自由すぎる脳内キャンバス

 七月ともなると、あんなに心地よかった春の陽気がだんだんと鬱陶しい夏の熱気に変わってくる。暑くとも寒くとも、とにかく過ごしにくい温度が大嫌いな設楽は、また鬱陶しい季節が来たと忌々しげに溜息をついた。
 校舎裏の木陰で、設楽は首筋に浮かんだ汗の粒を乱暴に拭った。忌々しいことに、この夏は過ごしやすい場所がどこにも存在しない。外が暑いのは当然として、教室や店の中はどこもクーラーが効き過ぎている。暑さを和らげるための機械のはずが、逆に寒くしてどうするのだ――設楽は常日頃疑問と不快感を抱えていた。
 一限の授業だけ受けて、設楽は耐えきれず教室を出た。チャイムが鳴っても教室には戻らない。誰もいない中庭を歩き、校舎裏に辿り着くと、自分だけの特等席にしている木陰まで行った。ゆっくりと身体を預けて、ようやく安堵の息をつく。木陰は熱気もある程度遮られるし、風が吹くとちょうど快適な涼しさになる。設楽にとって、最も過ごしやすい場所であることは間違いなかった。
 授業をサボることは何度かあった。成績が芳しくないにもかかわらず補習も真面目に受けないので、いつも大迫に追いかけられていたが、なんとかうまくかわしていた。今は政経の授業が行われているはずだが、設楽のサボり癖はある程度知れ渡っているのできっと教師も何も思うまい。――これが大迫や氷室ほど教育熱心な教師なら、どこまでも設楽を追ってくるのだろうが。
 す、と腰を下ろして、設楽はうんと伸びをする。解放感に浸りながら、設楽は密かに持ち出してきた音楽理論の文庫本を取り出した。栞を挟んだ箇所を開いて、文章に目を通し始める。
 だがその時、ざっ、という靴の音が響き、設楽は驚いて顔を上げた。校舎の向こうから、確かに誰かが迫ってくる。しかし特に急いでいる様子もないらしいから、教師ではないことは想像がついた。だとすれば、他にサボっている生徒か――設楽の頭の中に真っ先に桜井兄弟が浮かんで、思わず身震いした。あの兄弟にはあまり会いたくない。幼い頃の思い出が勝手に設楽の頭に蘇ってきて、設楽の胃をきりきりと苦しめる。
 考えを巡らせているうちに、その足音がすぐ近くまで迫ってきた。設楽は思わずごくりと唾を呑む。
 だが、その足音の主は、想像もしない相手のものだった。
「設楽先輩、やっぱりここにいたんですね」
 設楽は思わず本を持ったまま立ち上がっていた。大きなスケッチブックを持って、屈託のない笑顔を見せるその相手に、設楽はどういう反応を返せばいいのか、咄嗟に判断がつかなかった。
「お、お前、なんでここに……」
「設楽先輩こそ。今日もサボりですか? この間、大迫先生が『あいつはけしからん!』って怒ってましたよ」
 無邪気ににこにこと笑う彼女に、設楽は溜息をついた。
 一年後輩の女子。最初はただの知り合いであったはずが、既に設楽の中で大きな存在となった彼女。学年が違うので校内で顔を合わせる機会はあまりないが、だからこそこうして珍しく会うと、設楽の心は妙な高揚感に襲われる。――最も、このような会い方は完全に設楽の想定外なので、それもあってか、普段より余計に心臓の鼓動が速まっていた。
 動揺してしまっている自分に気付いて腹立たしく思いながら、設楽はわざと不機嫌そうな顔をした。
「今日もって何だ。俺がいつもサボっているって言いたいのか?」
「えっ、そうじゃないんですか? よく授業中、ここで本読んでる設楽先輩を見るんですけど」
 見られていたのか――設楽の心臓が跳ね上がる。顔が熱くなってきたのは、決してこの熱気のせいではないと思った。だからこそ余計に忌々しく感じて、設楽は顔をしかめた。
「なんで見るんだ勝手に見るな。俺はそんなことを許可した覚えはないぞ」
「だって、見えるんですもん。あ、隣、座ってもいいですか?」
「えっ? ――おい、お前……!」
 設楽が何も言わないうちに、彼女は遠慮なくといった様子で設楽の隣に腰を下ろした。身体を木の幹に預けて、先程の設楽と同じようにうんと伸びをする。
 彼女はいつもそうだ。こうやって設楽の聖域に自然に入り込んできて、驚いている設楽に向かってにこにこと無邪気に笑ってみせる。その笑顔を見ているともう何も言えなくなって、彼女がその場所にいることを黙認せざるを得なくなる。設楽が睨み付けても意に介さないかのようににこにこと笑ったままなので、設楽は溜息をついて額に手を当てた。
「何なんだ、お前は……」
「嫌なら、言ってくれれば向こうに行きます」
「……本当にお前は……嫌だなんて、誰も言ってないだろ」
 目を逸らしながら呟くように言うと、直後よかったあ、という暢気な彼女の声が聞こえて、設楽は先程の言葉を少しばかり後悔した。
 彼女の方に視線を戻して、相変わらず睨み付けるようにしながら尋ねる。
「それより、お前はどうなんだ。お前もこの時間ここにいるってことは、どう考えてもサボりじゃないのか」
「サボりじゃないです。自習ですよ」
「はあ? 自習?」
 疑いの眼を向けると、彼女はゆっくりと持ってきたスケッチブックの白紙の部分を開いて、ポケットから使いこなれた鉛筆を取り出した。教会がある側の垣根の部分に身体を向け、す、と鉛筆を走らせる。たちまち白かったスケッチブックの上に、一本の長い線が描かれた。それを基準にして、彼女は慣れた手つきで鉛筆をあちこちに走らせていく。
「そうです。写生の自習。わたしだけですけど」
「じゃあサボりじゃないか。なんで自分を正当化しようとしているんだ」
 突っ込んだ後、設楽はあまりに呆れて溜息をつく。こういう発想のできるところが彼女の面白いところだとは思うが、しかしあまりにあっけらかんとしているので、設楽は呆れるか、首を傾げるかしたくなってしまう。
 設楽の突っ込みも意に介した様子はなく、彼女は自由気ままに鉛筆を動かしていく。その様子を見ながら、設楽は知り合いの芸術家を思い出していた。彼も彼女と同じく周囲の目を全く気にしない、自由奔放な人物だった。芸術家というのは皆こうなのかもしれないと思うと、少しばかり頭痛がしたが、設楽は敢えて無視することにした。日頃の行いには顔をしかめたくなるが、しかし彼女の描く絵は、憎たらしいほどに美しい。とっくに見慣れたはずの垣根が、まるで幻想世界の風景の一部であるかのように見えてくるのだから、何とも不思議だとしか言いようがない。
「お前のその鉛筆、まるで魔法の筆みたいだな」
「そうですか? ふふ、先輩にそう言ってもらえると、嬉しいな」
 なんて、唇に心底嬉しそうな笑みを浮かべるのだから、たまったものではない。
「おい、勘違いするな。別にお前を褒めたわけじゃない。その鉛筆を褒めたんだからな」
 自分でも支離滅裂だと思いながら、言い訳のように口にする。彼女はふふ、と笑ったきり何も言わず、鉛筆を動かし続けた。設楽はどこか悔しい気分になって、自分の持ってきた本に目を落とそうとするが、しかし気付けば視線は彼女の小さなキャンバスに向かっていた。
 いつまでも見続けていたい。けれども、彼女にその思いを悟られるのは絶対に嫌だ。相反する思いは、設楽の心をじわじわと苦しめた。桜井兄弟がここにいることを想像するよりも、設楽の胃はきりきりと痛んだ。この妙なプライドを邪魔だと思う一方、プライドを捨てたら自分自身が崩壊してしまうような気さえする。
 とうとう我慢しきれなくなって、設楽はああもう、と忌々しげに髪を掻き回しながら言った。
「やっぱりお前、どっか行け。お前のせいで本に集中できない」
「ええっ。あともう少しなんです、それまで待って」
「駄目だ。俺が駄目だと言ったら駄目なんだ、さっさと俺の領域から出ていけ」
 なおも鉛筆を動かそうとする彼女に向かって、設楽はしっしっ、と手を振る。けれども彼女は一向に止める気配がない。設楽は無視されたのに苛ついて、強引に彼女の手から魔法の筆を奪い取ろうとした。
「おい、聞いてるのか!」
「きゃっ!」
 彼女の身体がぐらり、とよろめく。それと同時に、彼女の手に掴みかかった設楽の身体のバランスも崩れた。スケッチブックが彼女の手から離れて、羽を広げた白鳥のように飛んで行く。同時に彼女も地面に倒れ込み、設楽はそんな彼女に覆い被さるような格好になった。
 この体勢のまずさに気付いたのは十秒後のこと。設楽は一瞬で顔を真っ赤に染め、すぐさま立ち上がろうとした。すると驚いたことに、彼女がぐいと設楽の腕を掴んだ。意外にも強いその握力に、設楽は顔をしかめる。
「っ、痛い、何するんだ!」
「待ってください。そのまま動かないで」
「はあ? お前、言ってる意味分かって――」
「今の設楽先輩、すごく素敵なんです。だからそのままでいてください」
「は!?」
 設楽の心臓がこれでもかというくらい高く跳ね上がる。対する彼女は、真剣な表情でじっとこちらを見つめてきた。彼女の瞳に、真っ赤な自分が映っている。羞恥心に耐えかねて、設楽は彼女に握られたままの腕を振り払おうとした。けれども腕が痺れたように動かない。どうにも抵抗できない自分が情けなく、悔しくなった。
「おい。俺を見る許可なんてしてないって言ったろ、さっさと手をどけろ」
「じゃあ今ください。許可」
「絶対嫌だ。早く手を離せ」
 せめてもの抵抗にと、彼女を睨み付けてやる。けれども彼女の瞳に映った、真っ赤になったまま睨み付けている自分の顔はあまりに滑稽で、設楽はなんとも言えぬ複雑な思いに襲われた。
「はい、いいですよ、先輩」
 言葉の応酬をしているうちに彼女の手が離れ、設楽は唇を噛んだまま立ち上がる。手についた土を払いながら、ゆっくりと身体を起こした彼女を再び睨み付けた。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべながら、飛んで行ったスケッチブックを拾い上げると、設楽の方に向き直った。
「逆光の中の先輩、とっても素敵でした。おかげでばっちり、わたしの頭の中に焼き付けられましたよ」
「なっ……お前、勝手に何してるんだ。そんなもの、早く消せ!」
「もう無理です。わたしの頭の中のキャンバスに描いたものは、永久に残りますから」
 設楽は悔しい思いでいっぱいになりながら、彼女には決して勝てないことを知る。ふん、と鼻を鳴らして、設楽は言葉を発した。
「なら、お前の頭の中を覗かせろ。どんな俺がそのキャンバスに描かれているのか、見てやる」
「いいですよ。じゃあ、次の時間もサボりですね」
 あっけらかんと言う彼女。設楽はなんだか逆におかしくなってきて、思わず笑いが込み上げた。彼女の頭の中を覗けるのなら、サボリも悪くない――そんなことを考え始めながら。
 彼女は再び木の根に腰を下ろし、真っ白なページを開いた。設楽もゆっくりと腰を下ろして、そのキャンバスを覗き込んだ。やがて魔法の筆が自在に動き、設楽の輪郭を、髪型を、瞳を、鼻を、唇を形取っていく。彼女の額に口付けられそうな距離で、設楽はその様子をいつまでも眺めていた。
(2010.8.3)
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