解説の始まりを告げるチャイムが流れ、ゆっくりと場内が暗転していく。優しい女性の声のナレーションが始まると同時に、設楽は少し力を入れて背もたれを倒し、天井を見る格好となった。
高校最後の文化祭が終わった、次の日。前々からの彼女の誘いで、二人はプラネタリウムに来ていた。彼女とここに来るのは初めてではない。設楽にとっても彼女にとってもお気に入りの場所で、季節ごとに展示が変わるので、何度か一緒に訪れ楽しんでいた。
今日は秋から冬にかけて見ることのできる星座の解説があるとパンフレットに書いてあった。その通り、天井に目を向けていると、秋から冬の変わり目に見られるカシオペア座、おひつじ座、アンドロメダ座などが一際明るく輝き、同時にそれぞれの星座を解説する声が場内に響き渡った。
その解説を興味深く聞きながら、ふと隣に座っている彼女の方に視線を向けた設楽は思わず目を丸くした。彼女は背もたれに身体を預けたまま、なんと目を閉じて寝息を立てていたのである。
――こいつ……
普段なら眉を顰め、そのまま怒って帰ってしまうところだ。しかし今日は事情が違った。
思えば、いくつか予兆めいたことはあった、と設楽は思い返していた。例えば、彼女は昨日遅くまで残って文化祭の反省会と片付けをしていたとか、その前の日までは文化祭前で、日が暮れるまで吹奏楽部の練習をしていたとか、あるいは今日の朝待ち合わせ場所で彼女を見た時、いつもよりやや疲れたような表情をしていたとか――それらの事柄について、設楽は若干気に掛かってはいたものの、表だって彼女を心配するような素振りは見せなかった。彼女が自分の判断でここにいるのだから、きっと大丈夫だと信じ込んでいたのもあった。――今となっては、非常に甘い判断だと言わざるを得なかったけれども。
暗闇の中で窺える彼女の寝顔が、少しばかり辛そうなのが気に掛かった。息もいつもよりやや荒い気がする。まるで苦しみの海に溺れて喘いでいるようだと、設楽は思った。
それからはずっと彼女の様子が気になって、ほとんど解説に集中することが出来なかった。
解説の声が終わりを告げ、場内が次第に明るんでいく。それとほぼ同時くらいに、彼女は目をゆっくりと開けた。そうして隣に座っている設楽の方へと視線を向けた途端、彼女は驚いたようにはっと目を見開いた。
「あ! あの、設楽先輩、わたし……」
「よく眠っていたな、お前」
普段のやや素っ気ない声のトーンでそう言うと、彼女は明らかにうろたえだした。状況が徐々に飲み込めてきたらしい。
「わ、わたし……あの、すみません……」
申し訳なさそうに顔を伏せる彼女を見て、設楽はたまらない気持ちになった。あの睡眠が不可抗力であるということくらい、設楽にだって察しが付いたというのに。
「馬鹿だな」
「え……?」
思わず手を伸ばし、戸惑いを見せる彼女の額にぴたりとくっつけていた。彼女の体温が、手を通して直接伝わってくる。彼女はまたも驚いたように目を見開いたまま、その体勢で固まってしまった。
「熱……少しありそうだな」
「あ、あの、設楽先輩……?」
彼女の瞳が戸惑うように宙を彷徨い始め、顔がほんのりと赤らんだ。設楽は真剣な表情で彼女の瞳を見つめた。
「昨日の帰り、六時よりもっと遅かったんだろ? 文化祭の片付けがあって」
「あ……はい、でも、どうしてそのことを……」
吹奏楽部に所属しているわけでもない設楽が、何故彼女の帰宅時刻を知っているのか。はっきりとではないが遠回しに指摘されて、設楽は思わずはっとした。
昨日、彼女と一緒に帰ろうと思って、設楽はずっと校門前で車を待たせていたのだ。文化祭の片付けや反省会などで、彼女の帰りが遅くなるであろうことは設楽にも察しが付いていた。暗くなってから彼女が一人で夜道を歩くのは危ないと考え、そのまま車に乗せて送ってやるつもりだったのだ。
車中から音楽室の窓を見上げ、なかなか電気が消えないことに心配が募り始めた頃、突然携帯電話の着信音が鳴り響いた。相手は母だった。急遽父と出かける用事ができたから、早く家に帰ってきて欲しいと言う。それがちょうど、六時を回ったばかりの頃だった。
設楽は渋々、それに従うことにした。ここで自分の意志を押し通せば、きっと彼女は泣き落としにかかるに違いない。我が母ながら厄介な人だ、と溜息をつきつつ、設楽は後ろ髪引かれる思いで先に帰宅したのだった。
彼女をずっと待っていたということを知られるのは、何より気恥ずかしいという思いがあった。設楽はその思いを誤魔化すように、思わず彼女を睨み付けていた。
「そ、そんなことはどうでもいいだろ。それよりお前、最近無理しすぎてたんじゃないか。文化祭前の練習も、結構厳しかったんだろ」
「確かに、そうですけど……」
「今日も朝から辛かったんじゃないのか? お前、やけに疲れたような顔をしてたから」
彼女ははっとしたような表情になった後、弱々しく微笑んだ。
「気付いてたんですね、設楽先輩……」
「馬鹿。だったら辛いって、なんで言わないんだ。今日だって、無理して来る必要なんてなかったのに」
「だって……」
「だって、何だよ?」
問い詰めると、彼女は少しばかり目を伏せながら、呟くように言う。
「設楽先輩と一緒に行くの、ずっと前から楽しみにしてたから……」
今度は設楽の目が大きく見開かれる番だった。みるみるうちに顔に血液が集まり始める。弱っている時にまでこんな心臓に悪いことを言うなんて、どちらが病人か分からないじゃないか――
「な、何をいきなり……ああもう……」
苛立ったようにくしゃくしゃと自分の髪を掻き回した後、設楽は気恥ずかしさから目を逸らす。
「俺だって、そうに決まってるだろ……だからこそだ。お前が辛そうにしてたら、俺まで辛――じゃなくて、嫌な気分になるじゃないか」
「す、すみません……」
「謝るな。今日は車で家まで送ってやる。いいか、帰ったらゆっくり休むんだぞ」
釘を刺すように強い口調でそう言うと、彼女はほっ、と溜息をついて、安堵したように微笑んだ。
「先輩、優しいんですね」
思いがけない言葉に心臓が飛び跳ねた。動揺を隠すように再び彼女を睨み付けながら、設楽は早口で言った。
「や、優しくない! 別にお前のために言ってるんじゃない。そんな辛そうなお前と一緒に出かけても、俺はちっとも楽しくないから――」
「でも……わたしのことを心配してくれたり、車で送るって言ってくれたり……本当に優しくないなら、そんなことしないと思うんですけど……」
「ああもう、うるさい。病人は黙ってろ」
全ての言葉を振り払うように言い放った後、設楽は彼女の腕を掴んで自分の肩に回した。
彼女の体重が半分ほど、自分の背にのしかかる。自分はあまり身体の丈夫な方ではないし、今まで頼られたりするのは苦手だったが、その感覚だけは何故か心地よく感じられた。
ゆっくりと歩いてプラネタリウムを出ながら、彼女は荒い息の間からぽつりと言葉を洩らした。
「設楽先輩、やっぱり、優しい……」
「うるさい、何度も言わせるな。俺は優しくない」
「ふふっ……設楽先輩、顔、赤いです」
「っ……!」
指摘されて、自分の頬が随分熱くなっていることに気付く。設楽は忌々しげにああもう、と呟いて、隣の彼女を睨み付けた。
「お前のせいだぞ。お前の風邪が俺にまでうつったんだ、どうしてくれる」
「……じゃあ、設楽先輩がわたしの風邪、もらってくれたんですね。やっぱり優しいかも……」
「っ……なんでそうなるんだ、ああ、もう……」
これ以上言葉の応酬を続けていたらきりがない。設楽はもう何も言うまいと口を固く噤んで、車が来ている場所まで彼女を背負って歩き続けた。
お前が元気になるなら、風邪くらい俺にいくらでもうつせばいい――そんな本音を、固く閉じられた心の扉の奥にしまったまま。