背に手を回されて、ふわりと身体が持ち上がる。そのまま攫われるようにして、唇を奪われた。薄い皮膚同士がぴたりと密着して、とくんと心臓が跳ね上がる。
その距離はあまりにも近かった。人がいないひっそりとした薄暗い廊下であるとはいえ、微かな羞恥心が揺らめく。けれども逃げることは許さないとでも言うように、設楽は回した手に力を入れて、自分の方へと引き寄せた。触れた部分から温もりが伝わって、全身に回る。唾液で濡らされた唇がてらてらと光る。
長い口づけの後、そっと離れて見つめ合う。微かに頬を染めて、上目遣いに。設楽は指を差し入れてタイを直すと、唇の端に笑みを浮かべて、彼女を見つめた。
「今日のおまえ、本当に綺麗だ」
またも心臓が高鳴る。そっと視線を落として、自分の新調したドレスを見やる。薄桃色のイブニングドレスはまだ着慣れず、妙にそわそわした。
そもそも普段このような衣装を纏う機会などほとんどない。設楽は昔から社交界にいる人間だから、タキシードも肌の一部のように着こなしているが、自分は違う――そのことに先程まで少しばかりコンプレックスを抱いていたのだが、設楽の言葉に少しほっとした。
「ほら、行くぞ」
手を差し出されて、一瞬同じように手を出しかけて躊躇する。唇に残る設楽の感触を名残惜しく思いながらも、上目遣いで言った。
「あの、でも、もう一回口紅、直してこないと……」
キスをした後だから。そう言わずとも設楽は分かってくれたようだった。あぁ、と頷いて、トイレに行ってこい、と言う――のではなかった。設楽はズボンのポケットから、あらかじめ用意していたらしいものを取り出してきた。それを見た時思わず目を疑った。
「聖司さん、それって……」
まごうことなき口紅。設楽はああ、と頷いて、静かにキャップを外した。
「おまえにプレゼントしようと思って。せっかくだから今、ここで塗ってやる」
「あの、でも……」
「いいから。おまえは大人しくしてろ」
ぐいと顔を上に向けられ、視線が泳ぐ。不意に設楽の不敵な笑みとぶつかり、再び心臓が跳ね上がった。設楽は口紅を視界の端にちらつかせながら、ゆっくりとそれを彼女の唇に押し当てた。
「動くなよ」
顔を動かさない程度に、微かに頷く。すると押し当てられた口紅が、ゆっくりと唇の端へとスライドしていった。そのやや強い圧力と、自分の唇が今どうなっているか全く分からない不安とで、心が揺れた。
上唇が終わって、次は下唇へ。ゆっくりと、しかし滑らかに動いていく口紅。塗り終わった後で、設楽の手が彼女の顔から離れた。ゆっくりと視線を下ろし、唇の周辺に触れる。そっと唇に触れた後指を見ると、そこには真っ赤な口紅が付着していた。先程まで自分が付けていたのは、桃色の明るい口紅だったのだが――まるで血のような真紅色に、彼女は思わず目を見開いた。
「気に入ったか?」
おかしそうに笑う設楽にどう反応すればいいか分からず、視線を彷徨わせる。すると設楽は再び彼女の背に手を回し、そっと引き寄せた。
「もう一回。できるか? 俺の唇に。ああ後、シャツの目立たない場所に」
設楽の意図が読めずえっ、と戸惑いの声を上げると、設楽は微かに笑いを洩らした。
「おまえの印、俺に刻めよ。さあ」
ああ、と声を洩らして、彼女は全てを理解する。それは彼女が設楽を愛する証。そうして設楽が彼女を愛する証。その証を、分かる形で、紅の刻印として残して。
「聖司さん、愛しています」
そう言って、彼女は少しつま先を立てて設楽の唇に触れた。ゆっくりと、しかし深く唇を埋めて。離れた後、設楽の唇までもが真っ赤になっているのを見て、思わず笑みがこぼれてしまう。
「聖司さん、真っ赤……」
「おまえだって真っ赤だろ。お互い様だ」
そう言ってくすくすと笑い合う。その後、設楽はシャツのボタンを胸元まで外し、指を差し入れて鎖骨辺りの素肌を剥き出しにすると、ここに、と無言で指差して合図した。
彼女は喜んでその場所に口付ける。自分の刻印が残りますように。自分が一生傍にいると決めた人に、改めてその誓いをするために――
設楽のやや白い肌の上に、彼女の真っ赤な唇の形はよく映えた。ダンスパーティはこれからなのに、と彼女が言うと、設楽は首を振った。
「これからだから、だろ」
彼女の腕を優しく掴んで、歩き出す。設楽の革靴と彼女のヒールの音が、やけに大きく響き渡った。
「おまえを正式に紹介する。俺のパートナーとして」
はい、と頷いた彼女の唇は、真っ赤な幸せ色に溢れていた。