無意識下の攻防

 彼女を思って初めて手を己の劣情で汚した夜、設楽は固く決意した。もう二度とこんなことはすまい、と――
 己の弱さに負けてしまった後は、とてつもなく大きな罪悪感に襲われた。自分の手が止まらなかったことに対する絶望感、そして自分の邪な想像で彼女を穢してしまったという罪悪感。それらが交互に、あるいは同時に設楽の心を襲い、それがぼろぼろになるまで喰らい尽くした。自分が崇高な人間でないことは前々から分かっていたつもりだったが、まさかここまで卑しい人間だったとは、と絶望感に苛まれる。
 設楽はズボンを上げると、よろよろと歩いて手を洗いに行った。その間も強烈な匂いは常に設楽の鼻を刺激し続け、自分が犯した罪の大きさを、いやというほど自覚させるのだった。
「……二度とだ」
 血が滲むほどに唇を噛み締めながら、設楽はきつく誓う。もう二度とこのようなことはしない。劣情に負けて己の手を汚すことも、彼女自身を穢すこともすまいと。蛇口を全開にし、完全にその痕跡が取れるまで、白濁液で粘ついた手を激しい水流で洗い流し続けていた。


 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、設楽は立てた誓いを守り、邪な想像に耽ることも、また己の劣情を吐き出すこともしなかった。しかし時折気が緩むと、そちらへと思考が飛んで行きそうになった。その度になんとか踏みとどまってみるものの、心の中のもやもやと淀む感情は解消されず、常に苛々する羽目となった。その間にも襲い来る強烈な性欲は、設楽の心を悩ませるに充分な威力を持っていた。
 その間、学校で彼女と会わなかったのは幸いだった。彼女に会えば、あの時自分がしていた妄想が全て蘇ってくる気がした。そうでなくてもそちらに思考を飛ばさないように努めるのがまず大変だというのに、彼女を見てしまった瞬間、とどめていたものが全て決壊してしまうような気がして、恐ろしくてならなかった。
 その更に次の日の放課後、設楽は普段通り、空いている音楽室に向かっていた。
 ピアノの前に腰を下ろし、指を構える。そうしてゆっくりと指を動かし始めた時、遠くから上履きの音が聞こえた。設楽は思わずはっとする。
 やがてがらりと扉が開いて、控えめに微笑む彼女が顔を出した。
「先輩、やっぱりここにいたんですね」
 思わず演奏を止めて立ち上がった設楽の全身に戦慄が走った。直後、恐れていたとおりのことが起こる。数日前自分がしていた卑しい妄想が、頭の中に鮮明に蘇ってきたのである。
 妄想の中の彼女は、生まれたままの姿を晒して設楽を誘っていた。恥ずかしげに頬を染めながらも、脚を開いて設楽にその麗しき花園を見せつける。あまりに悩ましい姿に設楽は目を逸らそうとしながらも、実際にはできず、ただただ膨れ上がった卑しい塊に、快感を与え続けるばかりだった。その時の光景が今、はっきりと脳内に現れたのだ。
 ここ数日禁欲生活を続けていたせいで、設楽は限界にきていた。下着の中で大きくなっていく己の劣情を感じながら、設楽は彼女から目を逸らした。これ以上純粋な彼女の笑顔を見ていることなど、耐えられなかった。
 設楽のおかしさに、彼女もさすがに気付いたのだろう。首を軽く傾げて、怪訝そうな顔でこちらを見てくるのが分かった。
「設楽先輩? どうかしたんですか?」
「……うるさい、あっち行ってろ」
 首筋に脂汗が垂れる。唇を噛み締め襲い来る情欲に耐えながら、設楽は苦し紛れに言葉を発した。直後、彼女ははっ、と口を覆った。元々設楽が他人に自分のピアノを聴かれるのが嫌いで、聴きに来る生徒をことごとく追い払っていたのを思い出したのだろう。既に一流音大に進むことを決め、彼女にはピアノと向き合う決意を話した後だったが、みるみるうちに罪悪感に苛まれた表情に変わっていく彼女の顔を横目で見ながら、設楽は心を食い尽くされるような感覚に陥るのを感じていた。
「あ、あの……ごめんなさい。邪魔してしまって……」
 傷ついた表情でそれじゃ、と短く告げると、彼女はそのまま背を向けて出て行ってしまった。
 去っていく彼女の後ろ姿を見ながら、設楽はくそっ、と言葉を吐き捨てる。彼女を傷付けるつもりなどなかったのに――悪いのは全て自分だ。情欲を抑えきれないのも、それに耐えきれぬ軟弱な精神を持っているのも、全て自分。それなのにまるで彼女がここへ来たせいであるかのようにして、彼女を追い出してしまった。
「ああ、もう、ああ……」
 設楽は髪を掻き上げて、大きく溜息を吐いた。それでもなお、下半身は解放を激しく訴え続けている。設楽はちらと視線を落とし、きつく首を振った。彼女を傷付けた上自分の誓いまで破ってしまうことなど、自分のプライドが許さなかった。
 設楽は再びピアノの前に座ると、続きを弾く前に、指を思い切りピアノに叩き付けた。酷い音が耳をつんざき、指がじんじんと痛んだけれども、今の設楽はそれらに気を取られている暇などありはしなかった。


 その日の夜はなかなか寝付けなかった。苛々しながら寝返りを打っているうちに、どこかから声が聞こえてきた。設楽がはっとして顔を上げると、そこには悩ましげに微笑む制服姿の彼女がいた。思わず胸の鼓動が大きくなる。
「設楽先輩」
「おまえ……」
 何故こんなところにいるのかという疑問は、不思議なことに浮かばなかった。ただただ彼女に縋り付きたいと、設楽は手を伸ばしていた。彼女は頬を紅に染めて、手を膝の前で合わせている。
「設楽先輩。わたしに、お仕置きしてください」
「な……」
 予想外の言葉に、設楽は目を丸くした。しかし彼女は冗談を言っているふうではなかった。首のリボンタイを外し、ブレザーをするりと脱ぎ捨てて、彼女は懇願するように設楽を見上げた。
「わたし、悪い子なんです。だって……」
「だって、なんだ?」
「だって、設楽先輩のことを思って、我慢できなくなっちゃったから……」
 こんなふうに。そう言って、彼女はスカートを何の躊躇いもなくまくり上げた。設楽は思わず生唾を呑み込む。くっきりと湿った跡のある下着。しかも、彼女はあろうことかその中に指を差し入れ、するりと下げてしまった。心臓を鷲掴みにされたような感覚が襲う。彼女は茂みの中に白く細い指を入れて、設楽に滴る禁断の園を見せつけた。
「ほら……こんな……」
「おまえっ、……何を……!」
 耐えきれず目を逸らそうとしたら、突然彼女に腕を掴まれる。不意に振り返った後、彼女の潤んだ瞳と出会って、完全に身体が固まってしまった。鼓動が速くなる。どうすれば良いのか分からなくて、彼女の瞳を捉えたままでいると、彼女はゆっくりと手を離して、その手を自分の秘めたる部分にそっと下ろしていった。
 同じようにそっと視線を下ろしたその瞬間、設楽は目を瞠った。彼女は溢るる泉に指を置き、快感を与えるように擦り始めたのである。無論その口から、湿った息を断続的に吐き出しながら。
「はぁっ……んぅっ、はあっ……」
 あまりに刺激の強い光景に、設楽は眩暈がした。と同時に反応し始める下半身に、今まで溜まりに溜まっていたものが、耐えきれなくなった。
「設楽、先輩……はぁっ」
 息を吐き出しながら、名前を呼んでくる。
「設楽先輩も、苦しかったんでしょう……? ほら……」
 ズボンの上から彼女の細い指でやわやわと撫でられ、ぴくんと身体が震える。
「や、めてくれ……」
 手を振り払おうとしたが、力が入らず振り払いきれなかった。彼女の手がするりと伸びてきてチャックを下ろし、いきり立ったそれを解放する。勢いよく飛び出してきたそれを見ながら、設楽は羞恥心のあまり消えたくなった。こんな姿を彼女の前で晒すなど、情けないことこの上ない。
「やっぱり……ほら、設楽先輩も、一緒に……」
「う……」
 抗いきれない何かがあった。設楽は躊躇いつつも下着を下ろし、自分の欲情の塊に手を伸ばした。少し触れただけでも、電流のように快感が走る。ぐいと握ると、背が仰け反りそうなくらいびくりと震えた。彼女はそれで満足したように頷き、再び自分の花びらを擦り始めた。
「はっ、あぁ、んんっ……」
 そこから視線を逸らすことが出来ないまま、設楽も欲望に従う。手を激しく上下させ、数日間触れたくても触れなかったそこへ、強い刺激を与え続ける。苦行の後の快感だったせいか、あの時の何倍も強い快感が全身を走り抜けた。
「うっ……く、ぁああっ……」
 急激に強い射精感に襲われた。彼女の唇がそっと微笑みの形に歪む。そうして設楽を快楽の世界へ誘うかのように、もう一方の手を伸ばしてきた。
「設楽先輩、一緒に……」
「っ、あぁぁっ――!」
 我慢の、限界だった。
 叫ぶと同時に、設楽は意識を失った。


「――っ! はあっ、はあっ……」
 設楽は思わずがばりと起き上がっていた。既に窓からは明るい光が差し込み、鳥のさえずりが朝の訪れを告げていた。
「夢、なのか……」
 設楽は髪を掻き上げ、思わず深い溜息を吐く。それにしては鮮明に残る感触に、設楽はむず痒さを覚えた。胸の下辺りがぞくぞくして気持ちが悪い。うっかり夢の内容を反芻しそうになって、真っ赤になって首を振った。決して二度と思い出してはならない。心の奥に鍵を掛けて封印せねばと、設楽は固く心に誓った。
 妙に身体が心地よかった。快感の海に浸かったまま抜け出せていないような感覚に、設楽はしばらくぼうっとしていた。だが次第に心も体も現実へと戻ってきて、設楽ははっとした。
 下半身の妙な感覚。まさか、と思って、思わず視線を落とす。
「なん、だよ、これ……」
 それが何なのか、設楽は知っていた――紛れもない、自分自身の情欲の塊。
 絶望感がひしひしと迫る。禁欲生活が祟ったのか、それともあんな煩悩まみれの夢を見てしまった自分が悪いのか――設楽にはもう、既に理由などどうでも良かった。
「……あぁ、もう、ああ……」
 脱力して、ベッドに再び仰向けに倒れ込んだ。外では鳥が恨めしいほどにさえずり続け、日差しは容赦なく設楽の目を刺す。
 朝など来なければ良かったのにと、設楽は唇を噛み締めた。もう何もしたくなかったが、きっと自分から出て行かねば誰かが起こしに来るだろうと考えるのも嫌だった。いっそ布団の中にこもってずる休みしてやろうかと考えないこともなかったが、微かに漂うその匂いに、自分の心が耐えきれるかどうかは実に怪しかった。
 なんとかして、誰にも気付かれぬよう、処理を。そう考えたが、洗濯機の回し方も分からない設楽には、とてつもなく敷居の高い行為だということに気付いて、設楽は再び絶望の底に落とされた。
(2010.9.10)
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