スウィートラバーズ

 照りつける日差し、打ち寄せる青い波、さらさらとした感触の白い砂浜。周囲はきゃあきゃあと声を上げて遊ぶ家族連れ、カップルたちでひしめいている。
 彼女は波打ち際まで行くと、素足で砂を蹴り、海水の冷たさにきゃっ、と小さく声を上げた。そのあまりの心地よさにうんと伸びをした後、広げたばかりのビーチパラソルの下に青いシートを引き、膝を抱えて座っている設楽を振り返った。
「設楽先輩も海、入りましょうよ! 気持ちいいですよー」
「嫌だ。足が汚れるじゃないか」
 設楽はあからさまに不機嫌そうな顔で、彼女の誘いを一蹴した。つまらないの、と彼女は口を尖らせた後、再び設楽のいる水色と白のビーチパラソルの下に戻ってきた。設楽は相変わらず不機嫌そうな顔で、海の向こうを見つめている。彼の機嫌が直ることは、ここにいる限りはおそらく、いや絶対にないのだろう。元々設楽は運動が苦手で、更に暑いのも苦手ときている。この夏の海は、設楽とは相性最悪の場所であった。
 それでも敢えて誘ったのは、彼女自身が海で泳ぎたかったからに他ならない。夏と言えばやはり海だし、海に来たら泳ぐのが当然。昔からそう思っていたので、設楽がこれほどまでに夏の海に対して嫌悪感を顕わにするとは思いもしなかった。よくよく考えてみれば当然のことで、しまった、と思ったが既に後の祭りだった。
 設楽は大きく溜息をついて、忌々しげにビーチパラソルを見上げた。
「どうしてこんなにも暑いんだ……日本、どうかしているんじゃないか?」
「仕方ないですよ。今、夏真っ盛りですから」
「それにしても暑すぎる。こんな時に外にいる奴の気が知れない」
 設楽は砂浜や海の中できゃあきゃあとはしゃいでいる人々を見回し、呆れたように溜息をついた。しょうがないなあ、と彼女は困った顔をした後、そうだ、と手を打った。
「先輩、何か飲み物買ってきましょうか。わたし、ちょうど喉が渇いて」
「ああ、じゃあ頼む」
 設楽は力ない声でそう言うと、再び向き直って海の向こうを眺め始めた。その様子を見ながら、彼女はこっそりと笑う。背を丸めている設楽がとても小さくて、とても可愛らしい存在に見えて、思わず微笑ましい気持ちになった。


 持ってきた赤いサンダルを履き、海の家まで歩いて行く。熱に焼かれた砂が、じりじりと足の裏を焦がした。確かに水の中に入らずに、こうして外にいるのは暑い。設楽のいるビーチパラソルの方を一瞬振り返り、設楽の気持ちも分からないではない、と心の中で思った。
 海の家の前には氷水の入った大きなクーラーボックスが置いてあり、そこから好きな飲み物を取って会計を済ませるという方式らしかった。お茶やコーラ、ジュースなどがたくさん置いてある中、どれがいいかななどと物色していると、突然後ろから甲高い声が上がった。
「カ~ノジョッ! あぁ、なんて可愛い……僕の真夏の女神!」
 嫌な予感がして、思わず振り向く。するとそこには真っ黒に日焼けした、体つきのいい中年男性が立っていた。やたらと身体をくねくねさせて、こちらに情熱的な視線を送ってくる。どうしようもなく込み上げてくる生理的な嫌悪感を感じ、思わず身震いした。
 うふっ、と気味悪い笑いを漏らしながら、男性はこちらに迫ってくる。
「ねえ、僕と一緒にビーチで楽しまない?」
「い、いえ、結構ですから……」
「なぁに、つれないじゃない! いいでしょ、ほらっ」
「い、いえ、あの――!」
 圧されて思わず後ずさりしたその時、誰かの身体にぶつかった。きゃ、と悲鳴を上げて、すみませんと言いながら後ろを振り向くと、そこには見慣れた人物が立っていた。
「おい。おまえ、なんのつもりだ」
「し、設楽先輩……!」
 パラソルの下にいたときよりも明らかに不機嫌そうな顔をして、設楽は男性を睨み付けていた。助けに来てくれたのか、それとも彼女を追ってきて偶然現場に出くわしたのかは分からないが、心の中に安堵感が満ちていく。
 設楽は小さな声で下がってろ、と言い、腕を伸ばして彼女の身体を守るようにしてくれた。彼の腕はビーチにいる他の男性よりも白くて華奢な腕だったが、こんなにも頼もしいと思えたことはなかった。
「何よ、アンタこそ! その子は僕が先に見つけたんだから!」
「ふうん……悪いが、こいつには先約があるんだ。……俺の女だからな」
 えっ、と彼女は思わず設楽の顔を見た。心臓が跳ね上がる。設楽の表情は変わらぬまま、男性を睨み付けたままだ。
 俺の女。その言葉が意味することはただ一つだ。けれども――彼女は設楽の横顔を見ながら、そっと胸に手を当てた。一度激しく鼓動を打ち始めた心臓の勢いが止まらない。どうしても浮かんできてしまう淡い期待をなんとか心の内に留めながら、彼女は動向を見守った。
 設楽の言葉の直後、男性はきぃ、と唇を噛んで、悔しそうな表情をした。
「ふ、ふん! 二人でデートを楽しめばいいじゃない、もう!」
 忌々しげに設楽と彼女を睨み付け、男性はあっという間に去って行ってしまった。呆気にとられる彼女の前で、設楽はふんと鼻を鳴らし勝ち誇った笑みを浮かべた後、彼女の方を振り返った。
「なんだよ、あいつ。負けるの早すぎだろ……大丈夫だったか?」
「は、はい。あの、助けてくださって、ありがとうございました」
「いや、別に気にするな。ああそれより、さっきの“俺の女”ってのは忘れろ」
 笑いながらそう言う設楽の頬が微かに赤らむ。はい、と頷きながら、彼女は口元が緩むのを押さえられなかった。たとえそれが本気でなくても、その言葉を口にしてくれただけで嬉しかった。


「あ、先輩。飲み物、選びますか?」
 最初の目的を思い出してクーラーボックスを指すと、設楽はああ、と頷いた。そうして再び飲み物を物色しようと、一緒にクーラーボックスの中を覗き込んだ、その時だった。
「ちょっと、そこの二人!」
 驚いて同時に顔を上げると、そこには海の家の店員らしき茶髪の若い男性が立っていた。耳にいくつかピアスをして、青系の色の派手な海パンを穿いている。いかにも今風といった雰囲気を漂わせたその男性はにっと笑って、設楽にウインクして見せた。
「よう、そこのカレシ、さっき格好良かったじゃん。カノジョのピンチに現れたりして。ヒーローみたいだったねぇ」
「…………」
 どう対応していいのか分からないらしく、設楽は黙ったまま男性を見つめていた。男性はその反応を見てクールだねぇ、と笑った後、二人に向かって海の家の中へと手招きした。
「飲み物、買いに来たんだろ? こっち来なよ、いいものサービスしてあげる」
 そう言うが早いか、男性は勝手に中へと入っていってしまった。残された二人は思わず顔を見合わせる。
「先輩、どうしますか?」
「さあな。何かくれるっていうなら、もらってやらないでもないけど」
 どうするか決めかねてその場に佇んでいるうちに、先程の男性が何かを持って現れた。
「ちょっと、二人とも早く中に来なって! 氷溶けちゃうから!」
「は、はい!」
 彼女は反射的に返事をしてしまい、こんな場所で立ち止まっていても仕方がないと、二人は履き物を入り口で揃えて置いた後、おそるおそる海の家へと足を踏み入れた。
 砂でざらざらとしたござの上はあまり気持ち良くはなかったが、日陰なのと扇風機が用意されていたのとで随分と暑さが和らいだ。設楽も険しかった表情を少しばかり緩めて、ふう、と安堵の溜息をついていた。
 男性に案内された場所に座ると、男性は手に持ったグラスを二人の前に置いた。
 ――そこまでは良かったが、やがて違和感に気付いた彼女は、驚いて男性を見上げた。男性はその反応がおかしかったらしく、くくっと笑い声を洩らした。
「ベストカップルな二人に、これ、俺からのプレゼント。じゃ、楽しんでってねー!」
「あ、ちょっ……!」
 引き留める間もなく、男性は颯爽とその場を去って行ってしまった。呆気にとられる彼女と、怪訝な顔をした設楽だけがその場に取り残される。彼女は溜息をついた後、目の前に置かれたものを見つめた。
「なんなんだ、これ?」
 設楽にどう説明するべきか、彼女は迷った。そこには一つの大きなグラスと、いっぱいに注がれた氷とオレンジジュース、そしてグラスの中央にささった、複雑に絡まり合うストローがあった。いわゆるカップルストローという物だと、彼女はすぐに思い当たった。何度かテレビなどで見たことはあるが、実物を見るのは初めてだ。
 自分と設楽の関係は、自分と設楽だけしか知らない。設楽の俺の女という発言が嘘だということも、あのナンパ男と店員は知る由もないのだ。だからこそ誤解されたのだろうが、このようなものを用意されては、どうにも反応に困ってしまう。
「これ、口が二つあるみたいだけど。もしかして、俺とおまえで一緒に飲めっていうのか?」
 設楽もそのストローの用途にようやく気付いたらしい。彼女が頬を赤らめてこくりと頷くと、設楽も驚いたように目を見開いた。
「いったいどういうつもりで……あの店員……」
「わたしと、設楽先輩のこと……その、誤解されたんじゃないですか。本物の恋人同士だって」
 設楽は一瞬赤くなった後、ああもう、と忌々しげに吐き捨てて髪を掻き上げた。そうして、グラスを彼女の方へ押しやる。
「ほら、おまえが一人で飲め。喉、渇いてたんだろ」
「でも、設楽先輩もすごく暑そうだったし……設楽先輩が飲んでください。わたし、いいですから」
 逆に彼女が設楽の方へグラスを押しやると、設楽は不機嫌そうに眉を顰めた。
「なんでだよ。俺だけ飲んでたら、まるで俺が酷い奴みたいじゃないか」
「そんなこと言っても……わたしだって、設楽先輩に悪いし……」
 俯きながら小さな声で言うと、設楽はもう一度ああもう、と呟いて、グラスを中央へ移動させ、ストローの片方の口を指で摘んだ。
「分かったよ、飲めばいいんだろ。そのかわりおまえも、ほら」
「え?」
「早く、ストロー持てよ。一緒に飲むしかないだろ」
 とくん、と心臓が跳ね上がる。落ち着いていたはずの鼓動が、再び激しく動き始めようとしていた。ストローの口は二股に分かれていると言っても、その距離はかなり近い。二人が顔を突き合わせて飲めば、額が触れ合ってしまうのではないかと思うような距離だ。設楽はそれでもいいのだろうか。自分は構わないけれど――そこまで考えて赤面した。
「ほら、早く。氷が溶けてまずくなるだろ」
「は、はい」
 設楽に促されて、おそるおそるストローの口を摘む。そうしてお互い顔だけ向かい合うと、急に恥ずかしくなって、お互い同時に視線を落とした。
「せーの――」
 設楽の合図で、二人同時にストローに口付ける。相手の額に触れそうなぎりぎりの距離で、小さくジュースをすすった。ちゅるん、と冷たいオレンジジュースが喉に流れ込んでくる。だがそれよりも額から全身に急激に熱が回り始め、オレンジジュースの冷たさだけでは対抗できないくらい、身体が熱くなり始めた。それは設楽も同じのようで、みるみるうちに頬の赤らみが強くなっていく。
 一度口を離した後、互いに向かい合うと、設楽は頬を赤らめたまま眉根を寄せて、不機嫌そうに言った。
「なんだよ。……おまえのせいで、余計に熱くなったじゃないか」
「す、すみません、でも、わたしも……」
「い、いや……別に、責めてるわけじゃない。ああ、もう、ああ……」
 設楽は溜息をついて再び髪を掻き上げ、彼女は俯いて膝に載せた手をぎゅっと握りしめる。
 まだ半分以上残っているオレンジジュースを前に、二人は途方に暮れた。けれども胸の鼓動が、それは決して不幸などではないと心臓を叩いて教えてくれているような気がした。
 もう一度顔を上げると、設楽の気恥ずかしそうな表情と出会う。設楽先輩も同じ気持ちなんだ、と思うと、急に嬉しさが込み上げた。再びストローの口に指を置いて、設楽の顔を見つめる。
「設楽先輩。せっかくだから、最後まで飲みましょう」
「……仕方ないな」
 不本意だ、と言わんばかりに、しかし僅かに嬉しそうに口元を緩めながら頷いて、設楽もストローの口に指を乗せる。せえの、と今度は彼女の合図で、二人は一斉にストローに口付けた。
 一瞬額が触れ合って、心臓が飛び跳ねる。触れた部分は急激に熱を集め始め、全身を焦がしたが、今はその熱に包まれていることが何より幸せなのだと思った。鼓動は相変わらず、それが不幸でなく幸福であることを教えてくれている。
 設楽先輩も、自分と同じ気持ちでいてくれればいいのに――彼女は心の中で、密かにそう願った。
(2010.8.27)
Page Top