設楽が初めて彼女と出会った時、彼女は目を閉じて音色を紡いでいた。設楽のピアノと同じ旋律を、心震えるような美声で歌い上げていた。最初は他の生徒にそうするように、彼女を音楽室の前から追い出してしまったが、その歌声はしばらく設楽の心に残り続けた。
設楽が他人の名前を覚えるのは珍しかった。クラスメイトの名前でさえろくに覚えていないのに、彼女の言葉は全て脳内に記録され残されていた。当然その言葉の中に含まれていた、彼女の名前も一緒に。
きっとピアノを弾いていれば、また会いに来てくれるに違いない。設楽は心の奥底で、密かにまた彼女の歌声が聞けることを願った。
その思惑は、果たして当たっていた。彼女の歌声が廊下から聞こえてくると同時に、何も言わずに演奏を止め、音楽室から顔を出した設楽に、彼女はしまった、という顔を見せたが、設楽は頬を掻いて、視線を逸らし気味に言った。
「その……おまえ、歌が好きなのか」
予想外の質問だったらしい。えっ、という戸惑いの声が聞こえ、設楽の緊張が増す。だが一瞬の後、彼女ははい、と嬉しそうに答えた。
「音が聞こえてきたら、歌いたくなるんです。ご迷惑……でしたよね、ごめんなさい」
「いや……おまえの歌、悪くない、と思う」
設楽がそう言うと、彼女は俯きがちな顔を上げて、ふわりとした笑顔を見せた。
「本当ですか? 嬉しい……ありがとうございます」
「……別に褒めたわけじゃない。耳障りじゃないっていうだけだ」
照れ隠しにそう言うと、彼女はふふ、と唇を震わせて笑った。その仕草がとても愛らしく、設楽の心臓は不意に跳ね上がった。
彼女を音楽室に引き入れ、ピアノの前に座る。鍵盤に指を乗せ、彼女を見た。
「ここで歌ってみろ。ただし、外したら承知しないからな」
「はい。ありがとうございます」
やがて動き始めた設楽の指に合わせ、彼女が喉を震わせる。小鳥たちが朝さえずるような、可愛らしくも美しい歌声。ピアノから一瞬目を離し、歌う彼女を見てしまった設楽の心臓は、刹那激しく鼓動し始めた。彼女にああ言った手前、自分も音を外さぬようピアノに集中しなければと思うのに、彼女からどうしても目が離せない。
他人を見ているだけでこんなふうに心が乱れるのは、初めてのことだった。
ある日曜日、二人はライブハウスに訪れていた。一人では滅多に行かない場所だが、彼女とは何度も訪れている。最初は彼女から誘われて行ったのだが、それ以来すっかり気に入ってしまって、最近では設楽から誘うこともあった。
ライブハウスで演奏される音楽は、設楽が普段あまり聴かない類のものばかりだが、それゆえに新鮮で、クラシックとはまた違った風に心を揺さぶられる。聴く前はうるさいだけだと思っていたが、新しい旋律と出会った時の衝撃はとてつもなく大きいもので、まるで未知の世界に連れて行かれたかのようだった。自分がどうしようもなく音楽を愛している人間なのだと悟ったのも、それからのことだ。
その日はジャズバンドの演奏が行われていた。暗い会場で、演奏者たちに当たるライト。時に優しく、時に激しく打ち鳴らされるドラム。スポットライトが当たると同時に、指を自在に動かしながら気ままに旋律を操るトランペット奏者とサックス奏者。全ての音を支えるようかのような重みのある音を放つ、ベースギター奏者。そして、普段は奥でひっそりとキーボードを鳴らし、スポットライトが当たると同時に高らかに歌い出すボーカルの女性。また新しい世界と出会い、設楽は一気に魅了されていた。それは隣にいた彼女も同じのようで、時折すごい、と感嘆の溜息を洩らしていた。一曲演奏が終わるごとに、二人は惜しみない拍手を送った。
全ての演奏が終わり会場を出た後、彼女は今まで胸に溜めていたものを吐き出すように、深く息をした。
「……すごかったですね。わたし、感動しちゃった」
「ああ、俺もだ。特にあの弾き語りしていた女性。すごかったな」
そう言うと、彼女も同意するようにゆっくりと頷いた。
「とても素敵でした。あんな声、出してみたいです。聴いている人の心を震わせられるような声……」
そう言いながら、彼女は小さく俯いて、先程演奏されていた曲を口ずさむ。おまえの声も、十分にすごいじゃないか――そう言おうとして、喉に言葉がつかえた。素直に人を褒めることが出来ない自分に嫌気が差したが、言ったら言ったで気恥ずかしい思いをする羽目になるだろうと思ったので、何も言わなかった。
出口に向かって歩きながら、設楽は先程の曲を脳内で反芻していた。おおよその旋律は覚えている。隣では彼女も同じように口ずさんでいるから、記憶の補完にだいぶ役立っていた。
薄暗いライブハウスを出て、外の眩しさに目を細めながら、設楽はとても清々しい気分だった。それは心を悩ませていたものが全て洗い流され、新たな夜明けを迎えたかのような――
隣でなおもメロディーを口ずさんでいる彼女を見ながら、設楽は口を開いた。
「明日の放課後、音楽室空いてるだろ」
「はい、そうだったと思いますけど……弾きに行くんですか?」
「ああ。おまえも来いよ。用事、何もないだろ」
彼女は一瞬驚いたように目を見開いた後、こくりと頷いた。
「はい。でも、珍しいですね。設楽先輩が自分から音楽室に来いって言うの」
「なんだ。俺が来いって言ったら悪いのか?」
少し口を尖らせてみると、彼女はくすりと笑って首を横に振った。
「もう、そんなこと言ってません。じゃあ、授業が終わったら行きます」
「ああ。全速力で来いよ」
「努力します」
そう言って、彼女は嬉しそうにふふっと笑った。設楽の頬もつられるようにして緩む。明日の楽しみが一つ増えた。いつもなら日曜日の夜なんて憂鬱で仕方がないが、今日はそういう思いをせずに済みそうだな、と、設楽は唇の端でそっと微笑みながら、橙色に染まり始めた空を仰いだ。
次の日の放課後。設楽は授業が終わってすぐに音楽室に急いだ。
がらりと扉を開けると、そこには荒く息を吐く彼女が立っていた。扉の音に反応して振り返り、息を整えながら微笑む。
「設楽、先輩……約束通り、はぁっ、全速力で、来ましたよ」
「ああ、それでいい。けどおまえ、それで歌えるか?」
えっ、と彼女が目を見開く。
「歌、ですか? もう少し休んだら大丈夫だと思いますけど……」
どうして、という疑問の言葉が出る前に、設楽は荷物を適当な場所に置き、ピアノの前に座った。そうして昨日のメロディーをもう一度反芻する。
頭の中に流れてくるまま、指を動かし始める。幼少時から既に何万回と触れてきたピアノは、設楽が思い描く通りのメロディーを奏でてくれた。それを聴くうちに、彼女の表情がみるみるうちに変わっていく。
「それ、昨日の……」
設楽は指を止めて、彼女を真っ直ぐに見た。
「ほら、歌えよ。昨日のあの人の歌声……おまえなら、再現できるだろ」
「で、でも、わたし、あの人ほど上手く歌えない……」
躊躇うように目を伏せる彼女に向かって、設楽は力強い口調で言った。
「だったら練習すればいい。俺だって今日初めて弾くんだ。完璧にはいかないが、それでも弾く。あの人みたいに弾きながら歌うなんて、俺にはそんな器用なことできないし、したこともない。でも、二人いればできるだろ」
「設楽先輩……」
設楽の言わんとすることを、彼女はゆっくりと汲み取ってくれたようだった。
「はい。あの人みたいにはまだ歌えないけど、歌ってもいいですか?」
「そうしろ、ってさっきから言ってる」
設楽がそう言うと、そうですね、と彼女は笑った。何もかも吹っ切れたような、清々しい笑顔だった。
言った後で、全く自分らしくもない言葉だ、と設楽は内心苦笑する。彼女に出会うまで、あんなにピアノを弾くのが嫌で嫌で仕方がなかったのに、こんなにも偉そうに彼女に練習すればいい、なんて言っている。
あの頃は新しい曲に挑戦しようなんて考えもせず、ただずっと、あの因縁の曲を弾き続けていた。そうしているとますます過去にとらわれるばかりで、到底前になど進めなかった。けれども今は違う。彼女と出会い、音楽というものの楽しさを、心に触れる感動を再び知った。彼女の美しい歌声に触れることで、心を汚していたものが綺麗に洗い流されていく気がした。
だからこそ言える。真剣に音楽に取り組めば、きっとできないことなどないのだと。自分と彼女で、より美しい旋律を奏でることだってできるのではないかと――
「よし。いくぞ」
彼女がこくりと頷くのを見た後で、設楽は記憶の糸を辿りながら、音色を奏で始めた。すぐに彼女の口が開き、喉が震える。高らかに彼女らしく歌い始めるのを見ながら、設楽は自然と微笑みを浮かべていた。
自分もそれに負けるわけにはいかないと、真剣にピアノと向き合う。音色の高まりが、設楽の心までも昂ぶらせていった。彼女も同じように思っていればいいと、心の奥で密かに願った。