Passing Rain

「じゃあ、明日……空港に見送りに行きますから」
「ああ。待ってる」
 短い言葉を交わした後、彼女は身体を翻して設楽に背を向け、はばたき駅方面へ向かった。
 設楽の留学前日。臨海公園で待ち合わせをした二人は、煉瓦道を散歩しながら様々な話をした。各々の近況、大学の授業のこと、サークルのこと――けれども設楽の留学へと話題が移ると、途端に彼女の心は音を立ててしぼみ始めた。明らかに表情が曇ってしまった彼女を横目で見ながら、設楽は笑みを浮かべて見せた。
「そんな顔するなって、いつも言ってるだろ」
「だって……」
「今更どうしようもないんだ。またすぐ夏休みにこっちに帰ってくるから」
 覚悟を決めた顔で、設楽が遠くを見ながら言う。その横顔を見上げながら、彼女も素直に頷いた。
「……はい」
 高台に登り、手すりにもたれかかって海を眺める。空は既に夕焼け色に染まり始め、オレンジ色の海がきらきらと白い光を放っていた。いつもは綺麗、と感嘆の溜息を洩らしたくなるほど美しい眺めに見えるのに、今日ばかりは全てが終焉に向かい始めるかのような絶望の景色にしか映らなかった。
「じゃ、そろそろ帰るか」
 彼女はこくりと頷いて、設楽の手を取った。
 そうして短い別れの言葉を交わした後、設楽に背を向けはばたき駅に向かい始めた途端、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。必死に拭えども拭えども止まらない。
 設楽がいなくなる。自分の傍から。それが永遠の別れでないと知っていても、頭に、手に、唇に、そして全身に染み込んだ設楽の感触は、決して消えない。設楽に触れられなければいつまでも、残った感触がじわじわと己を苦しめる。心は蝕まれてぼろぼろになる。設楽聖司という人間は、それほどまでに彼女の中で大きな存在となっていた。ましてや二人はこの三月、卒業式の日に付き合い始めたばかり。恋人同士としてもっと触れ合っていたいのに、そうすることすら叶わない。
 すぐに戻ってくると言うけれど、その“すぐ”が二、三ヶ月後であるという事実が彼女の心に突き刺さる。突き刺さった大きな杭は、抜けることなくじわじわと彼女の心を痛めつけた。


 その時、皮膚に当たる水の感触に彼女は顔を上げた。直後、鼻の頭にもぽつり、と一滴。
「……雨?」
 気付けば、いつの間にか曇っていた空から大粒の雨がざあざあと降り出していた。涙と区別が付かないくらいに、多くの雨粒が彼女の頬を伝っていく。公園内にまばらにいた人々が、慌てたように皆建物の方へと走っていくのが見えた。
 傘持ってないのに、と彼女は自分の不運を嘆きながら、早足で駅に向かおうとした。
「待て!」
 鼓膜を激しく震わせる雨の中、聞き慣れた声が雨の帳を引き裂くようにして響いた。彼女が驚いて振り返ると、そこには思った通りの人物が立っていた。彼女と同じく傘を持たぬまま、着ていた白いシャツは色が変わるほどに濡れてしまっている。
「聖司さん……」
 設楽はずかずかとこちらに歩いてきたかと思うと、突然彼女の身体を抱き締めた。ぎゅう、といつもより強い力で抱き締められて、彼女は驚いたまま身動きが取れなくなる。
「聖司、さん?」
 再び名を呼ぶと、設楽は彼女の背に回した手に力を込めた。
「寒い」
「えっ……」
 突然何を言い出すのかと思った。だが疑問符を浮かべる間もないまま、設楽の腕の力が一層強くなり、息苦しさに一瞬思考回路が止まる。
「寒い。早く俺を暖めろ。俺の身体を暖められるのはお前だけだ」
 設楽の腕の中で喘ぎながら、彼女は切なさに胸を抉られた。設楽の言いたいことが、おぼろげに理解できたような気がした。こうしている間にも雨は降り続け、二人の身体から体温を奪っていく。密着している部分でさえも――だが、そこに僅かに残った温もりに縋るように、設楽は強い力で彼女の背を掴んだ。
「お前のいない生活なんて……寒すぎて死んでしまうじゃないか」
 彼女の頬に、熱いものが伝った。それが雨であったのかそれとも違う液体であったのか、彼女には判断がつかなかった。
 留学のことを口にして、自分が表情を曇らせる度、設楽は笑って『そんな顔をするな』と言い続けてきた。これは自分自身が決めたことだから、俺の中ではとっくに覚悟ができている。寂しいならお前も来ればいい、いつでも来いよ、歓迎してやるから。夏休みには帰るつもりだし、何もそんな顔する必要なんてない――そう言って、暗くなりがちな彼女の心を慰めてくれた。それと同時に、設楽自身は留学について何も懸念していないし、寂しさも感じていないのだと、彼女はずっと思ってきた。だがそれがただの思い込みであったことが、この時初めてはっきりと分かった。こんなに強く抱き締められて初めて分かるなんて、わたしは馬鹿じゃないか――自分への情けなさが込み上げ、微かに嗚咽を漏らした。
「聖司、さん」
 嗚咽をかいくぐりながら、必死に言葉を振り絞る。
「このままでは風邪を引いてしまいます。あの木の下に行きましょう」
 あの木の下で、設楽には通じたようだった。はっとなったように彼女から離れ、設楽は頷いた。どちらからともなく手を握り、二人の言う“あの木の下”に向かう。
 あの木、とは、以前二人で臨海公園に来た時同じように雨宿りをした木のことだった。確かあの時も晴れていたのに突然雨が降ってきて、仕方なく木の下に避難せざるを得なくなった。そこで設楽はずっと彼女を木の内側に入れ、自分は盾となって、襲い来る雨粒から庇い続けてくれたのだった。
 ――お前がびしょ濡れで俺が濡れてないんじゃ、俺が嫌な奴みたいじゃないか
 彼の口から素直な言葉は出ない。けれども彼が自分のためにしてくれたことを、彼女は理解していた。設楽の身体がみるみるうちに濡れていくのを気にしながらも、彼の気遣いがただ単純に嬉しかった。今でも鮮明に覚えている。あの時のことは嬉しい思い出として、何年か経った今でも彼女の心を慰めてくれるから。
 木の下にやって来た後、設楽はあの時と同じように彼女を木の内側へと入れた。葉を広げているとはいえ、雨の掛からない範囲はとても狭い。設楽の肩には、容赦なく雨粒が降り注いでいた。
「聖司さん、もっと中に入った方が……」
「そうしたら、お前が濡れてしまうだろ」
 あの時と同じく、彼女の前に庇うように立ってくれた設楽の心遣いが嬉しくて、彼女の頬は思わず緩んだ。
「あの時と一緒ですね。聖司さん、わたしを雨から庇ってくれた。聖司さんはいつも優しくて、わたしのことをいつも気遣って……だからわたし、何にも気付いていなかったの。ごめんなさい」
「一体何を……」
「聖司さんの本当の気持ち。わたし、聖司さんはわたしと離れて留学するのをちっとも寂しがってないと思い込んでたんです。馬鹿ですよね。そんなわけ……そんなわけ、ないのに……」
 目から涙が溢れ、それ以上は言葉にならなかった。設楽はそんな彼女を抱き締めてくれた。今度は優しく。彼女が思う存分胸の中で泣けるように。雨に濡れない部分から徐々に温かさが広がり、二人の体温をじんわりと上昇させていく。
「……ああもう、本当に馬鹿だな」
 突き刺すような物言いに一瞬胸が痛むが、直後それが本気の言葉でないと知る。
「そんな気持ち、気付かなくて良かったんだ。なのに俺は……ああもう」
「……わたしは、気付けて良かった。だって同じ事を思ってたってわかって、本当に嬉しかったから……」
「俺は、お前に知られてたまるかって思ってた。笑顔のまま、パリに行くつもりだった。なのに雨が降り出して、お前の背中が霞んで……急に胸の奥がぽっかり空いたような気分になって……」
 設楽の腕の力が、少しだけ強くなる。
「今でも寒い。寒くてたまらない。暖めてくれ、俺を。そうでないと、本当に死んでしまいそうだ」
「わたしなんかで……いいんですか?」
「なんか、じゃない。お前じゃないと駄目だって、さっきも言っただろ」
 嬉しさが喉元まで込み上げ、彼女は設楽の背を掴む。彼にはかなわないけれど、それでもありったけの力を込めて設楽の身体を抱き締めた。自分の体温が、少しでも設楽の寒さを和らげてくれますように。自分の身体はどうなってもいいから、設楽が凍え死んでしまわないように。
「雨、止みませんね」
「通り雨だろう。多分すぐ止む」
 あの時と同じような会話を交わしながら、彼女は目を閉じて小さく願った。もう少しだけ降り続いてくれたらいいのに。そうすれば、その間だけ設楽と一緒にいられるのにと――
(2010.8.10)
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