これは何かの宿命なのだろうか、と思うことがある。思ったところで決して逃れられないし、逃れる気もないけれども、それでも自分の置かれている状況について、あれこれと考えずにはいられない。
手を握るだけならまだいい。握ったまま歩いているはずなのに、彼女のもう一方の手は自然な動作でするりと伸びてきて、設楽の身体のあちこちに触れる。指先が肩に触れたと思えば、今度は頬へ。目元の辺りをなぞって、頭にまで到達する。
ん、何だ、くすぐったい、やめろ――一応はそう言ってみるのだが、彼女の猛攻は止まらない。ごめんなさい、と一時手を引っ込めても、その手は耐えられないとばかりに再び動き出し、設楽の身体に密着する。そうすると安心するとでも言うように彼女の頬が緩むのだから、設楽はもう何も言えなくなって、彼女のなすがままとなってしまう。それを自分自身も嫌だと思っていないところが、また設楽の心を苦悩の螺旋へと誘うのであった。
ある日のデートの帰り道。いつもならあらゆる場所に触れられながら、気付けば彼女の家の前に来ているという有様なのだが、今日は違った。
ある瞬間、不意に彼女の手が止まったのだ。重力に従ってゆっくりと落ちていく彼女の手を、怪訝な目で追いながら、設楽は胸がざわめくのを感じた。こんなふうになるのは初めてのことだ。
「……どうした?」
尋ねても、彼女から答えは返ってこない。何故か設楽の顔を食い入るように見つめている。それこそ、穴でも開いてしまうのではないかと思うくらいに。
「なんだ。俺の顔に何かついてるか?」
少し強い口調で尋ねても、彼女はじいっと自分の顔を見つめるばかりで、少しも唇を動かそうとしない。設楽が耐えかねて足を止めると、少し遅れて彼女の足も止まった。設楽にどうしたのかと問うこともなく――思い切りそう問いたいのは設楽の方であったが――口をつぐんだまま、黙って設楽の顔を見つめている。
彼女がそうするならやり返してやれ、と彼女の瞳の中を覗いた設楽は、すぐに後悔する羽目になった。そこにはやや不機嫌そうな自分の顔が映っているだけだった。急激に恥ずかしくなって視線を逸らす。
すると今まで黙ったままだった彼女が、ようやく口を開いた。
「……時間が止まればいいのに」
「は……」
彼女の言葉の意味がにわかには飲み込めず、驚いて顔を上げた。
「このまま時間が止まったら、ずっと設楽先輩のこと見ていられるのに……」
「な、おまえ、何を……」
彼女の独り言のような呟きを、設楽は聞き逃さなかった。彼女はその言葉を発したきりまた口を閉じて黙り込み、じっとこちらに視線を寄越してきた。身体の体温が上昇していくのを感じ、設楽は思わず顔をしかめる。そうなる原因を作った彼女に急に苛立ちを覚え、照れ隠しも兼ねて、ずいと彼女に詰め寄った。
「おい、一体何のつもりだ。あんまりじろじろ見るな、失礼だろ」
「……いけませんか?」
「ああ、駄目だ。言っておくが、何があっても許す気は――」
冷酷な口調で切り捨てようとしたその時、彼女の顔が目に入ったせいで、設楽の言葉は止まってしまった。彼女は瞳を潤ませながら、懇願するような顔でこちらを見ていたのだ。
「どうしても、駄目ですか? わたし、先輩の顔ずっと見てたい……」
「な……」
みるみるうちに顔の温度が上昇していく。まるで金縛りにあったかのように、身体が固まったままぴくりとも動かない。彼女の視線に磔にされているような感覚。もともと見つめられるのが苦手だというのに、こんな顔で凝視されたらたまらない。
「な、おまえ、何言って――」
「だって、先輩の顔ってとっても綺麗だから……滑らかな輪郭も、瞳の色も、唇の色合いも、鼻の形も、全部綺麗で、すごく――」
「お……おまえ、やめろ――」
恥ずかしさで頭が爆発しそうになる。血が沸騰しそうなほどに熱くざわめき始める。彼女を振り払おうとしたその時、彼女は思いもかけない言葉を口にした。
「創作意欲、湧いてくるんですもん」
設楽は手を止め、驚きのあまり下顎が垂れ下がった状態のまま彼女をまじまじと見つめた。身体中を支配していた熱が、急激に冷めていくのがわかった。今までの自分の高揚感は何だったのだ――虚しさに襲われて、設楽は彼女を睨み付けた。
「おまえ、どういうつもりだ。創作意欲? また絵の話か」
「そうです。先輩の顔って、すごくそそるんですよ。見ているだけで何か描きたくなっちゃう。ここにキャンバスがあったら良かったのにな」
心底残念そうに言うので、設楽はますます苛々してきた。自分が勝手に早まっただけだったらしいということが、設楽の羞恥心を存分に刺激し痛めつけた。
彼女が芸術家と呼ばれる部類の人間で、美しいものに人一倍興味を示す性質を持っていたことをすっかり忘れていた。そもそも彼女が設楽に近づいたのも、それが理由だったのだ。顔の造形が美しいから。何故俺につきまとうんだと尋ねた設楽に、彼女はあっさりとそう言い放った。あまりに予想外の答えで、設楽の中で一瞬時間が止まったのを覚えている。自分に近づいて来る人間は、大抵自分のピアノに興味を示す人間ばかりだった。ピアノの音も綺麗だけど、と彼女は言った。聴きながら、設楽先輩の顔見て絵が描きたい。素直に自分の欲求を示した彼女に、一度だけその欲求を叶えるのを許したことがあるが、気が散ってピアノどころではなかった。確かに大勢の観客の視線に晒されてピアノを弾くのはある程度慣れているが、たった一人に、しかも自分のピアノではなくて身体の隅々まで見られているのだと思うと全く集中できず、何度も音を乱してしまう羽目となった。
それでもそんな彼女をいつの間にか恋愛対象として見るようになっていたのだから、自分も相当物好きだと言わざるを得ない。だからこそ、彼女が自分に芸術的興味しか抱いていないのだということを思い知らされる度、自分の心が闇に落とし込まれるような感覚に陥る。彼女が発する綺麗、も好き、という言葉も全て、そこには芸術的な意味しか込められていない。自分が彼女にそれらの言葉を発するなら、そこには一言で伝えられない意味がいくつも乗るのにと思うと、設楽は何度も悔しさに苛まれた。
設楽はふんと鼻を鳴らすと、彼女を思いきり睨み付けた。
「俺は帰る。もうお前を家まで送って行く気がなくなった」
そう言って身体を翻そうとすると、途端に彼女がしょんぼりと項垂れたので、設楽は足を止めざるを得なくなった。
「ごめんなさい。だって、設楽先輩のこと、好きなんですもん……」
一瞬心臓が止まりそうになるが、心の中で首を振って否定する。これは設楽の抱いているものと同じ類の“好き”ではない。
「どうせ、俺の顔が好きだとか言うんだろ」
「本当に綺麗なんですもん。奇跡みたいな顔、してる」
「ああもう、うるさい。そんな言葉は聞き飽きた。それより」
一度訊いてみたかったことを、この機会にと尋ねてみる。
「おまえ、顔の綺麗な奴全員にそんなこと言ってるのか?」
「綺麗だったら、綺麗って言いますけど。でも、わたしが出会った中で一番好きなのは設楽先輩です」
そこに恋愛的な意味が込められていれば、身悶えするほど嬉しくなるのに――一瞬そんなことを考えて設楽は首を振った。有り得ない話にあれこれ考えても仕方がない。いつかは自分に振り向かせてやるつもりだが、と心の中で決意しながら、設楽は仕方なく再び彼女の手を握った。
「ほら、早く行くぞ。おまえの親御さんが心配するだろ」
「はあい」
既に暗くなった住宅街の道を歩きながら、設楽は心の中で溜息をつく。こんなことがいつまで繰り返されるのか。だが、自分もやられっぱなしではいられない。
自分に出来ることといえばピアノの腕を磨くことくらいしか思いつかないが、いつか彼女を容姿ではなく自分のピアノに夢中にさせてやる――心の中で密かに、そう誓うのだった。