お前にしか呼ばせない

「セージくん」
 そう言って呼び止められた時、心臓が止まるかと思った。
 慌てて振り返ると、そこには微かに頬を赤らめながら、上目遣いで見つめてくる彼女の姿があった。設楽がしばらく呆然としてその場に固まっていると、彼女の瞳に戸惑いの色が宿った。そわそわと落ち着かない様子で、口の前を手で覆う。
「あ、あの。すみません、嫌でしたか?」
 そこで設楽はやっと我に返った。小さく息を吐いた後、首を横に振る。
「……いや、別にそういうわけじゃない。それより……」
「え?」
「その、呼び方。お前が考えたのか」
 質問の意図が分からなかったのだろう、彼女は一瞬疑問符を浮かべた。ややあって、戸惑いがちに頷く。
「は、はい。ええと、考えたというか……その」
「その、何だ」
「昔、先輩と同じ名前の男の子がいて。その子のことを、そう呼んでたから……」
 そこでやっと、設楽の中で全てが繋がった。ああもう、と口の中で呟きながら、癖のある髪を掻き上げる。
 桜井兄弟にくっついてよく遊んでいた、一人の可愛い女の子。桜色のワンピースを着て、はばたき学園の敷地内を桜井兄弟と走り回っていた。設楽は遠くから眺めるだけで彼らの遊び――かくれんぼには参加しなかったが、何度かその女の子と言葉を交わしたことはある。
『セージくん』
 設楽の名前を覚えてからは、透き通るような無邪気な声で設楽のことをそう呼んだ。自分より少し幼いくらいの女の子にそんなふうに呼ばれるのは初めてで、設楽はいつも気まずくて目を逸らしていた記憶がある。
『セージくん、だって。良かったな、セイちゃん』
『う、うるさい』
『うん。かわいい。セージくん、かぁ』
 いつも自分をからかってばかりいた桜井兄弟が、にやにやと笑いながらそんなことを言うので、設楽はますます気まずくなって全身真っ赤になり、彼らから顔を背けてしまうのだった。女の子だけは変わらずにこにこと笑いながら、桜井兄弟と自分とのやりとりを見ていた。
 設楽は顔を背けた後、こっそりと視線を戻して彼女を盗み見た。にこにこと無邪気に笑う彼女の笑顔は、一瞬で設楽の心を捉えた。こんなにも純粋で明るい笑顔に出会ったのは、それが初めてだった。
 ぼうっと彼女の顔を見ていると、琥一が肘でぐいと突き、琉夏がそれを見て心底おかしそうに笑ったので、またも真っ赤になって顔を背ける羽目になった。気恥ずかしさと悔しさで唇を噛みながら、瞼に焼き付いた彼女の笑顔を思い出して、胸にほのかに優しい気持ちが宿ったのを覚えている。
 だがいつの間にか、その女の子は桜井兄弟と遊ばなくなった。理由を尋ねてみると、琥一は不機嫌そうにぷいと顔を背け、代わりに琉夏が、悲しそうな笑みを浮かべながら答えた。
「引っ越しちゃったんだ」
「引っ越し?」
 設楽が驚いたように目を見開くと、琉夏はうんと頷き、琥一は不愉快だとでも言いたげにふんと鼻を鳴らした。
 まだ、名前も聞いていなかったのに――設楽は心に残っていたその子の笑顔を思い浮かべ、僅かに寂しさを覚えた。あの太陽のような笑顔には、無条件で設楽に幸福と安堵をもたらす不思議な力があった。いつまでも見ていたいと思える魅力があった。それらはもう、二度と見られない。言い知れぬ喪失感を覚えて、設楽の胸は疼いた。
 けれども今、こうしてあの時の名前で呼ばれて、やっと分かった。目の前の彼女が、あの時の可憐な少女であったことに。確かによく見てみれば、当時の面影が残っているような気がする。
 今でも彼女の笑顔は、設楽のどんな疲れも不機嫌も吹き飛ばしてしまうくらいの大きな力を持っていた。少し前まで、自分をこんな思いにさせてくれたのは久しぶりだ、などとぼんやり考えていたが、まさか相手があの女の子だとは気づきもしなかった。先程の口ぶりからみるに、彼女もおそらくそのことに気付いていないのだろう。
 設楽はにやりと笑みを浮かべながら、戸惑いがちに目を伏せている彼女に尋ねた。
「なあ、知ってるか? 俺のことを過去そう呼んだことがあるのは、たった一人だけなんだ」
「えっ?」
 唐突に言われてきょとんとする彼女に小気味よさを覚えながら、設楽は続ける。
「その子はいつも桜色のワンピースを着て、この学園の敷地内でかくれんぼしてたよ。俺はいつも見ているだけだったけどな」
 腕を組みながら遠くを見るような目つきになると、彼女は何かを思い出したようにはっと目を見開いた。
「それって、もしかして……」
「結局名前は聞かずじまいだったからな、俺はその子が誰なのか知らない。けど」
 視線を彼女の方に戻して、少しばかり意地悪そうな笑みを浮かべる。
「あの子と同じように呼ぶんだからな、せいぜい俺の大切な思い出を穢さないようにしてくれよ」
「先輩……」
 ぽろりと今までの呼び方が出てきた彼女を見ながら、設楽は苦笑を洩らす。
「ほら、あの呼び方で呼んでくれるんだろ?」
「あっ、あの、ええと……はい」
 彼女は何かを考えるようにしばらく俯いた後、顔を上げて頷いた。
「セージ、くん」
 あの時と変わらない、透き通るような高い声。
 たったそれだけなのに、設楽の胸は何かに貫かれて溜息が漏れる。自然と頬が緩んでくるのを自覚したが、敢えて表情を引き締め直すことはしなかった。まだ慣れない様子で上目遣いをする彼女に、笑いながら言葉を投げて寄越す。
「ほら、帰るんだろ。さっさと行くぞ」
「はい。……セージくん」
 今度は滑らかに、喉から紡ぎ出される。設楽は得体の知れない高揚感を覚えながら、彼女を振り返って小さく笑った。
「もう呼び慣れたのか。早いな」
「だって、わたしにとっても大切な呼び名だから……わたしが呼ぶとその子はいつも顔を逸らすから、ずっと嫌がってるんだと思ってました。けど、違ったんですね……たぶん」
 付け加えるように発せられた『たぶん』に、薄皮一枚で隔たれたような微妙なもどかしさを覚える。けれども今の設楽は、その微妙な距離さえも楽しめるほどの余裕があった。
「ふーん。まあ照れくさかったのかもな。名前で呼ばれるの、慣れてないとか」
「そうなのかもしれませんね。あの時、ちゃんとわたしの名前も言っておけば良かったな……」
 俯きがちに発せられた言葉に、設楽は反応する。
「そいつに、呼んで欲しかったのか?」
「その時は何とも思わなかったけど、今になると……ちょっとだけ」
「ふーん……」
 設楽は顔を伏せたまま隣を歩く彼女をじっと見つめた。
「――」
 ぽろり、と零すように何気なく彼女の名を呼ぶと、その瞳が僅かに揺らいだ。直後、彼女は顔を上げて設楽を見つめた。
 あの時は直視できなかった彼女の顔。今でもまだ見つめ合うのは気恥ずかしくて慣れないが、それでも二人の距離はぐっと縮まった気がする。少し手を伸ばせば触れられる距離。けれども触れた瞬間何かが崩壊する気がして、設楽はまだ手を伸ばせずにいた。
「俺も同じ“セージ”だからな、俺が代わりに呼んでやる。ありがたく思えよ」
「あ……はい」
 最初は戸惑い、しかし徐々に嬉しさに染まっていく彼女の表情。
 不快なあだ名でさえなければ、呼び方などどうでもいいと思っていた。だが、その認識は誤っていたということに今更ながら気付く。呼び方一つで、こうも心情が変化するとは――
 設楽は未だ、高揚したままの心を抑えられずにいた。
(2010.7.31)
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