愛してない、わけじゃない、かもしれない

 不意に彼女を抱き締めたくなる衝動に駆られるようになったのは、いつからだったろうか。時間が経つごとに彼女が特別な生き物に見えてきたのは、何がきっかけだっただろう――
 ふとそんなことを考えた後で、設楽ははっ、と嘲笑めいた笑みを浮かべる。ピアノを弾く指が止まって、視線はいつの間にか音楽室の天井へと向けられていた。夕日に照らされた壁が赤く染まっている。放課後誰もいないこの時間は、設楽が思う存分ピアノに触れられる至福の時間だった。
 設楽がその気になればいつでもピアノには触れることができたが、大勢の生徒が廊下などに出てうろうろしている昼休みなどはこっそりと覗きに来る輩もいるために、設楽の気は大いに散ってしまう。気にしないように努めているが、やはり気分の良いものではない。そういうわけで、誰にも邪魔されないこの時間は設楽が一人でピアノと向き合える貴重な時間なのだった。一人で向き合う分、同時に心の痛みも付きまとったが、それでもやはりピアノからは離れられない。鍵盤を鳴らすたび、音が音楽室に響き渡るたび、設楽はそのことをいやというほど思い知らされるのだった。
 けれども設楽はここ最近、一人で弾くことに何故か物足りなさを感じていた。胸に手を当てて数秒考え、数学の時間などには全く機能しないはずの思考回路がすぐに答えを導き出す。浮かんできたのは、一人の女子生徒。最初に出会った時は自分のピアノを弾く姿を覗きに来ただけの、ただの煩わしい後輩に過ぎなかったはずなのに、ここ最近彼女の顔が浮かんでばかりだ。ピアノを弾いていても、教室でよそ見しながら授業を受けている時も、迎えの車に乗って家に帰る時も、そう、いつも。
 彼女のことを意識すると途端に、胸が締め付けられるように苦しくなる。けれども一度考え始めると、思考を止めることなどできなかった。何度頭の中の黒板消しで消そうとしても、チョークの粉がぽろぽろと落ちるだけで決して消えない。意地になって必死に腕を動かしてみるけれど、消えるどころかますます強く浮かび上がってきて、設楽はついに腕の痛みに耐えきれず降参してしまう。
 お前、やるな。脳の黒板に浮かび上がった彼女に向かって悔しそうに唇を噛むと、彼女はえっ、と戸惑ったように瞳を揺らして首を傾げるのだ。そんな反応をされるとどうしようもなくなって、設楽ははあ、と溜息をついて膝を折るしかできなくなる。それは、完全なる敗北を意味していた。
 胸で疼くこの感情の正体を、設楽は知っている気がした。だが気付きたくもなかったし、認めたくもなかった。無縁だと思っていた。少なくとも自分にピアノがある限りは、そして自分にピアノしかない限りは、ずっと。
 設楽はピアノの椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。ここからははばたき学園のグラウンドが見渡せる。夕日に照らされた赤いグラウンドで、汗を流しながら練習に励む運動部員の姿がちらほらと見受けられた。急に彼らの姿が、何故か自分と重なった。
 ――俺は、あいつを……
「……愛してない」
 不意に浮かんだ言葉を即座に否定する。けれどもどこか居心地の悪さを感じて、自然と口から続きの言葉が飛び出す。
「わけじゃない……」
 自分の身体の芯が熱くなってきたのは、決して気のせいではないと思った。このままでは身体を焼き尽くされて死んでしまう。本能的な恐怖を覚えて、設楽はもう一度口を開く。
「……かもしれない」
 曖昧な言葉が、一番落ち着いた。設楽はふう、と身体の中にこもっていた息を吐き出すと、身体を翻してピアノの方に戻った。椅子に腰を落ち着け、足を伸ばしてペダルの上に載せる。
 鍵盤に僅かに指が触れた時、また彼女の顔が浮かんだ。ああもう、と忌々しげに息をついて、設楽は立ち上がると音楽室の扉を開けた。廊下の左右を見回し、誰もいないことを確認する。一歩音楽室の外に踏み出し、廊下の中央に立って、設楽は一瞬我を忘れた。
「――!」
 わあんと響いて鼓膜を震わす自分の声に、はっと我に返る。誰よりも自分の心が今、欲している彼女の名前。途端に設楽の身体中の血がざわめいた。残響が一瞬にして全て消えればいいのにと、これほど強く願ったことはなかった。誰も俺の声を聞くな――自分勝手な要求だと分かっていても、心の中で叫ばずにはおれなかった。
 再びピアノの前に戻ってきて、もう一度腰を落ち着けようとしたその時、設楽は心臓が止まる思いをした。確かにがら、と音楽室の扉が開く音がしたのだ。設楽が反射的に振り返ると、そこには一番いて欲しかった、けれどもいて欲しくなかった人物が立っていた。
 彼女は少しばかり怪訝そうな顔で、首を傾げて立っていた。
「な……」
 一気にまくし立てようとして言葉が出てこず、設楽はごほんと咳払いをする。
「何しに来たんだ、何の用だ」
 思った以上に険のある声が出て、しまったと思ったが後の祭り。彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。あの……」
「な、何だよ」
「さっき、呼ばれた気がしたから……設楽先輩に」
 心臓が爆発するのではないかと思った。聞かれていたのだ。一番聞かれたくない人物に。
「う……うるさい。呼んでない、お前のことなんか。誰が呼ぶか」
「ご、ごめんなさい。勘違い、ですよね」
 お邪魔して、すみませんでした。そう言って頭を下げ、出て行こうとする彼女の背を見た途端、設楽の口から勝手に言葉が飛び出していた。
「待て」
 彼女がおそるおそるといった様子で、ゆっくりと振り返る。
「お前、この間俺のピアノが好きって言ったな」
 えっ、という戸惑いの声と共に表れる怪訝な表情。数秒後、彼女は躊躇いがちに頷いた。
「はい。設楽先輩のピアノ、好きです」
「なら、俺が弾いている間……お前の存在を無視してやらないこともない」
 彼女がきょとんとした表情になる。それなりに親しくなった後も、許可なしにピアノを弾いている自分の姿を見るな、と釘を刺してきた。その規則を、今日だけは特別に解いてやると言っている。けれどもこのような遠回しな言い方は伝わらなかったらしく、彼女は怪訝な顔をしたままだった。
「ああもう、鈍い。お前が聴きたいなら好きなだけ聴いていけって言ってるんだ」
 不機嫌そうに髪を掻き上げながら言うと、彼女は一瞬目を大きく見開いた。その後でようやく意味を理解したらしく、はい、と頷いて微笑んだ。その微笑みに、設楽は目が釘付けになる。しばらくぼうっとして、頭では何も考えられなくなった。
「……設楽先輩?」
 彼女の呼びかけでようやく我に返る。設楽は首を振って顔にせり上がってきた熱を発散させた後、椅子に腰を下ろした。音楽室の扉の前で佇む彼女に向かって、もう一言放つ。
「おい、入る許可は与えてないぞ。窓越しに聴け」
「はい、分かりました」
 特に不快に思う様子も見せないまま、彼女は素直に頷いて音楽室の扉を閉めた。そうして廊下に佇む。すりガラス窓から浮かび上がるぼんやりとした彼女の輪郭を見ながら、設楽は普段よりも彼女の存在を強く感じた。同時に、設楽は黒板消しを捨てた。逃れられない運命を、受け入れることにしたのだ。
 鍵盤に触れた途端、たちまち滑らかに動き出し音を紡ぎ始める指を見つめながら、設楽は唇を動かした。
 僅かに空気を震わせた秘密の言葉は、鍵盤の音に覆われて消えてしまったけれども、その言葉はいつまでも設楽の心に残り続けた。
(2010.7.23)
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