幸福な檻の中

「……聖司さん?」
 声を掛けながら隣を振り向くと、既に彼は目を閉じて眠りに就いていた。ベッドサイドの明かりに照らされて、彼の端正な輪郭が浮かび上がる。
 そういえば彼は今日、帰国したばかりなのだった。今更のように思い出して、急に恥ずかしさが込み上げた。きゅ、と身体を縮こまらせて、シーツの中に潜り込む。彼が疲れているのは当たり前のことなのに、それをすっかり忘れてしまっていただなんて。
 早くお前に会いたくて、必要最低限の荷物だけまとめて帰ってきた――空港でそう言い放った彼の言葉を、頭の中で蘇らせてもう一度再生する。愛してるとか好きだとかの言葉よりも何よりも、その言葉が嬉しくてたまらなかった。今でも思い出すだけで、じんわりと胸に温かいものが満ちていく。
 それと同時に、そんな彼を一心に求めるばかりだった自分の行為が恥ずかしくて、このまま彼を置いてここから逃げ出したくなった。設楽が起きたら何と言うだろう。下品な言葉を並べ立てて責めることはないだろうが、それでも皮肉の一つや二つ言われるのではないかと思うと、反撃するよりも先に羞恥が勝って消えたくなる。
 設楽から視線を逸らして、はぁ、と溜息をつくと、直後隣の彼が動く気配がした。驚いて再び視線を戻すと、彼は寝返りを打って自分の方に迫ってきていた。共有しているシーツを手繰り寄せるように握られ、とくんと心臓が跳ねる。本当は起きているのではないか、でも目は閉じたままだし――そんなことをぐるぐると考えていると、彼の口がぽかりと開いて、微かな声を吐き出した。
「――もっと、」
 思わずえっ、と驚きの声を洩らしてしまう。設楽は小さく息を吐いた後、もう一度その滑らかな唇を震わせた。
「おまえが、ほしい」
 心臓が飛んで、空の彼方に消えていってしまうのではないかと思った。ただの寝言だ。そう言い聞かせて速まる鼓動をなだめようとするのに、ちっとも収まらない。これ以上彼の寝顔を見ていたら自分が爆発してしまいそうだ。そう思うのに、視線は釘付けになったまま離れない。自分が少しでも動いたら、設楽の安らかに閉じられた瞼が開いてしまいそうな気がして、身体を震わすことすらできなかった。
 あの寝言は、本当にただの寝言なのだろうか。もしかしたら彼の真実の言葉として受け取っても構わないのだろうか。ついつい都合の良い解釈をしたくなって、彼に視線を釘付けにしたまま、内心で首を振る。朝、起きたら一番に謝らなくちゃ。心の中でそう決意をして、再び羞恥が込み上げ鼓動を鳴らし始めた心臓を懸命になだめようとする。
 自分はなんてはしたない女だろう。そう思うと落ち込んでしまった。相手は上流階級出身で、本来ならば手の届くところにいる相手ではないのだ。その隣にいるために、自分も彼にふさわしい、品のある美しい女にならなくてはならないはずなのに、自分の欲求のまま、彼を求めてしまっている。胸にナイフを突き立てたい気分になって、彼女はようやく設楽の顔から視線を外した。
 ベッドサイドの僅かな明かりに絶望の底を照らされて、もう覗きたくないと言わんばかりに首を振り、彼女は明かりを消そうとした。


 するとその時、突然自分の手に誰かの手が重なった。驚いてそちらを振り向くと、設楽が瞼を半分開いたまま、今消そうと動かした自分の手をじっと見つめていた。何度か目を瞬かせた後、ぐい、と彼女の手を引き寄せて、二人きりの世界に灯る明かりを消させまいとする。
「せ、聖司さん……」
 先程まで触れて欲しくてたまらなかったのに、何故か彼の手に逆らって動く自分の手。彼はそれでも手を離してくれなかった。じっとこちらを見ている。その眼差しに耐えきれず、彼女は視線を落とした。
「どうしてそんな顔をするんだ」
 責めるような口調に、ますます消えてしまいたくなる。頬を赤らめて、なんとか言い訳の言葉を紡ごうとするが、声は掠れるばかりで言葉にならなかった。
「何があった。もしかして、嫌、だったのか」
 彼女は驚いて顔を上げた。随分傷ついた顔の彼と出会い、胸が抉れるような思いがした。彼を傷付けるつもりなどなかったのに。唾を呑み込んで、改めて設楽と向き直る。言葉にせねばと思った。逃げているだけでは、ますます彼を傷付けるばかりだ。
「ちが、います。そうじゃなくて……」
「なら、何だ。言ってくれなければ分からない」
 喉元にまで込み上げてくる羞恥に耐えながら、彼女はなんとか言葉を紡ぎ出す。
「聖司さんが帰国直後で疲れているって、わたし、知ってたのに……それなのに、さっき、あんなふうに……あんなふうに、聖司さんに……」
 その先は、羞恥が言葉を覆い尽くしてしまった。けれどもすぐに温かな腕に抱き寄せられて、心臓がまた一つ跳ねる。ずっと感じたくてたまらなかった彼の体温。自分の全てを受け止めてくれる胸板の広さに、涙がこぼれそうになる。
「馬鹿だな。あんなにお前に、俺のありったけをぶつけたつもりなのに……まだ、足りないか?」
 え、と顔を上げると、設楽の真摯な視線とぶつかって心臓が止まりそうになる。
「おまえだけじゃない。俺もおまえが欲しくて仕方がなかった。だからおまえがあんなふうに俺を求めてくれて、本当に嬉しかった……ああもう、こんなことわざわざ言わせるな」
「聖司さん……」
「俺は疲れてなんかない。今猛烈に後悔してるくらいだ、眠気に負けてお前と過ごす時間を浪費してしまったことをな」
 そう言いながら向かい合った唇を塞がれ、息が出来なくなる。舌が侵入し、設楽の暖かい唾液で心を埋め尽くされる。おそるおそる舌を絡めると、じんわりとした熱が舌から全身に広がった。一度離れた後も、彼の瞳に視線が釘付けになる。情熱的にこちらを見つめてくる瞳。初めて出会った時のあの冷たい瞳をふと思い出して、そのあまりの温度差に魂を奪われそうになる。彼がこんなふうに自分を見つめてくれる日が来るなんて。嬉しくて嬉しくてたまらないのに、自分はまだ、彼の隣にいてもいいのかも、わからない。
「聖司、さん、もっと」
 羞恥を隠しながら微かに舌を出して誘うと、すぐに設楽の唇が乗る。口づけと口づけの合間に呼吸をしながら、その目に涙を浮かべて尋ねた。
「せいじさんのそばにいて、いいですか」
 自分の背に回した手に力がこもる。胸板に顔を押しつける格好になって、涙が彼の身体を伝って落ちていく。決して離すまいとするかのように、設楽の腕の力はますます強く束縛を重ねた。
「一生傍にいろ。離れるなんて許さないからな」
 胸が熱くなって、もう一筋、つうと目尻から涙が落ちた。自分は一生、彼の腕の中という檻に閉じ込められたままでいい――心から、そう思った。
(2010.8.16)
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