい、慌てて逸らした。大観衆の前で弾く時の緊張とはまた違う焦りに似た感情が込み上げ、若干の苛立ちを覚えた。
 それはほんの気まぐれだった。数日前うちに来ないか、と誘ったら、彼女は一瞬驚いた後、嬉しそうに頷いた。期待はしていたもののまさか了承されるとは思わなくて、設楽は嬉しくも戸惑ってしまうという、矛盾した気持ちを抱えるはめになってしまったのだった。
「お前のせいだからな」
 そんな気持ちを抱えながら迎えた金曜日、一緒に帰り道を歩きながら恨みのこもったような視線を向けると、柏木は訳が分からないという顔で小首を傾げた。
「何が、ですか?」
「全部だ。俺が苛々するのも、腹が立つのも――あとこうやって今、お前と一緒に帰ってるのも」
 少しばかり強めの口調で言うと、柏木がはっと息を呑む気配がした。
「あの……設楽先輩は、わたしと一緒には帰りたくなかったんですか?」
 不安そうな顔をされると、心の中に罪悪感の塊が落ちる。確かに冗談のつもりではあったが、明らかに自分の言い方が悪いと分かっていたのに、自分の面倒な性分ゆえ、素直に謝ることはできなかった。設楽は視線を逸らしながら、呟くように言った。
「そんなこと、誰も言ってないだろ」
「だって、さっき、わたしのせいだって――」
「それが嫌だなんて、誰が言ったんだ」
 直後、柏木の口から溜息が洩れるのを設楽ははっきりと聞いた。設楽は再び振り返ると、安堵の表情を浮かべている彼女に尋ねた。
「何だ。何か文句でもあるのか」
「だって、先輩、いつもややこしい言い方をするから。たまに不安になります」
「ふん。お前もそろそろ俺の皮肉に慣れてきた頃かと思ったんだけどな」
「分からなくなる時があるんです。皮肉なのか、そうでないのか」
 微かに陰る表情に、設楽は足を止められる。少し後で、不思議そうな表情を浮かべた柏木の足が止まった。
 今までは、自分が言葉を発することで相手がどう思うか、相手の心情がどう変化するかなんて、全く気にしてこなかった。公的な場所では笑顔を貼り付けて適当に話を合わせておけば良かったし、学校では誰かとつるむのなんてまっぴらだったからご機嫌伺いなどする必要もなかったし、家に帰ればどれだけ我が侭を言っても、たしなめられることはあれども見捨てられはしないだろうという無意識の安堵があった。けれども今は違う。目の前にいる彼女は設楽の我が侭を全て寛容に受け止めてくれるような、都合の良い人間ではない。だからこそ設楽は興味を持ったし、特別な感情を抱いてすらいるのだが、他人の表情を窺うことに慣れていない設楽は、彼女の心情が読めなくて自分に苛々することもしばしばだった。
 だが今のは、明らかに彼女の気持ちが沈んだということが分かった。設楽は溜息をついて、微かに頬を染めながら口を開いた。
「……悪かった。俺は……お前と帰りたいと思ったから、こうしてここにいる」
「本当ですか? 良かった……」
 彼女の表情が一転して、太陽のような笑顔に変わった。途端に設楽の心臓が跳ね上がる。動揺の浮き出た表情と頬の赤さを隠すように彼女から顔を逸らすと、設楽は足早に歩き始めた。直後慌てた様子で、彼女は自分を追いかけてくる。
「あの、設楽先輩?」
「日が暮れる。早く帰るぞ」
「あ、は、はい」
 些細なことで心乱されている自分を情けなく思いながら、設楽は夕日に照らされたアスファルトの上を歩き続けた。
 彼女と出会ってからこんなことが続いてばかりだ。今まで設楽が目を背けてきた人間の新たな感情を知り、新たな表情を知った。それを教えてくれた柏木ななみという人物は、既にその他大勢ではなく、自分の中で特別な位置を占めるようになってきている。不思議だ、と設楽は改めて思った。今までこんなことはなかったのに、彼女の表情や仕草や言葉はどうして自分の心に響くのか、不思議でならなかった。
 おとぎ話の中で心悩ませる男女たちを思い浮かべながらも、この気持ちを恋と呼ぶのはいささか短絡であるようにも思われた。こんなにも複雑に絡み合う気持ちたちを、一言で表現できるわけがないじゃないか、と――


 弾き終わって一息つくと、直後小さな拍手が起こった。設楽が座ったままそちらに視線を向けると、柏木が微笑みながら手を叩いていた。
「素敵な演奏でした」
「まあ、いつも通りだけどな」
「でも今日のは、音楽室で聞くのとはまた違っていて……素敵でした」
 そう言う彼女に向かって、設楽は皮肉っぽく笑う。
「お前にそんな、繊細な音の聞き分けができるとは思わないけどな」
「それは……確かに専門的な知識はないし、耳が特別良いわけでもないですけど……」
「けど、何だ?」
「なんとなく、感覚というか……昨日と今日で、ちょっと違うなあって思ったりすることがあるんです」
「へえ?」
 興味を持って先を促すと、彼女は言葉を選びながらぽつぽつと話し始めた。
「例えば、紺野先輩と言い争いしたって言ってた時は、ちょっと荒々しい演奏になったりとか」
「…………」
「逆に、試験の点数が上がったって言ってた時は、少しだけ明るい演奏になったりとか。あと――」
「もういい、それ以上言うな」
 気恥ずかしくなって、柏木の言葉を遮る。柏木は一瞬驚いたような表情をした後、再び微笑んだ。まるで何もかも見透かされているようで、その笑顔から逃れるように設楽は顔を逸らした。そんなに自分は分かりやすかったのかと、心の中で舌打ちをしながら。
 そうしてふと気付くと、彼女の視線が自分の手に向かっていた。妙な感覚に襲われながら、設楽は彼女に尋ねた。
「何だ? 手に何かついてるか」
「いえ。やっぱり設楽先輩の手、大きいなあって思って……」
「そうか? まあオクターブは届くが、別に普通だろ」
 自分の右手を動かしながら見ていると、突然柏木がその手に自分の手を重ねてきた。
「ほら。わたしのより、ずっと大きいです」
 設楽の心臓がまた高く跳ね上がる。彼女はこうして、自分の身体に触れることに全く抵抗がないのだ。それはこれまでの付き合いの中で十分に承知していたつもりだったが、やはり不意打ちされると冷静に対応できなかった。
 手の平と微かに触れる指から、柏木の体温が伝わる。設楽はわざと不機嫌そうな口調で言った。
「だいたい、俺とお前じゃ比べる基準がおかしいだろ。俺は男なんだから、女より大きくて当然だ」
「そう、なのかな……」
 柏木はしばし設楽の言葉を反芻するように微かに俯いた後、納得したようにうん、と頷いた。
「そうかも。男の人の手って、あんまりじろじろ見ないから……こんなに大きいんですね」
 その何気ない言葉に、設楽は心臓を鷲掴みされたような感覚に陥った。こんなことが、以前も一度あった。喫茶店で手を合わせて、手の大きさについて話した時。その時も小さい手だな、と思ったことに動揺したが、今回は更に動揺する羽目となった。
 ――こいつの手が小さいのは、こいつが女だから……
 柏木の手は小さくて、すべすべで、そして何より柔らかかった。自分のものとは明らかに違う感触に、設楽は自分と彼女が違う生き物であることを感じずにはいられなかった。男と女。普通に話している時はそれほど意識しないのに、こうして直接触れると、あまりの違いに気付いて動揺してしまう。
 男は女に、女は男に惹かれる――太古からの普遍の真理。それを恋と呼ぶのなら、自分の中に宿るこの気持ちの正体は、もしかしたら――
「設楽先輩?」
 動揺しすぎて固まっていた設楽に、柏木が怪訝そうな視線を向ける。設楽は我に返った後、苛立ったように柏木の手を握った。
「ああもう、なんでお前の手は小さいんだ」
「え?」
「なんでこんなに小さいんだ。小さくて、柔らかいんだ……」
 自分の手で握ってやれば、すっぽりと中に入ってしまうくらいの大きさ。思わず何度も触れたくなるくらいの滑らかな感触――
 設楽は手を離せなくなっている自分に気付いた。みるみるうちに顔が火照ってくるのを感じ、慌てて指を動かそうとしたが、自分の手は柏木の手を握ったまま、全く動こうとしなかった。
(2010.6.27)
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