心に潜む魔物

「その焼き菓子のアソート、大きい方。簡易包装でいい、紙袋だけ付けてくれ。それを三十」
 そう言い放った直後、彼女の顔色がみるみるうちに変わっていくのが分かった。天使のような営業スマイルから一転、絶望の底に突き落とされたかのような驚愕の表情。隣で他の客の注文を受けていた、いつも無表情な彼女の友人――宇賀神の表情までもがぴくりと動いた。
 だが設楽は注文を取り下げる気などなかった。その後の処理に関して思考を巡らせつつ、視線だけはしっかりと彼女を捉えていた。さあ、どう出るか――といってもここは店であり、彼女は従業員、設楽は客だ。その立場の差は歴然としていた。
「し、少々……いえ、しばらくお待ちくださいませ!」
 彼女が焦りの表情を浮かべながら、一段と高い声でそう告げる。言うが早いか彼女は店の奥へと引っ込んだ。おそらく店長たちに話をしに行ったのだろう。ここに無茶な注文をする客がいるぞ、と――だが設楽は相変わらず平然とした表情で、店内の様子を眺めていた。


 彼女がはばたき市で有名な洋菓子店でアルバイトしていると知ったのは、つい最近のこと。
 更には学内で飛び交う噂の中に、設楽がどうしても許せないものも混じっていた。あそこの店員は可愛い子が多い、制服も可愛いし最高だ――男子生徒の噂が耳に入る度、設楽はどうしようもなく苛々とした気分にさせられる羽目となった。彼女を汚らわしい目で見るなとどれほど怒鳴ってやりたかったか知れない。
 学校帰り、設楽が運転手にアナスタシアへ行けと命じた時、ルームミラー越しに大きく目を見開く運転手が見えた。
「坊ちゃま、あそこは甘い物ばかり売っている洋菓子店ですが……何かお買い物でも?」
「なんだ。俺が甘い物を買いに行くのはまずいのか」
「いえ、そういうわけでは。それでは参ります」
 運転手はあっさりと引き下がり、エンジンを始動させつつハンドルを切った。設楽は躾の行き届いた礼儀正しい運転手に内心感謝しつつ、まるで不本意だと言わんばかりの顔で窓の外を見上げた。夕焼け空が見事な朱色に染まっている。同時に彼女のことを考え始めると、そわそわと落ち着かない気分になり、ああもう、と忌々しげに溜息をつくはめになった。
「坊ちゃま、着きましたよ」
 いつの間にか車は停止していて、設楽ははっと我に返った。ありがとう、と短く運転手に礼を言った後、ドアを開けて外の世界に出る。
 人通りの多いお洒落なショッピングモールの一角に、その店はあった。外装からしていかにも女性が好みそうな白と桃色の飾り付けがなされ、可愛らしい形の文字で『洋菓子店アナスタシア』と書かれている。
 外からこっそりと中の様子を覗いて、設楽は仰天した。女性客やカップルで賑わう店内に入る勇気が、すぐには持てなかった。俯いて唇を噛む。何故こんなところでバイトなんかしているんだ、物好きな奴、と心の中で彼女を罵ってみる。けれどもそれだけで心が楽になることなど当然なく、設楽は天を仰いで溜息をついた。
 女性とカップルだらけの、可愛らしい雰囲気の店に一人で入るのは非常に勇気が要る。明らかに自分のような人間は場違いだ。しかしながら、ここまで来て何もせず引き下がるわけにはいかない。学校の男子どもの噂を確かめるためにも、そして何より彼女の姿を確認するためにも、自分はこの重苦しい扉を開いて未知の迷宮へと足を踏み入れねばならないのだ。
 覚悟を決めて設楽が小さく一歩足を踏み出した途端、自動ドアはあっさりと開いて歓迎してくれた。そのあまりの反応速度に、設楽は思わず後ずさる。だがそうしていてはいつまでも入れないままだ。ええいもうどうにでもなれ、と思いながら、設楽は店内に足を踏み入れた。
 店内は非常に賑わっていた。色とりどりのケーキの入ったショーケース越しに、店員が慌ただしく対応に追われている。設楽は少しばかり視線を走らせ、すぐに笑顔で応対している彼女の姿を発見した。その隣には、彼女の友人である宇賀神の姿もある。
「ありがとうございました!」
 そう言って満面の笑みで客を送り出す彼女の姿に、設楽は一瞬で心を奪われた。白いフリルのエプロンと相まって、まるで彼女が天使のように見える。心臓の鼓動が速まるのを感じながら、設楽は慌てて首を振った。こんなことで動揺しているようでは、ますます彼女の前に立ちにくくなってしまう。
 さて、これからどうするか。設楽は入り口近くに立ち止まったまま考えた。時折会計を済ませた客がやや迷惑そうに設楽の横を通り過ぎていったが、設楽はじっと立ち止まって考え続けた。ただケーキを数個買って帰るだけではつまらない。せっかく来たのだから、何かインパクトのあることを。そして更に、この空間に留まり続けることができる口実になるようなことを――そこまで考えて、設楽はショーケースの方へと足を踏み出していた。その表情には、既に一転の迷いも見られなかった。
「いらっしゃいませ! あ……」
 満面の笑みを浮かべていたはずの彼女の表情が固まった。設楽は何気ないふうを装いながら、注文内容を告げる。
「その焼き菓子のアソート、大きい方。簡易包装でいい、紙袋だけ付けてくれ。それを三十」
 その途端、彼女の顔色がみるみるうちに変わっていったのを、設楽は見逃さなかった。


 彼女はショーケースの前まで戻ってくると、箱詰めされた焼き菓子のアソートをアナスタシアのロゴが入った紙袋に慌ただしく入れ始めた。作業は設楽に背を向けたまま行っていたが、時折彼女の横顔を窺うことができた。
 彼女は相当焦っているように見えた。当然だろう、顔見知りとはいえ設楽は客だ。客をなるべく待たせることのないよう、一人で三十もの菓子箱を袋に詰める作業。かなり骨の折れる作業であろうことは設楽にも容易に想像がついた。
 少し可哀想なことをしたか、とちらと思った後、設楽はゆっくりと首を振る。こうでもしなければ、自分がここに来た意味がない。インパクトがあって、かつここにいる口実となるようなこと。自分の注文は、その条件を全て満たしていた。
 フリルの付いた可愛らしいエプロンを着、いそいそと作業をする彼女の姿は、普段学校や休日デートで会う時とはまた違った雰囲気に見えた。学校でくだらない噂をしていた男子どものことは大嫌いだったが、少しばかり彼らの言葉に同意したくなって、設楽は自己嫌悪に陥った。制服は少し派手と言えなくもないが、確かに可愛らしい。そしてそれを身に纏っている彼女は、もっと可愛い――そんなことを考えながら、設楽は思わず赤面していた。ごくり、と唾を呑み込む。それでも呑み込みきれなかった愛おしさが喉元に込み上げ、熱に浮かされて、どうにかなってしまいそうになった。設楽は慌てて頭を掻き上げたが、あまりに強い力で頭に指をめり込ませてしまったので、額がじんじんと痛んだ。全く忌々しい、と舌打ちしたくなったが、おかげで我に返ることが出来たので、少しばかり感謝した。このままでは、人目も気にせず彼女へと手を伸ばしていたかも知れない――そう考えると、思わず身震いした。
 焦りからか、やや紅潮している彼女の横顔。慌ただしく菓子箱を袋に詰める、彼女の細くて綺麗な指先。彼女が動く度に揺れる、制服の白いフリル。それら全てが、設楽の目を釘付けにしていた。ショーケースの内側には同じような格好をした女性店員が何人かいたが、設楽の視線は迷わず彼女へと一直線に向かっていた。他の女になど興味はない。店員は皆可愛いと言うけれど、自分が同意できるのはそのうち一人だけだ。心の中で密かに男子どもに言い返した後、自分のしていることがあまりに滑稽すぎて思わず羞恥が込み上げた。
 彼女は常に笑顔のまま仕事をしているようだが、あんな思わずどきりとするような笑みを誰にでも振りまいているのだろうか。その笑みの向かう先が、自分以外の男だったら。そんなことを想像するだけで、設楽の全身の血がざわめいた。何かお前が減りそうだからやめておけ――思わずそう言いたくなって、ぐっとこらえる。
 あの笑顔の向く先が自分だけであればいいのに、ああもう――突如強烈なまでに燃え上がり始めた独占欲に、設楽自身が驚くほどだった。だが少なくとも、今彼女の手は自分のために動いていると考えたら、幾分か自分の心が慰められた。
 そうしているうちに、ようやく彼女の身体がこちらを向いた。手にいっぱいの紙袋を持って、設楽の方へと差し出す。
「はあ、はあ……お待たせしました!」
 これは運転手を呼んでくる必要があったな、と自分の計画性のなさに若干呆れつつ、設楽は両腕一杯の紙袋を受け取った。ほのかに漂う焼き菓子の良い香りが、設楽の心を満たした。
 設楽はそのうちの一つの紙袋を掴むと、ありがとうございました、と頭を下げている彼女の方にずいと差し出した。
「これ」
「えっ……」
 彼女が驚いたように顔を上げる。設楽は緩む頬を抑えきれなくなりながら、もう一度強くぐいと差し出した。
「お前に一つやる。じゃあな」
「えっ、あ、ありがとうございま……ええっ!」
 受け取って流れで礼を言った後、我に返ったように彼女の驚く声が響く。
 その声を耳の中で何度も反芻しながら、設楽は満足げに店を出て行った。一人で大量の紙袋を抱えている様はかなり目立ったが、周囲の視線など気にならなかった。
 すたすたと歩いて車まで戻ると、突然大量の荷物を抱えて帰ってきた設楽を運転手が驚いた顔で出迎えてくれた。
「坊ちゃま、こんなに沢山……どうされたのですか?」
「……なんでもない」
「そうですか。半分、お持ちします」
 運転手は例によって深入りせず、設楽の腕から紙袋を受け取って車に載せた。設楽も大量の紙袋と共に車内に乗り込む。扉を閉めて運転手がエンジンを始動させたところで、彼がルームミラーから設楽の様子を覗き込むように見つめてきたので、設楽は思わず我に返って彼の方を見た。
「何だ? じろじろ見て」
「いえ。坊ちゃまがいつもよりとても嬉しそうにされているものですから」
 設楽は思わず頬に触れ、強張っていたはずのその部分がかなり緩んでいたことに気付く。慌てて引き締め直し、不機嫌そうに窓の外を見た。
「別に嬉しくない。余計なこと言うな」
「失礼いたしました。ではお家に戻りましょう」
 淡々とした運転手の言葉に少しばかり救われた気分になりながら、自分の周囲を埋め尽くしている紙袋に改めて目を向ける。彼女に一つ渡してしまったから、手元にあるのは二十九個。それらを見ながら、設楽は先程の彼女の作業の様子を思い出していた。その途端、喉元まで何かが込み上げてきて、慌ててそれらを吐き出すように大きな溜息をつく。心臓の動悸が速まっていくのを感じ、設楽は知らず知らずのうちに胸を掴んでいた。この急に暴れ出した魔物は、どのように押さえつけてやればいいのだ――全く見当が付かず、設楽は途方に暮れるばかりだった。
 次彼女と会った時どんな顔をすれば良いのだろうと考えながら、設楽は窓の外で流れていく景色をいつまでも眺めていた。
(2010.8.8)
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